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美の壺「ニッポンのデニム」<File 426>

<番組紹介>
▽品質に世界が注目!
 一流ブランドも採用する日本製デニムの魅力を紹介!
▽旧式シャトル織機が織り上げたデニムとは?
▽ジーンズ600本集めた愛好家が、
 35年はき続けた国産ジーンズへの愛着
▽藍染めの技から生まれたデニム
▽ジーンズのタテオチ(色落ち)を生み出す
 糸の染色の秘密
▽さまざまな職業の人が、
 はいて育てる尾道のデニムプロジェクトとは?
 
<初回放送日:平成29(2017)年10月13日>
 
 
 
平成24(2012)年、銀座の街中で開かれたファッションショー。
服は全て、日本のデニム生地から作られたものです。
今、世界が日本の「デニム」に注目しています。
今や、ファッションに欠かせない「デニム」。
普段着から特別な装いまで、幅広く使われています。
 
「デニム」が広まったのは、アメリカ西部開拓時代です。
丈夫なことから、金鉱を掘る労働者達のワークウェアとして
愛用されました。
 
日本に入ってきたのは、第2次世界大戦後。
昭和48(1973)年には、アメリカ製のジーンズを基に、
糸の染色から織り、縫製まで、
全て国内で作られた純国産のジーンズが作られ、
日本の「デニム」の礎を築きました。
 
そして現在、「デニム」は様々な形で発展を遂げています。
「デニム」生地を使ったスーツは、
カジュアルだけでないデニムの魅力を伝えています。
 

 
東京青山にある呉服店「くるり」では、
通常のデニムより薄くて軽い生地を開発し、
紬のような滑らかな風合いのデニムの着物「GINZA」を
生み出しました。
 

 
「デニムは着る人を選ばないところが最大の特徴です。
 デニムと聞くと、より重いイメージが凄く強いみたいで、
 皆さん羽織に来られた方が着ていただくと
 とても驚かれるくらい軽さが特徴的なものになっております」
 
様々な可能性を秘めた日本のデニム、その魅力に迫ります。
 



 
 

美の壺1.着る人の人生に寄り添う

 

デニム愛好家・片山章一さん


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昭和40(1965)年、瀬戸内海に面した岡山県倉敷市児島地区で
日本で初めてのジーンズが作られました。
以来、児島地区は
「国産ジーンズ発祥の地」と言われるようになり、
デニム産業が盛んになり、
今ではジーンズの町として知られています。
 
日本で初めて国産ジーンズを手掛けたのは、
児島の服飾メーカー「マルオ被服(現在のビッグジョン)」
です。
昭和40(1965)年に、
今までの学生服や作業服づくりのノウハウを駆使し、
アメリカから輸入したデニム生地を使って縫製し、
国産初の「ジーンズ」を生み出しました。
そして昭和48(1973)年には、
倉敷紡績(現在のクラボウ)と共同で試作を繰り返し
国産デニム第一号「KD-8」を誕生させました。
 

 

 
地元でカフェレストラン「ワーゲン」の店主さんであり
「国産ジーンズ資料館」館長の片山章一さんは、
15歳の時に初めてジーンズを履いて以来、
50年以上に渡って国産ジーンズを600本以上収集しました。
 

 
「私が35年履いている国産ジーンズです。
 35年前瀬戸大橋が開通した折に
 このジーンズを履いて瀬戸大橋を渡った思い出があります。
 大変気に入っています」
 
大切に履き続けられてきた片山さんのジーンズ。
35年という歳月に耐え、宝物になりました。
 
「表情が変わって味が出ます。
 人間と同じで、皺が出て愛着があります」
 

 
なお、「国産ジーンズ資料館」は、
ビッグジョンの大ファンである片山さんが、
ビッグジョンの協力のもと、
レストランの敷地内で運営していらっしゃる資料館です。
幻の国産ジーンズ第1号や
昭和42(1967)年に作られた
BIG JOHNブランド初のジーンズ「M1002」など
貴重なジーンズが展示されているそうです。

