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福岡県・高取焼

「高取焼」

筑前福岡藩主・黒田長政

朝鮮陶工・八山(和名=鷹取八蔵茂貞)に

鷹取山山麓に築窯(「永満寺宅間窯」)させたのが

始まりとされています。

 
 
「髙取焼」は幾度も移窯・増窯を経てきた窯で、
その変遷に伴い、作風にも違いが見られるため、
  • 古髙取   (永満寺宅間窯・内ヶ磯・山田窯)
  • 遠州髙取
  • 小石原髙取 (小石原鼓窯・小石原中野窯)
  • 東山髙取
  • 西山髙取
の5期に分類されています。
 
 
「古高取」は20年程の短期間に過ぎませんが、
同時に、美術的に高い評価を受ける名品が作り出された、
高取焼の「黄金期」でした。
「永満寺宅間窯」「内ヶ磯」「山田窯」の三窯時代です。
福岡県直方市には、
高取焼発祥の 「宅間窯跡」と「内ヶ磯窯跡」があります。
現在、 「内ヶ磯窯跡」は福智山ダムの水中に沈んでいますが、
発掘調査で知られた知見は、
これまでの高取焼の常識を書き換えるものとなりました。
「山田窯」は、
長政没後に、
髙取八山らが朝鮮への帰国を願い出て藩主忠之の勘気を被り、
扶持を召し上げられ
嘉麻郡上山田村へ蟄居させられた時代に
少数の門弟らとともに、
日常身辺の焼物を焼いた窯と伝えられています。
現在は石炭採掘により、
一帯はボタの捨て場所となり、 完全に埋没しています。
 
 
その後、遠州好みの瀟洒な茶器、「遠州高取」が製作されました。
その頃の中心は「白旗山窯」です。
「白旗山窯」は、山田村へ蟄居を命じられてから6年後、
帰参を許された髙取八山らが白旗山の麓で新たに築いた窯です。
2代目藩主の黒田忠之は、伏見奉行の小堀遠州と交流を深め、
小堀遠州のもとに八蔵とその子八郎右衛門を派遣して、教えを請い、
その後、遠州好みを多く焼かせたことから、
「遠州七窯」の一つに数えられ、
茶陶産地として名を高めることとなりました。
「遠州七窯」とは・・・
江戸時代の著名な茶人である 小堀遠州が目をかけ、
称賛した7つの窯場であり、次の7窯を指します。
  1. 筑前の高取焼
  2. 志戸呂焼   (しどろやき)
  3. 近江の膳所焼 (ぜぜやき)
  4. 豊前の上野焼 (あがのやき)
  5. 山城の朝日焼
  6. 大和の赤膚焼 (あかはだやき)
  7. 摂津の古曽部焼(こそべやき)
※「古曽部焼」ではなく「伊賀焼」を含める場合もあります。
 
 
「小石原鼓窯」
初代八蔵重貞没後に、長男八郎貞清病弱のため二代目を継いだ
次男八蔵貞明が上座郡鼓村釜床に新たに築いた窯です。
この時代に焼かれた作品は、
一般に「小石原髙取」と呼ばれています。
 
 
一方、「小石原中野窯」
病弱であった八郎右衛門貞清の次男八之丞が
寛文9年に小石原村中野へ移り住みました。
そこから鼓村へ掛け勤めを行いました。
 
 
18世紀には「東皿山」と「西皿山」に分けられ、
細分化されていきます。
 
「東皿山」は、主に茶道器を製造する窯場でした。
この頃から廃藩置県までのおよそ150年間に渡って活動し、
髙取家の歴代は「小石原鼓窯」に半年、
「東皿山窯」に半年と、「掛勤」をしていました。
 
一方、「西皿山」は東皿山の西に増窯され、
一般の庶人を対象とした
徳利、食器、甕、すり鉢等を製造する窯場だったとされています。
明治4年の廃藩置県により廃藩窯となり、
高取焼宗家の火は一旦消えてしまいます。
 
 
昭和33(1958)年、
だだ一人の直系子孫である第11代 静山よって、
髙取焼は再興されます。
 
静山(本名:静)は
明治40年に裕福な高取焼宗家の長女として誕生します。
父親の事業失敗により、一旦は村の小学校の代用教員になります。
その後、勉学のため上京。
昼間は仕事をしながら、夜は日本大学で国文学を学びます。
やがて、東京で結婚。
3人の子供を育てていた時、
窯を再興するため父十代富基に呼ばれ、
東京と九州を往復しながら手助けをすることになります。
ところがその父が心労のため急逝。
更には戦争の波が窯の火を消し去っていきました。
 
そして昭和33(1958)年に髙取焼を再興。
離婚をし、女であることを捨て、
世間の嘲笑と中傷、貧困と戦いながらの再興でした。
時に、青山は50歳。
昭和36(1961)年、
第一回目の個展が三越本店で開かれるのを機に
遠州流宗家十一代宗明宗匠に「静山」と号を頂き、
髙取焼十一代・髙取静山が誕生します。
そして現在も、東峰村大字小石原鼓釜床で、
静山の子孫が十三代高取八山として、
「高取焼宗家高取静山窯」を継承しています。