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美の壺「沖縄のやきもの やちむん」<File 571>

<番組紹介>
セレクトショップが
「日本の食卓にやちむんはぴったり」
という理由とは?
 
▽古陶から現代の器まで、
 600点以上のやちむんを集めた店主が語る、
 やちむんの魅力
▽民藝(みんげい)の柳宗悦や濱田庄司も
 絶賛した人間国宝のやちむん
▽琉球王朝の品格を受け継ぐ現代の技
▽曲線に沖縄の美が宿る!
 沖縄6地域の赤土をブレンドして作る
 伝統の「嘉瓶(ゆしびん)」。
▽「シーサー」がみんなに愛される秘密とは⁈
 
<初回放送日:令和4(2022)年12月9日(金)>
 
 
 

美の壺1.多様
~どっしりと包み込む~

 

様々なやちむん
(「うつわのわ田」店主・和田明子さん)

 
東京世田谷区豪徳寺に、
ギャラリーのようなシックな佇まいの
器のセレクトショップがあります。
うつわのわ田」です。
ペット目線で作り上げた「ペット専用のうつわ」を扱っているからでしょうか。
愛犬と来店するお客さんも多いお店です。
 
店主の和田明子(わだ あきこ)さんは、
アパレル業界からの転職し、
平成30(2018)年4月に和食器専門店を
オープンさせました。
 
このお店で今注目を集めているのが
沖縄の陶器「やちむん」です。

「やむちん」と間違われることがありますが、
「焼き=やち」「もの=むん」です。
 
 
「やちむん」とは「やきもの」を意味する
沖縄の言葉。
琉球王国時代の1600年頃からに続く
伝統工芸品です。
沖縄の自然を思わせる豊かな色彩。
素朴で温かみのある形。
その種類は様々です。
 

 
「マカイ」は、沖縄の方言で「お碗」のこと
です。
「やちむん」の代表格のような器で、
ご飯から味噌汁、ラーメンやそばだけでなく、
煮物やサラダも盛り付けたりと
その用途は様々。
毎日のように食卓で活躍しています。
 

 
「マカイ」は、全般的に土を感じさせ、
ぼってりとした力強い厚みもあるので、
どっしりと大地に根を張ったような安定感が
感じられます。
和田さんも「特にマカイは力強さを感じられる」とおっしゃいます。
 
模様や装飾も様々です。
 

「点打ち」(てんうち)は、
「やちむん」の伝統的な模様です。
いわゆる「ドット柄」「水玉模様」ですが、
「やちむん」の「点打ち」は、
均等ではなく自由です。
単色で描いたものと
多色使いの「三彩」があります。

「唐草」(からくさ)は、
「やちむん」の文様の中で、
最も多いと言われている伝統的な文様です。
唐草の四方八方に伸びる蔦は、
「永遠」「長寿」「繁栄」の象徴とされ、
「永久不変」を表す縁起の良い模様です。

「イッチン」とは、チューブ型もしくは
スポイト型の「筒」のことです。
この中に、粘土を水でペースト状に溶いた
「泥漿」(でいしょう)や「化粧泥」「釉薬」を入れて、
ケーキのデコレーションのように
絞り出しながら線や図柄を描いていきます。

「線彫り」(せんぼり)とは、
成形した粘土に化粧泥を施し、
その後ペン状の道具を使って模様を彫っていく技法です。
 

 
「やちむんの魅力は『動』。
 生き生きとして動きが感じられます。
 日本の食卓は、和食だけでなく、
 洋食やエスニック、中華もあり、
 テーブルの中で
 ごちゃ混ぜになってしまっても
 全てをカバーできるのが『やちむん』。
 包容力があるのかな。」
 
  • 住所:〒154-0021
    東京都世田谷区豪徳寺1-49-2
    トリアドムス102
  • 電話:090-6654-1492
  • WEB SHOP
 
 

やちむんと泡盛と沖縄料理
(沖縄料店「オニノウデ」店主・佐久川長将さん)

 
沖縄県那覇市壺屋(つぼや)は、
「やちむん」のふるさとです。
琉球王朝の尚貞王(しょうていおう)
産業振興目的で、
天和2(1682)年各地に分散していた
3つの窯場(湧田・宝口・知花)を
那覇市の牧志の南に統合して
1つの窯場にしたとされています。
そして、その土地を「壺屋」と呼び、
そこで作られる「やちむん」のことを
「壺屋焼」と呼びました。
 
沖縄料理店「オニノウデ」の店主・
佐久川長将(さくがわ ちょうしょう)さんは、
「やちむん」好きが高じて
泡盛と沖縄料理を楽しむ飲食店を始めました。
佐久川さんの「やちむんコレクション」は、
400年前の物から現代の器まで
600点以上あります。
そんな佐久川さんに、「やちむん」の酒器を
紹介していただきました。
 