 
国産ジーンズ資料館
  • 住所:〒711-0911
       岡山県倉敷市児島小川4-3-8
  • 電話:086-472-1480
       (レストラン「ワーゲン」)
 
 

セルビッチ(ジャパンブルー(JAPAN BLUE JEANS)

 
日本製にこだわり、海外から注目されている
ジーンズメーカー「ジャパンブルー(JAPAN BLUE JEANS)」は
平成23(2011)年に海外販売でスタート。
欧米で認められたシルエットは国内でも評判を呼び、
国内販売を開始しました。
 
 
ジャパンブルー」が作るのは、
丈夫で長く持つことを第一に考えたジーンズです。
そのためにこだわったのが「織り」だと言います。
 
「織物はゆっくりしっかり織り込むことで丈夫で良い織物が出来る。
 厚手の織物だけど暑くもないし着心地もいい。
 徹底したものづくりをしていこう」
 

 
デニムを織っているのは、
昭和50年代まで広く使われていた旧式のシャトル織機です。
元は、帆布などの分厚い生地を織っていました。
使われなくなっていたこの織機を全国から12台集めました。
 
このシャトル織機は人の手での作業が欠かせません。
縦糸は一つ一つ、緩やかに張っていきます。
80㎝程の幅に縦糸がおよそ2000本。
太い糸を使い、丈夫な生地を作るためには、
この古い機械でなければ織れないと言います。
緯糸は「シャトル」と呼ばれる舟形の器を使って送っていきます。
「シャトル」は1分間に170回程往復します。
1時間に織り上がるのは最大で5m、ジーンズ2本分です。
緩く張った縦糸に、緯糸を強く打ち込んでいきます。
糸同士がズレて重なり合い、生地に独特の凹凸が生まれます。
 

 
この機械を扱うのは、内田茂さん。
50年以上、シャトル織機に携わっています。
 
「こう、一定のリズムで動いてる。
 壊れる時は何か、カンとかキンとかいう音がするんですよね。
 それで故障したところを見つけて治します。」
 
このシャトル織機は、1980年代を境に生産されなくなりました。
古い機械をメンテナンスをしながら大切に使っています。
織り上がったデニム生地は、
厚みを持ちながらも、柔らかで優しい風合いです。
 

生地の端に見えるのは、
「セルビッチ」と呼ばれる「ほつれ止め」です。
シャトル織機で織られた証しです。
時間をかけて織り上がったデニム。
これからどんな人と時を重ねていくのでしょう。
 


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美の壺2.伝統から生まれる日本の青

 

伝統技術が生かされたデニム作り(カイハラ)


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広島県・福山市は、「日本の三大絣」のひとつ
「備後絣」の生産地です。
そんな福山市には、
藍染めの糸で織られた「備後絣」の伝統技術を
デニム製造に活用したメーカーがあります。
今や、日本国内シェアの50%以上を占め、
世界約20か国に輸出する世界屈指のデニムメーカーです。
 
 
「日本ではずっと藍染を何百年やっている訳ですから、
 我々に染み付いた文化だと思っています」
 
カイハラのデニムには様々な種類があり、
更に毎年、800点から1000点くらいの新商品を作っています。


 
カイハラがデニム生産へと事業転換をしたのは
昭和45(1970)年のことです。
当時の日本のデニムは「綛染め」(かせぞめ)という方法で
製造されていましたが、
その染め方では「穿きこむことで色落ちしていく」という
デニム本来の風合いが出せない仕上がりとなってしまいます。
 
デニム生地の糸の主な染め方には
「ロープ染色」と「綛染め」(かせぞめ)の2通りが
あります。
「綛」(かせ)とは、ぐるぐると束になった状態の
糸のことです。
穴の開いた管に「綛」(かせ)を掛け、
穴から染液を噴射して染色する染め方です。
手間が掛かりますが、
ムラなく美しく染め上げることができます。
 
