兵庫県のやや東に位置する西脇市。
大正時代には、
西脇市の北緯35度東経135度は「日本の真ん中」と
認定されたという歴史を持ちます。
芸術家の横尾忠則氏を輩出した地としても知られています。
歴史
「播州織」 (ばんしゅうおり)は西脇市を代表する地場産業です。
「播州織」は江戸時代中期の寛政4(1792)年に
比延庄村の宮大工・飛田安兵衛(ひだやすべえ)が
京都西陣から織物の技術を持ち帰ったのが起源と伝えられています。
元々西脇市域を始めとした播磨国は、
温暖な気候を生かした綿花栽培が行われており、
自給自足で衣料が作られていたことから、
綿花を原材料とした織物が村々に次第に広がり盛んになりました。
また、西脇市は、
播州平野から中国山地に移行する地形の変換点に位置しているため、
加古川・杉原川・野間川などの河川が集まっており、
染色業に不可欠な水資源が豊富なことから、
織物業が発展する基盤が整ってもいました。
飛田安兵衛(ひだやすべえ)は宮大工で、
京都で「菅大臣神社」(かんだいじんじんじゃ)の再建に当たっていた際、
その傍ら織機製作を習得したことから、
当初は「菅大臣縞」がなまり「勘大寺縞」(かんだいじじま)と
言っていましたが、
後に「播州縞」と改称されました。
菅大臣神社(かんだいじんじんじゃ)
菅原道真公を祭神とする神社。
この地は元々、道真公の邸や「菅家廊下」と言われた学問所のあった跡であり、誕生の地と伝えられ、天満宮誕浴の井が保存されている。また「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ」と詠まれた飛梅の地もココ。
- 住所:〒600-8444 京都府京都市下京区菅大臣町187
- 電話:075-351-6389
明治時代後期には力織機の普及により、
家内工業から工場生産への移行し、西脇市域の生産は急増。
この頃に、「播州縞」から「播州織」に改称します。
大正期には、鉄道の開通で都市部での消費が拡大し
「播州織」の名は全国に広がりました。
第一次世界大戦後は、東南アジア向けの海外販路を拡大し、
輸出向け中心の産地に転換しました。
昭和に入ると、業者数・生産額ともに飛躍的に増大。
第二次世界大戦後も、
新製品の開発やアメリカ市場の開拓による販路拡大により、
織機が一度「ガチャ」っと音をたてると1万円儲かると言われた
「ガチャマン景気」と呼ばれる空前の好況時期を迎えました。
しかし昭和40年代に入ると、ドルショックやオイルショック、
更に昭和60(1985)年のプラザ合意以降は
急激な円高の進行による輸出環境の悪化を受けて
輸出中心の産地は大打撃を受けました。
その後もバブル景気の崩壊、デフレによる国内事業の低迷、
安価な海外製品の流入により、厳しい事業環境が続いています。
播州織の生産量は、
昭和62(1987)年の約3億8,800万㎡をピークに減少し、
平成28(2016)年の約3,422万㎡はピーク時の約8.8%。
輸出品の割合も、昭和62年の約60%超から
平成28年には約14.8%まで減っています。
現在
こうした中、平成16(2004)年、
地元の繊維機械商社・片山商店が中心となって、
多種類の材質・太さの糸を繋いで織物を連続生産する
世界初のシステム「アレンジワインダー」の開発に成功。
多品種・小ロットの生産ニーズへの迅速な対応が
実現出来るようになりました。
このシステムは国内繊維産業の復活を目指す画期的なシステムとして、
平成17(2005)年に「第1回ものづくり日本大賞」で
最優秀の内閣総理大臣賞を受賞しました。
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また、平成18(2006)年からは
「播州織ファッション特区事業」を展開、
播州織工場跡地を有効活用した「播州織工房館」の開設、
産官学連携による商品開発やショップ経営など、
新たな取り組みを次々と展開しています。
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