 
店名にもなっている「鬼の腕」(おにのうで)は、
沖縄の赤土だけで焼かれた、
火の色が素晴らしい大徳利のことです。
 
腕っぷしの強い船乗り達が愛用したことから、沖縄の方言で「鬼の腕=ウニヌティー」という
名が付いたと言われています。
 
「大きい酒瓶の間にクッション材として
 ズレないように利用されたようで、
 途中で海賊が現れた時に、
 両手でもって大きく見せた
 ということも聞いています。」

「カラカラ」と呼ばれる徳利は、
泡盛を飲むには最高の酒器です。
あるお酒好きのお坊さんが
丸餅からヒントを得て作ったそうで、
絶対に倒れないということが評判になり、
人々の間で「貸せ貸せ=カラカラ」と呼ばれるようになったとか、
または、酒器の中には小さい玉が入っていて、
お酒が無くなって空になると「カラカラ」と」音がするところから「カラカラ」と呼ばれる
ようになったとか言われています。
 
「カラカラ」は、元々は、
泡盛を入れるために作られたものだそうで、
特に、泡盛を熟成させた「古酒」(クースー)を飲む時には欠かせないそうです。
 

「抱瓶」(だちびん)は、三日月型の徳利で、
琉球士族が好んで用いました。
紐を通し、腰にぶら下げて持ち歩く、
いわゆる携帯用の酒瓶です。
腰に密着するように湾曲した形をしています。
 

 
沖縄料理店
「オニノウデ」[facebook]
  • 住所:〒902-0065
    沖縄県那覇市壺屋1-7-13
  • 電話:090-3797-0577
 
 
 

美の壺2.風土
~自然の恵みをうつしだす~

 

やむちんの歴史と民藝運動
「人間国宝・金城次郎」


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沖縄では、古くから「やちむん」作りが
盛んでした。
「やちむん」は、琉球王国の時代より
Chinaや東南アジア、朝鮮の影響を受けながら
独自に発展しました。
 
しかし第二次世界大戦で焦土と化した沖縄。
戦後まもなく、収容所から103人の陶工が
壺屋に送られました。
生活のための茶碗を焼くため、
焼け残った登り窯で「やちむん」作りが
再開しました。
 

そのうちの1人が、昭和60(1985)年に
沖縄県で初の人間国宝に選ばれた
金城次郎(きんじょうじろう)です。
金城は大正元(1912)年に沖縄県那覇市で
生まれました。
大正13(1924)年、13歳の時に、
壷屋の名工・新垣栄徳(あらかき えいとく)
製陶所で陶器見習工となり、
陶工への道を歩み始めます。
 
戦争に召集されたことで、
制作を一時中断を余儀なくされましたが、
沖縄戦終結後の昭和21(1946)年1月、
36歳の時に、壺屋に工房を開き独立し、
師の新垣を通じて以前より交流があった
陶芸家・濱田庄司・河井寛次郎らの
協力を受けながら
戦後の壺屋焼の復興に尽力しました。
 
金城は普段使いのしやすさを重視し、
「用の美」を追求し続けました。
素朴な作風を貫き、
壺・食器・酒器などの日常で使う
琉球陶器を作り続けました。
派手な装飾は一切せず、
魚や海老などのユーモラスなモチーフを
多く描きました。
濱田庄司からは「魚や海老が笑っているようだ」と称された模様は、
次郎作品を代表する絵柄とされています。
 
金城は、長らく生まれ育った壺屋で
活動していましたが、
沖縄の都市化が進むにつれて
登り窯から出る煙が公害問題となり、
壺屋での作陶が難しくなったことから、
沖縄返還の年である昭和47(1972)年に10月に、
読谷村「やちむんの里」に移転して、
作陶を続けました。
 
昭和53(1978)年1月に濱田庄司が亡くなると、
喪失感からか、次郎も高血圧で倒れて
静養を余儀なくされます。
晩年は病との闘いが続きましたが、
それでもひたむきに陶芸に向かい続けました。
そして、平成16(2004)年12月24日に
92歳でこの世を去りました。
沖縄陶芸の発展に尽くした人生でした。
 
 

今に引き継がれている「やちむん」
(「石倉陶器所」石倉一人さん)


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琉球が育んだ精神と技は、
今に引き継がれています。
沖縄県南城市(なんじょうし)
工房「石倉陶器所・陶房みんどぅま」を構える
石倉一人(いしくら かずと)さんは、
沖縄の土や素材を生かした器作りを基本に、
伝統を守りながらも現代風にもアレンジした
作品を制作しています。
 

