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美の壺「すこやかな芸術品 益子焼」<File 486>

<番組紹介>
ぽってりとした素朴な土感とあたたかみが持ち味の益子焼。
江戸時代末期に栃木県益子町で、
すり鉢、瓶など生活の道具として誕生
 
 ▽益子焼を芸術品に高めた人間国宝の濱田庄司の作品
 ▽今や500人もの陶芸家が個性を磨く
 ▽かの有名駅弁の誕生秘話▽乙女が胸キュン!
  カラフルな陶器を作る若手陶芸家
 ▽5日間の寝ずの番!炎を器に写し取る窯焼きに密着。
  伝統、斬新、癒やし、自然…
  多様に広がる益子焼の世界をご紹介します!
 
<初回放送日:令和元(2019)年10月11日>
 
 
東京から電車を乗り継いで2時間半。
栃木県益子町は、関東屈指の陶芸の町として知られています。
「益子焼」は、ぽってりとした素朴な土の質感と温かみが
持ち味の焼き物です。
人間国宝の濱田庄司が「益子焼」を芸術の域にまで高め、
今では、500人近い陶芸家達が益子に集まり、
その個性を磨いています。
現在、「益子焼」は色も形も多種多様です。
益子には自由な作風が許される大らかさがあると言われます。
火を操り、炎を写し取る作家や、
焼き方にも、作家の豊かな発想が溢れています。
今回の「美の壺」は、個性溢れる「益子焼」の世界です。
 

美の壺1.生活の中の芸術品

 

益子焼の歴史

 
益子は古くから焼き物は造られてきましたが、
現在の「益子焼」という形になったのは
およそ150年前の江戸時代末期からです。
「信楽焼」などの影響を受け、
江戸に水甕やすり鉢などの日用品の焼き物を出荷し、
発展しました。
 
しかし明治維新以降、産業の発展と生活様式の変化で、
金属やガラスの器が増え、益子の窯元は激減します。
 
そうした中、日用品の中にある美しさを説く
「民芸運動」が起こりました。
中心人物の一人で、後に人間国宝となり文化勲章を受章した
陶芸家・濱田庄司(はまだしょうじ)が大正13(1924)年に益子に移住し、
益子に工房「濱田窯」を構えて制作を始めたのです。
濱田庄司は、制作のかたわら町内の各窯元を見て回り、
益子焼らしく健康的な器を作り、どしどし東京に売り込むようにと
精力的に指導しました。
自信がなかった産地を褒めることで育てるという方法を取り、
近代化によって衰退した益子を
自由な陶芸の町として盛り上げていったのです。
 

 
濱田は益子を「健康的な心が根づく田舎」と称賛し、
ここで陶芸の道を模索しました。
濱田庄司の代表作の一つ「飴釉白青十字掛大鉢」。
たっぷりと注がれた釉薬が皿の上を十字に力強く走ります。
釉薬を柄杓ですくい上げ、皿に流しかけて模様を描く
「流しかけ」という技法です。
濱田は益子で素朴さと芸術性を併せ持つ作品を作り上げていきました。
 

 
 

濱田窯(濱田 友緒さん)


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庄司の没後、庄司の次男であり生前より後継者として
庄司の仕事を助けていた濱田晋作さん、
そして晋作の次男である孫の友緒さんが「濱田窯」を受け継いでいます。
 
友緒さんは、祖父の志を現代の暮らしにも合わせる試みを続けています。
「昔はマグカップなんてなかった訳で、湯飲みだったりしますし。
 時代によっていろいろ変わることがありますけども、
 やはり使いやすさというのが念頭にありますし、
 健やかな美しさというのはやはり求めていきたいですね。」
 
色合いは黒と白。
デザインはスタイリッシュなものと、ぼってりした益子らしい丸み。
友緒さんの器は、どれを組み合わせても、現代の食卓に合う器です。
陶芸の町・益子には、素朴な芸術品がありました。
 

 
  • 住所:〒321-4217
       栃木県芳賀郡益子3387
  • 電話:0285-72-5311
 
 

大誠窯(7代目・大塚誠一さん)

 
「濱田窯」と共に、益子を代表とするのが、
文久元(1861)年創業の老舗の窯元「大誠窯」( だいせいがま)です。
 
「大誠窯」では、開窯以来、代々、「登り窯」のみを使い続けています。
現在使用される中では、益子最大規模となる「登り窯」です。
燃料には「赤松」、釉薬には柿釉を中心に
糠白釉、黒釉、飴釉、糠青磁釉といった益子伝統の釉を使用。
益子焼本来の素朴さの中に秘める力強さ、温もりを持った
焼き物作りをしています。
 
