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栃木県「益子焼 」

 
栃木県益子町は、広大な関東平野の奥まった北の端に位置し、
小貝川が町西側を北から南へと流れ、
その河岸の平野部が町の大部分を占めています。
町の南部は茨城県と県境を接し、丘陵地となっています。
 

 
窯を築くための傾斜地に恵まれ、
周囲の低山には燃料となる赤松や雑木の林が豊富でした。
8世紀の終わりには町の南の谷筋に沿って、
下野国の須恵器と瓦の一大窯業地でしたが
10世紀中頃には生産を止めていました。
 

 
江戸時代末期の文政11(1828)年、
「笠間焼」を見て育った杉山啓三郎が
益子町の大塚平兵衛の婿養子に迎えられ、
益子村大津沢で良質の陶土を見つけたことから、
嘉永6(1853)年に「益子焼」を開業。
これが現在に続く 「益子焼」の始まりとなりました。
 
啓三郎は安政3(1856)年に
「相馬焼」の流れを汲む「宍戸焼」の陶工・田中長平を招き、
技術と生産の向上に努め、
主に台所で使うような日用雑器を中心に製陶業を
本格的に軌道に乗せていきました。
「益子焼」は「笠間」と「相馬」双方の産地の影響を大きく受け、
将来に渡って両地方との技術や職人の交流が続くことになりました。
 
  • 住所:〒321-4218
       栃木県芳賀郡益子町城内坂88
  • 電話:0285-72-7711(代)
 
 
もう一人「益子焼」の育成に尽力したのは、
郡奉行・三田称平(みたしょうへい)です。
三田称平は、将来必ず伸びる産業だと考え、
藩から資金の貸付した他、職人の管理・指導をしました。
「益子焼」は、主に関東地方に出荷されました。
当時、関東地方の焼き物は「笠間焼」だけだったので、
「益子焼」は大当たりしました。
 

 
ただ、そうなると粗悪品も乱売されたため、
「益子焼」の信用も失墜、米国への輸出も途絶えてしまいました。
信用回復のために、明治36年10月に「益子陶器同業組合」を設立。
また、腕の良い職人を育てるために「益子陶器伝習所」も設立されました。
大正時代に入り燃料が木炭から石炭ガスに変わると、
「益子焼」では高熱に耐えられないため、
台所用品はアルミなどの金属にとって変わられました。
また、壺や甕もガラスや金属に変わり、売上はどんどん落ち込んでいきました。
 

 
ところが大正12(1923)年9月1日に起こった関東大震災で
様子が一変。
需要が急増し、作っても作っても間に合わないくらいになりました。
更に大正12(1924)年に、 濱田庄司がこの地に定住。
「用の美」に着目した柳宗悦らと共に「民芸運動」を推める傍ら、
地元の工人達に大きな影響を与え、
益子焼は「芸術品」としての側面を持つようになります。
 
 
濱田庄司(はまだしょうじ)
 
「私の陶器の仕事は、京都で道をみつけ、
 英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と書き残す。
各地の伝統的な民窯の器などを通して、
作為的な美とは異なる、
生活の中から自然に生み出される美を見出していった。
昭和30(1955)年に
「第1回 重要無形文化財保持者」(人間国宝)に指定。
 
島岡達三(しまおか たつぞう)
 
昭和21年に濱田庄司門下に。
平成8年、「重要無形文化財保持者」(人間国宝)に指定。
独自の「縄文象嵌」の世界を築いた陶芸家。
 
 
現在、窯元は約250、陶器店は50。
ここに窯を構える陶芸家は400人前後もいるそうです。
益子で生まれ育った作り手でなくても活躍出来る柔軟な風土があるため、
全国から集まってくるそうです。
そして作風は多種多様です。
 

 
因みに、JR信越本線・横川駅の駅弁「峠の釜めし」の土釜の容器も
「益子焼」で作られています。
作っているのは、 益子最大の老舗窯元「つかもと」さんです。
 

 

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