 
沖縄で生まれ育った石倉さんの創作の源は、
沖縄の身近な自然です。
潮が引いた時に姿を現すサンゴ礁から
着想を得た鮮やかなブルーの台皿。
青の濃淡で描いたのは、沖縄の唐草です。
可憐な花とともに、風にそよいでいます。
 

 
石倉さんに「線彫り」(せんぼり)の工程を
見せていただきました。
釘を叩いて平らにしたような道具を
自在に操り、抑揚をつけて、
細い線や太い線、深さも、
まるで筆のように描いていきます。
 
次は、傘の骨を叩いて平らにして
曲げた道具に持ち替えて、
葉の部分を掘っていきます。
 
「何千枚も描いていく中から
 生まれてくるようなラインで、
 手が覚えているラインというのは
 躍動感や力強さがあると思う」
とおっしゃいます。

 

石倉さんは、事ある毎に、
祖父が作った「やちむん」を眺めます。
琉球王朝時代からの流れがあり、
佇まいの品格を感じるのだとか。
「手本とするものと
 今の時代のものと混ぜながら
 面白いものが出来ればな」
と語る石倉さんでした。
 
石倉陶器所
  • 住所:〒902-0065
    沖縄県那覇市壺屋1-21-12
  • 電話:090-9786-7631
 
 

登り窯
(北窯 松田共司工房・松田共司さん)


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沖縄県中頭郡読谷村(なかがみぐん よみたんそん)には、「やちむん」の窯元が60近くも集まっています。
昭和47(1972)年に、沖縄初の人間国宝、
名工・金城次郎さんが
読谷村へ移り住んだことをきっかけに
多くの陶工が読谷村に集まり始め、
やがて「やちむんの里」が生まれました。
 
「やちむんの里」の最奥部にある
北窯(きたがま) は、
各地で修行していた松田米司、松田共司、
宮城正亨、與那原正守の4氏が親方となって、
平成4(1992)年に共同で窯を開いたもので、
  • 「登り窯を焚くこと」
  • 「弟子の育成」
  • 「沖縄の焼物とは何かを考える」
これら3つの理念を掲げ、
沖縄伝統の手法を受け継ぎながらも、
現在に合った様々な「やちむん」を
生み出し続けてきました。
 
なお、「北窯」の登り窯は国内最大級という
十三連房です。
 

 
「北窯」では、年に4回、「土作り」を
行います。
4人の親方を慕って集まってきた弟子達が
総出で行う共同作業です。
原料となるのは、沖縄北部6つの地域、
前兼久(まえがねく)、石川(いしかわ)
屋嘉(やか)、谷茶(たんちゃ)、喜瀬(きせ)
為又の(びいまた)の個性豊かな土です。
これらをブレンドして粘土状にしたら、
赤瓦に載せます。
瓦の吸水性と太陽の力を借りて半日干したら、
これを集めて「陶土」とします。
機械化が進む中、伝統の土作りを続けています。

 
北窯の「松田共司工房」(まつだきょうし こうぼう)の松田共司さんは
昭和29(1954)年沖縄県読谷村生まれ。
同じく「北窯」のメンバー・
松田米司(よねし)さんの双子の弟さんです。
50年近く土と向き合い、
伝統的な「やちむん」を追求しています。
 
 
松田さんに「嘉瓶」(ゆしびん)の制作工程を
見せていただきました。
優雅な曲線を持つ
瓢箪型の「嘉瓶」(ゆしびん)は、
上流階級の間で、
祝儀や祭祀などの御慶事の際、
泡盛を贈るために使われていました。
独特の瓢箪の形は、Chinaでも
日本本土でも見ることの出来ない、
沖縄独特のものです。
脇に抱えて持ち運びやすいようにしたと
言われています。
 

 
しっかりとした逞しい「嘉瓶」(ゆしびん)
表現したいという松田さん。
「嘉瓶」(ゆしびん)の成形は一発勝負です。
ふっくらしたお尻の部分から腰を締めたら、
肩をしっかり張らせて、力強さ表現します。
更に、首を細く長くしていきます。
一挙に持っていかないと線が緩んでしまう、
思い通りに形作るのは至難の業です。
 

 
形が出来上がったら、白化粧を施し、
「釉薬」を流しかけます。
登り窯で3日3晩焼いて、
「嘉瓶」(ゆしびん)を完成させました。
 
 

 
沖縄が本土復帰した昭和47(1972)年、
当時18歳の高校3年生だった松田さん兄弟は、
鉄板の入った靴を履いて復帰運動に参加して
いたそうです。
沖縄が日本になることで、
アイデンティティーが揺らいだそうです。
 