 
「大誠窯」の7代目・大塚誠一さんは、
丹波篠山の柴田雅章氏に師事した後、
益子に戻り窯の仕事を引き継ぎ、
地元の土と釉薬作りを昔ながらの手法で自ら作り上げ、
「使われる器」作りを追求しています。
日々の暮らしに馴染む、使いやすい器とはどんなものか。
大塚さんが手本にするのは、世界各国の骨董品です。
 
「イギリスの『スリップウェア』というものなんですけど、
 19世紀と18世紀とかなのかな。
 パイ皿でオーブンの中に生のパイ生地を入れて
 オーブンに入れて焼くんですよね。
 本当に、こう熱い中に入れられて、もう一度焼かれて、
 ナイフを当てられてパイを切られて、
 その労働の後って凄いあるんですけど。
 やっぱりそれがね、凄い深みというか、深みを出してるんですよね。
 そういうものを経たものって、やっぱり美しいものが多いですよね。」
 
大塚さんの器には、水を張ったような透明感と濃密な深みがあります。
 
大塚さんは、自ら益子の土を掘ってきて、
米農家から貰ってきたワラで釉薬を作るという、
その土地の物、自然な物を使った「ものづくり」を心掛けているそうです。
 
まず、山から採ってきた土を細かく砕いて濾します。
中の空気を抜きながら、手で粘土の状態を確かめます。
 
成形作業も、足の力で回す「蹴りろくろ」を使って行います。
 
「電動でやった方が上手だったり均一にできたりするんですけど、
 どうも何かこう、心持ち味気ない感じになっちゃうんですよね。
 こう自分のリズムで自分で蹴ってやるという方が
 何かこう、自分が思う趣が出る感じがするんですよね。
 だから蹴りろくろを使うんですけど。」
 
ろくろを回す作り手の息遣いがそのまま形になった、健やかな美しさ。
どんな料理でも不思議と馴染み、主役を引き立てる名脇役です。
暮らしを彩る優しい芸術品が益子にはありました。
 
大誠窯
  • 住所:〒321-4218
       栃木県芳賀郡益子町城内坂92
  • 電話:0285-72-2222
 
 

峠の釜めし(本舗おぎのや)

 
昭和33(1958)年2月1日に信越線横川駅で発売された「峠の釜めし」は、
これまでに約1億7000万個発売している、駅弁を代表する商品です。
発売開始から60余年経ちますが、多くの人に愛され続けています。
実は、この駅弁に使われている容器も「益子焼」です。
 
  • 住所:〒379-0301
       群馬県安中市松井田町横川399
  • 電話:027-395-2311
 
 

横川の釜めしの容器を作る「つかもと

 
この「峠の釜めし」の容器を作るのは、
元治元(1864)年創業の益子最大の窯元「つかもと」さんです。
つかもと」さんでは、1日およそ1万個の容器を生産しています。
 
 
戦後の高度成長期、利便性が重んじられる中で
プラスチック容器が台頭し、
「益子焼」の人気は低迷していました。
つかもと」でも、時代に合わせた新しい商品を作らねばと、
4代目社長夫人・塚本シゲさんの主導で、
様々な製品づくりに取り組んでいました。
 

 
試行錯誤の毎日が続く中、
東京の百貨店から「益子焼の弁当容器を作って欲しい」という
依頼が来ました。
「釜っこ」(土釜の愛称)に愛着を持っていたシゲさんは
土釜の弁当容器を考案し提案しましたが、
取り扱うのにはちょっと重たいという理由で、
不採用になってしまいました。
 
ですが、「釜っこ」(土釜)を是非世に出したい、
きっと日の目を見て売れるに違いないと信じ、
関東近辺の弁当屋に「釜っこ」(土釜)の営業に回りました。
その営業の帰り道、
当時、列車の付け替えのために1時間も列車が停車する
横川駅で転機は訪れました。
せっかく時間があるのだから、
横川駅の駅弁屋にも声を掛けてみようということになったのです。
 
