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鹿児島「薩摩錫器」

 
 

歴史

「薩摩錫器」は、
明暦2(1656)年、 八木主人佐(もんどのすけ)によって
現在の鹿児島市下福元町錫山地域で錫山が発掘されたことに
始まります。
 

 
1701年には、薩摩藩の経営となり、
1853~1854年には斉彬の命で湧上坑において、
約14万8千斤(約89t)もの錫を産出したと言われています。
労働者は、尾張(愛知県)や美濃(岐阜県)、伊予(愛媛県)など
遠方からも多数集められており、
1854年頃には約300人が働いていました。
 
薩摩藩では、
発見された錫を大砲や建築の材料として全国に出荷し、
莫大な利益を得ました。
島津家の屋敷跡には、
屋根部分に1tもの錫を使った「錫門」が今も残っています。
 
 
また、錫山には
藩の奉行所跡や、鉱山の神を祭った大山祇神社、錫を採掘した坑道跡など、
当時の盛況を偲ばせる数多くの遺産が残っています。
 

 
明治期以降も島津家などが経営。
技術の向上もあって、 庶民が生活用品として利用するようになり、
鹿児島ではどこの家にも何種類かの錫器があるまでに普及しました。
 
しかし、錫が戦争による軍事物資となってからは、
その入手が困難となり、業界は大きな痛手を受け、
その後、原料はマレーシアから輸入された物を使用するようになります。
そして、約330年後、昭和63(1988)年に閉山しました。
 

 
現在、鹿児島では錫は産出されてはいませんが、
鹿児島の伝統工芸品として、今もその技法が伝えられています。
 

 

薩摩錫器の特徴

 
「薩摩錫器」の特長は、
  • 熱伝導率が高く保冷や保温性に優れていること、
  • 分子が粗く不純物を吸収する特性があるため、水を浄化する作用がある
  • 金に続いてイオン効果が大きいので、味をまろやかにする

 
そのため、錫で作られた花器は花を長持ちさせ、
茶壷は香りが長く持ち、
酒器は暖かくも冷たくも良く、酒の味をひきたてるということで、
昔から食器などに広く用いられてきました。
 

 
西郷隆盛、木戸孝允と共に「維新の三傑」と称された
薩摩藩士の大久保利通も錫の茶壺を愛用していて、
没後100年以上経って発見された茶壺の中にあった茶葉の香りや味が
いささかも損なわれていなかったというエピソードからも
錫器の密閉性の高さが伺えます。
 

 

 
ところで、大久保利通は、
日本で初めて紅茶の生産に関わり、広めた人です。
 
鹿児島県は島津藩政時代にも茶業は奨励されていましたが、
本格的な栽培は第二次世界大戦後からです。
 
明治6(1883)年には、全国の4%程度の生産量だったものが、
現在では、全国の2割を生産する第2位の産地となっています。
紅茶については、 昭和30年代、紅茶栽培の取組が進み、
鹿児島県は全国でも有数の紅茶産地となりました。
 
 
その後、 紅茶が輸入自由化となった昭和40年代に、
紅茶から緑茶への転換が図られて製造は減りましたが、
現在も、紅茶の製造は行われています。
甘みが強く、ストレートでも美味しく、香りもいい和紅茶です。
 
現在、「薩摩錫器」の技を伝える店もわずか2軒です。
「マツコの知らない世界」で紹介されていた「大辻朝日堂」さんも
2017年3月いっぱいで閉店されたそうです。