「沖縄の俺達は何者なんだ。
 自分の正体見付け出したかったから
 焼き物をやった。
 台風が来たり、
 虐げられた歴史があるけれど、
 耐え抜く力、逞しい力が、
 沖縄の美意識にも
 繋がっているのではないか。」
 
沖縄という風土が生んだ「やちむん」です。

 
 

美の壺3.シーサー
~土に願いを込めて~

 

「シーサーの歴史」
(壺屋焼博物館 学芸員・倉成多郎さん)


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沖縄を象徴する存在「シーサー」。
その多くが「やちむん」で出来ています。
 

 
「シーサー」の起源は、古代オリエントや
インドで権威や強さの象徴として扱われた獅子
「百獣の王ライオン」と言われています。
学芸員・倉成多郎(くらなり たろう)さんに
お話を伺いました。
 
シーサーは置く場所や守るものによって、
「宮獅子」「村落獅子」「家獅子」の3種類に分類することが出来ます。
 
「宮獅子」(みやじし)は、
お城や神社、お寺、お墓などに設置され、
魔除けよりも権威の象徴としてのものが
多いようです。
 
「村落獅子」(そんらくしし)は、
村や町を守るために、
集落の入り口や高い場所に設置し、
悪霊の侵入や火災を防ぐ守護神です。
記録に残っている中で最も古い「シーサー」の
「富盛の石彫大獅子」(ともりのいしぼりうふじし)
1689年に火山と言われていた八重瀬岳から
村人を守る目的で集落の入り口に設置された
ものです。
別名「富盛のシーサー」(ともりのシーサー)
とも呼ばれ、県南部の八重瀬町に現存し、
沖縄県の指定有形民俗文化財にも指定されて
います。
 

www.town.yaese.lg.jp

 
沖縄ではあらゆる災い、悪霊を
「マジムン」と呼び、
「シーサー」にはその「マジムン」を
寄せ付けない力があると考えられてきました。
 

 
王府や村を守る役割だった「シーサー」が、
個人宅を守る役割として一般化したのは、
戦後のことです。
戦後復興の中で、それまで茅葺きだった家を
瓦ぶきの家に変えていく際、もしくは、
新しく家を建てる時に
屋根の上や門の前にシーサーを飾るように
なっていったそうです。
これらは「家獅子」(いえしし)と言います。
 

 
今ではあらゆる場所でシーサーが見られるようになりました。
 
  • 住所:〒902-0065
    沖縄県那覇市壺屋1丁目9−32
  • 電話:098-862-3761
 
 

シーサーに祈りを込めて
(陶藝玉城・玉城望さん、若子さんご夫妻)


www.youtube.com

 
沖縄県国頭郡大宜見村(おおぎみそん)にある
「陶藝玉城」(とうげい たまき)
玉城望(たまき のぞみ)さん・若子(わかこ)さん夫妻は
年におよそ100体もの「シーサー」を作って
います。
 

 
玉城さんご夫妻の作る「シーサー」は、
ちょっとユーモアがあって、
何か見守ってくれる感じがあります。
 

 
「普段は子供達と一緒に遊んでいるけど、
 悪いものが来た時にだけ
 コラッと怒ってくれる・・・。
 力強さの中にも愛らしさがあり、
 威嚇するだけでなくて、
 幸せにしてくれる・・・。
 そのようなシーサーでありたいな。」
 

 
若子さんにシーサーの制作の様子を
見せていただきました。
「シーサー」の骨組みになるのは、
ろくろでひいた3本の筒です。
力強さの要となるのは足先です。
大地を踏みしめている、
がっしりとした造形にします。
 
全体像が出来たら、毛を表現していきます。
毛先は空に向け、
風になびくような手並みにして、
毛の動きにも勢いをつけていきます。
台風が来ても、風に煽られても、
立ち向かう堂々とした佇まいです。
 
最後は顔を作ります。
手のひら一杯の陶土で作る大きな目は、
遠くから来るものを見極め、
いろんなところを見ているようです。
顔を大きくすることで、
強さの中にも温かさを滲ませると若子さん。
 
 
成形が終わったら、
平成12(2000)年に築窯した「登り窯」で、
3日3晩、焼成していきます。
窯の中から出てきた「シーサー」は
まるで炎の神様に命を吹き込まれた」よう
です。
 
「『シーサー』を求めた人がそれを生かして、
 地域を守るなり、その家を守るなりして
 欲しい。」
 
沖縄の土と火、陶工の手によって生まれる「シーサー」が、
今日も人々の暮らしを守り続けます。
 

 
陶藝玉城
  • 住所:〒905-1316
    沖縄県大宜味村白浜洗田442-955
  • 電話:0980-44-2530
 

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