 
一方横川駅では、長い停車時間があったにも関わらず、
おぎのや」さんの弁当の売れ行きは伸び悩んでいました。
おぎのや」さんでは、現状を打破するために
「お客様に本当に喜ばれる特色のある駅弁」の開発を決意。
4代目社長の髙見澤みねじさん自ら毎日駅のホームに立ち、
旅客一人ひとりに「どんなお弁当がお好みですか?」と聞いて回りました。
その結果「温かくて、家庭的な温もりがあり、見た目も楽しいお弁当」を
お客様が望んでいるという答えに辿り着きました。
ちょうどそこに、「つかもと」さんがやって来たのです。
 

 
保温性と耐久性のある益子焼の「釜っこ」(土釜)は
その条件にピッリとはまり、その日のうちに納品が決まりました。
そして昭和32(1957)年、
当時の駅弁の常識を覆した「峠の釜めし」が生まれたのです。
 
「峠の釜めし」は口コミやメディアに取り上げられ、
徐々に販売数を伸ばし始め、大ヒット。
昭和天皇にも献上されたそうです。
現在は、「横川駅」だけでなく、軽井沢駅や東京駅、
群馬県・長野県内のドライブインやサービスエリアなどでも
販売されています。
 


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この「峠の釜めし」の大ヒットにより、
遂には「つかもと」さんだけでは
製造が追いつかない状況にまでなりました。
そこで20軒に及ぶ益子の他の窯元に型を提供し、
どこの窯元で作ってもスピーディに同じ土釜が出来るように
大量に製造出来る体制を整えました。
これにより、経営難に陥っていた他の窯元も潤い、
結果として「益子焼」も見事復活を遂げることが出来ました。
 

 
可愛らしいフォルムであったり、
持った時に温かみが感じられる、
美味しいご飯がこれで食べられるなという
思いが伝わるようなデザインを今も残して、
今も「釜っこ」(土釜)を作り続けています。
 

oginoya.tokyo

 
  • 住所:〒321-4217
       栃木県芳賀郡益子町益子 4264
  • 電話:0285-72-3223
 
 
 

美の壺2.時をこえて

 

濱田庄司記念益子参考館

濱田庄司が陶芸家達の参考になるようにと作った博物館です。
 
世界中の民芸品が展示されています。
作り手として「斬新さ」と「温故知新」とが鬩ぎ合う日々。
先人の仕事に教わることも多いのだとか。
 
  • 住所:〒321-4217
       栃木県芳賀郡益子町益子3388
  • 電話:0285-72-5300
 
 
陶芸家・山野辺 彩さん


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山野辺 彩(やまのべ あや)さんの作品です。
モチーフの葉つきニンジンは益子町の無人販売店で見つけたものです。
ヨーロッパ調でありながら、
どこか日本らしさを感じる器はレトロな味わいがあります。
山野辺さんは、器をキャンバスに見立てて一筆一筆描いていきます。
 
「汚れちゃったからもういいやというよりは、
 コーヒーとか紅茶とかの茶渋が入って色がついていくと思うんですけど。
 何か、それがきれいだなって思える模様になるといいなって思います。」
 
使い込むほどに魅力を増してゆく。
山野辺さんの器は、人とともに歴史を刻む器です。
 

ayayamanobe.com

 
陶芸家・中村かりんさん
陶芸家・中村かりんさんは、
器好きが高じて、自分好みの器を作りたいと益子に入りました。
中村さんは、益子は陶芸家にとって、
やりたいことを応援してくれる町だとおっしゃいます。
自由な空気のもと、
中村さんが生み出した器は包容力に溢れています。
 
「何か見た目もそうですし、
 持った時も柔らかさを感じてもらえたらいいなと思って作ってます。
 何かある程度重さがあった方が安心感だったりとか、
 持った時の雰囲気がいいかなというのがあるので、
 あまり薄くなり過ぎないように、ちょうどいい重さを目指して、
 厚みを調節しながらろくろひいてます。」
 
ろくろをひいた後は乾燥させ、
その上に同じ粘土で絵柄を描いていきます。
スポイトを使って泥を盛り上げるように文様を描く
「イッチン」という技法です。
連続した幾何学文様を入れていきます。
その時、中村さんの頭に思い浮かべたままに。
 
「焼き上がっても、この盛り上がった線が残るので、
 触った感じがプツプツしてたりとか、
 そういうところが楽しいかなって思います。
 形も模様も全て自己流で、自分が持ちたい器を目指します。」
 
淡いパステル調に、ぽってりとした厚み。
乙女のハートを掴んで離さない器です。
伝統と革新。 バトンは脈々と受け継がれていきます。
 

https://www.instagram.com/kkarinnnnn/

 
 

美の壺3.大地の恵みにあずかって

 