 
カイハラの工場で行われているのは、「ロープ染色」です。
デニムの本場であるアメリカから伝わってきた情報を基に、
アメリカ生まれの染色方法「ロープ染色」を改良し、
独自の染色方法を開発しました。
 

 
「ロープ染色」とは、ロープ状に束ねた糸を
インディゴ染料に潜らせて染める方法です。
インディゴ染料は空気に触れることで酸化し発色します。
染料に漬けては引き上げる作業を繰り返すことで
徐々に濃く染まっていきます。
 
この工場では、
綿糸の束ねてロープ状にしたものを天井にまで高く引き上げて
酸化させる時間を長くし、濃い青に仕上げています。
一見濃い青ですが、中心は白いまま残っています。
 
実は、インディゴは色が入りにくいのが特徴の染料で、
綿糸は浸透圧で周りから徐々に染まっているので、
芯に近づくほどブルーが薄くなり、
芯には染まり切らなかった白色が残ります。
これが「芯白」(しんじろ)とか「中白」(なかじろ)という
現象です。
 

 
穿き込んだり、繰り返しの洗濯により
表面のインディゴ染料が落ちてくると
縦方向に線状の色落ちが現れた状態「縦落ち(タテ落ち)」が
現れます。
よく擦れる部分と擦れにくい部分のメリハリが効いて、
のっぺりと色落ちせず、立体感が生まれるのです。
 

 
更に、糸そのものや織り上げた生地がフラットな状態よりも、
太さにムラがあったりザラつきがある不均一な状態のほうが
色落ちにメリハリが出やすくなります。
ですから、デニム本来の味のある色落ちを楽しみたい方は
旧式の力織機で織ったビンテージタイプのデニムを選ぶと
より色落ちを楽しむことが出来るのです。
 
「昔は、元々はワーキングから出てきた色ですよね。
 それをやっぱり履き込んでいって、
 そして、あの青い色になってくる。
 やっぱりその変化も、履いている人は、楽しんでるっていうか、
 そういうふうな意味では、
 我々はその変化をですね、
 続けていきたい、作っていきたいなというふうには思ってます。」
 

 
 
 

「BUAISOU」(ぶあいそう)

昔から藍の産地で知られる徳島県。
「四国三郎」という異名を持つほどの暴れ川であった吉野川は、
氾濫の繰り返しによって運ばれた土が
藍作に相応しい肥沃な土地を作り、
吉野川流域は藍染の原料となる「蒅」(すくも)
一大産地となりました。
この「蒅」(すくも)や藍染の品々は品質の高さと圧倒的な量から
「阿波藍」と称されて、全国へ供給されていました。
 
こうした歴史を有する地、徳島県上板町で、
平成27(2015)年4月に起業したのが
「BUAISOU」(ぶあいそう)です。
公の場でジーンズを初めて履いた日本人と伝わる
白洲次郎の邸宅「武相荘」(ぶあいそう)に因んだものだそうです。
 
「BUAISOU」(ぶあいそう)は、
東京の商社で働いていた山形県出身の渡邉健太さんと、
東京の美術大学で草木染めやテキスタイルを学んでいた
青森県出身の楮覚郎(かじかくお)さんが
上板町の「地域おこし協力隊」に応募したことに端を発する。
平成24(2012)年7月、渡邉さんと楮さんは上板町に移り住み、
藍師・新居修さんに蓼藍(たであい)の葉を発酵させ堆肥状にした
「蒅」(すくも)づくりを学びました。
そうして、蓼藍を栽培し、刈り取った葉から蒅をつくり、
その蒅を発酵させて染液にする「藍建て」(あいだて)を行い。
染めた衣服やバッグ、小物などを販売しています。
 

 
今、挑戦しているのは、藍染めのデニム作りです。
「元々、藍染は世界中にあって、国々でいろんなやり方があって
 藍色に染まるっていうのがあるんで、
 僕らのデニムを履いてもらって、
 日本の伝統文化だった藍染っていうのを
 もっと知ってもらいたいなと思います」
 
藍染めのデニムを作り始めたのは、2年前のことです。
染料となる蓼藍の栽培から染色まで、
全ての工程を自分達の手で行います。
 
10月、「蒅」(すくも)という染料作りが始まりました。
水をかけては葉を混ぜ合わせ、
発酵を促す作業を4か月以上繰り返します。
発酵の具合を見ながら、慎重に作業を行う事で良質なが出来ます。
この「蒅」(すくも)を素に作られるのが、「藍染液」です。
「藍の華」と呼ばれる気泡などを目安に、染めの作業に入ります。
 
「藍染め」は、その日の天候や温度、湿度によって
染め上がりの色が変わります。
繰り返し染める事6回。
半年かけて、デニム生地300m分の糸が染め上がりました。
 
「僕ら、畑から色を作って、それを使って染色をしてものを作ってるので、
 まあ、汗水垂らして作った僕らの色を見てもらいたいのもあるし、
 後は、やっぱり化学インディゴと違う色落ちの仕方とか、
 新しいデニムの概念みたいなものを感じてもらいたいなっていうのは
 思います。」
 
絣からデニムへ。
日本の自然から生まれた「ジャパンブルー」は、
今も受け継がれています。
 
 
 

美の壺3.デニムの顔は百人百様

 

履いて育てるデニム(デザイナー・林芳亨さん)


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デニム界の巨匠、「RESOLUTEリゾルト」のデザイナー・
林芳亨(はやし よしゆき)さんは、
デニムの名産地・備後地区の西に位置する広島県尾道市で、
平成25(2013)年1月よりスタートした、
尾道デニム プロジェクト』という企画に携わっています。
 

www.onomichidenim.com

 
このプロジェクトは、
尾道在住の250人の町民の皆さんに
1年間毎日デニムを履いてもらって、色落ちの具合を調べ、
糸の染めや織の段階から製品づくりをしています。
 
「履く人の顔になるのがデニム。
 百人いたら百人の顔になるのがデニム」
ジーンズの経年変化を調べて製品作りに生かしています。
 
 

 
プロジェクトに参加している人達の職業は様々です。
農業を営む人だったり、医者だったり、役場の人だったり、
およそ70に及んでいます。
動作による擦れ、ポケットに携帯や財布を入れていた跡は勿論、
太陽の光をどれだけ浴びたかでも、色の変化が違ってきます。
2本として同じ古着は出来上がりません。
 
「日々愛用したデニムからは、持ち主の顔が見えてくる。
 そういう洋服って、デニムしかない。
 だから多くの人が、デニムに愛着を持つんだと思います。」
 

 
お客さんの反応は?
「これはですね、尾道の建設業の男性なんですけど、
 仕事を始めて1年、2年という。
 もう、がむしゃらに現場で働いたデニムです。
 これはもう語るまでもなく、このデニムが語ってくれるというか。
 汚れもついてるんですけども、これは汚い汚れとは思わなくて、
 この彼が1年間、本当に、一生懸命働いた痕跡というか、
 何か、これ見てるだけで、頑張れって言いたくなるような、
 そんなデニムになってるかなと思いますね。
 凄くかっこいいと思います。」
 
小河さんのデニムには、
膝をついてレモンに向き合った痕跡が残されていました。
プロジェクト最年長の76歳、
ラムネ屋を営む後藤忠明さんのデニムは、
ケースの上げ下ろし作業の時に、
こすれた色落ちが特徴的です。
大工の吉原将郎さんは、
このプロジェクトに参加して、思いがけない出会いがありました。
地元の漁師さん達もこのプロジェクトに参加しています。
同じ職業でも、履き込んだデニムの表情は、一人一人違います。
 
週に1度は「デニム回収の日」です。
参加者に履いてもらったデニムを毎週木曜日に回収して、
洗って、また返す、それを1年間繰り返します。
 
履けば履くほどに自分が刻まれるデニム。
小さな港町で生まれたデニムは、広い世界へと繋がっていきます。
 
 

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