陶芸家・竹下鹿丸さん


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益子の土・・・そこに秘められた力をとことん引き出す器。
流れる釉薬と露出した土肌が圧倒的な存在感を放ちます。
片口は、ごつごつと土のつぶての跡が残り、
月のクレーターのような何とも言えない味わいです。
平皿は炎が焼き付いたかのよう。
無骨さと繊細さを合わせ持つその器は、
土と炎、自然を実感させる焼き物です。
 
陶芸家の竹下鹿丸さん。
陶芸仲間から「天才」と呼ばれる竹下さんの器作りは、
土を掘ることから始まります。
 
「益子の中でも、ここの土がお気に入りです。
 この土はちょっと鉄分が多いんで、赤い発色になるんですけれども。
 適切な温度で焼いてあげると、結構 面白い表情が出るんで、
 僕は結構気に入って、ずっと使ってるんですけど。」
 
掘った土は荒く砕いて使います。
敢えて、砕き切れない石のかけらを粘土に残すのです。
 
「ちょっとこの辺に石が、ここにもいるんですけど、
 このつぶてが作品に味を出します。」
 
窯入れです。
竹下さんの作品は「焼き」が命です。
窯のどこにどの器を置くかで作品の表情が変わるため、
緻密に配置を計算します。
 
「ここで薪をくべて薪を燃やすんですけど、
 燃えた薪が灰になって炎と一緒に灰が飛んで、作品に付着して、
 自然釉という釉薬状になるんです。
 炎の流れは計算しますね。
 あと、場所によって、どれぐらい灰がかかるかとか、
 そういうことも計算しながらやってます。」
 
一度に焼き上げる作品はおよそ500点です。
火が入りました。
ここからほぼ5日間、寝ずの番をします。
手伝いに来た陶芸家の仲間達と昼夜交代で作業を続けます。
窯の温度を見ながら10分おきに薪の量を調整していきます。
益子の土は熱に弱いため、数日かけてゆっくり温度を上げていきます。
湿度や気圧に注意しながら、細やかな温度管理が続きます。
 
そして焼き上がり。大量の灰をかぶった作品は黒くすすけています。
「この辺、僕は結構好きなんですけど。
 伏せて焼いて、ここに炎が通った跡があります。
 ここ、炎がなめていくんですね。
 この下を、これが炎の跡ですね。
 土の鉄分と薪の成分が反応し、赤い炎の模様となって焼き付きます。
 いい感じだと思います。」
 
器の支えのあとが丸い文様として残ります。
これも狙い。土と炎と人…。その力と技が一つに重なります。
 
「この黒いぶつぶつなんかがろくろの時に入ってる石も好きです。
 こういう黒いのを全部抜いちゃうと、
 ツルッとしちゃって面白くないんですよね。
 毎回違いますね。完全に予想通りはなかなかないですね。
 そこが面白いところかなと思うんですよ。」
 
 

竹下鹿丸さんの器を愛してやまないお寿司屋さん
(東京・江戸川橋「酢飯屋」岡田大介さん)

 
竹下さんの器を 愛してやまない料理人がいます。
江戸川橋にある完全紹介制&予約制の寿司屋
「酢飯屋」の岡田大介さんです。
 

岡田さんは、クセの強い竹下さんの器を

「最高の舞台」だとおっしゃいます。

 
「鹿丸さんの器は、僕が作るお寿司のどのお寿司も
 全部受け止めてくれるそんな器です。
 魚がのっけたからって、はじかれることは一切なくて、
 どうぞどうぞという感じ。」
 
 
寿司と器のコラボレーションを紹介してくれました。
 

 
「金目鯛はですね、
 本来ならば、この色をキレイに見せようと思ったらば、
 白い器とか思いたいんですけれど、
 深海に生息している魚ですので、やっぱりこういう暗いところ、
 深海を泳いでるような感じに見て取れるなと思います。」
 

 
お皿のヒビも役者を生かすための演出に。
「このヒビも実は大事で。
 このヒビを上から こういうふうにして、雷みたいに見せるのか、
 こっち側が空になっていて、こっち側が海という風に、
 このヒビが役立ってきたりします。」
 

 
ヒビは時に「雷」、時に「大地の裂け目」となり、
料理を引き立ててくれます。
器と料理の幸せな出会いは、自然の恵みを堪能させてくれます。
 


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酢飯屋
  • 住所:〒112-0005
       東京都文京区水道2丁目6−8
  • 電話:03-3943-9004
 

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