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長崎県・波佐見焼

 
 
長崎県内で唯一、海に面していない町・波佐見町は、
佐賀県との県境に位置し、
焼き物の里として400年以上の歴史を誇ります。
大量生産を得意とし、日常食器の産地として名を馳せています。
 
 
「波佐見焼」(はさみやき)とは、
長崎県の中央北部に位置する波佐見町付近で作られている
陶磁器のことです。
400年以上の歴史を持ち、
現在でも日用食器のおよそ16%のシェアを誇りますが、
長い間、隣接する佐賀県有田町の「有田焼」として売られてきたため、
近年まで「波佐見焼」(はさみやき)の名前が
表に出ることは少なかったのですが、
現在では、モダンでおしゃれな「波佐見焼」は
大変人気のある焼き物となっています。
 

 
 

1.波佐見焼の歴史

「波佐見焼」(はさみやき)の始まりは、
1590年代頃、「下稗木場窯」(しもひえこばがま)で焼かれた
陶器の碗皿や甕などの日用品であったと考えられています。
 

 
 
その後、大村藩(現・長崎県大村市)の藩主・
大村喜前(よしあき)
文禄・慶長の役からの帰国時に同行した
朝鮮陶工の李祐慶(りゆう けい)らが
波佐見町村木の畑ノ原、古皿屋(ふるさらや)
山似田(やまにた)の3か所に連房式階段状登窯を築き、
慶長4(1599)年、焼き物づくりを始めました。
 

 
当初は釉薬を施した陶器を焼いていましたが、
陶工達は、本格的に磁器の生産を始めるべく
地元で陶石の鉱脈を探し回り、
1610~1620年代頃に、波佐見で初めての磁器焼成に成功しました。
 

 
1630年代になると、磁器の原料となる陶石(三股陶石)が
波佐見町東南部にある三股(みつのまた)の山中で発見されると、
波佐見では本格的に陶器生産から磁器生産へと移り変わりました。
三股窯では「青磁」が中心に焼かれるようになり、
また「天草陶石」を使った「白磁」の生産も盛んになりました。
 

 
この頃Chinaでは清国への政権交代期による内乱が起こり、
1661年には「海禁令」を出して
陶磁器の輸出をストップしたことにより、
日本の製品が俄かに注目を集め、日本の磁器輸出が伸びました。
 

 
波佐見でも海外(主に東南アジア方面)向けの製品を
大量に生産するようになり、
大村藩は1666年に三股に焼き物を管理する「皿山役所」を設置、
藩をあげての殖産政策が推し進めました。
 

 
18世紀に入り清国の内乱が終息し輸出が再開されると、
波佐見焼の輸出も伸び悩むようになりましたが、
国内向けに安価で扱いやすく親しみやすい日用食器の染付磁器
「くらわんか椀」の大量生産を始め、
特に大量消費地である大坂で人気を博します。
19世紀前半からは、醤油や酒を海外に輸出するために
「コンプラ瓶」の生産も始まりました。
 

 
こうして波佐見では、「染付」と「青磁」を中心とする磁器へ移行し、
波佐見は「染付」・「青磁」の大生産地に発展。
江戸後期には「染付」の生産量が日本一になりました。
 

 
明治以降は藩からの支援がなくなりましたが、
鉄道の発達により、
出荷駅がある「有田」から全国に流通していたため、
「波佐見」と「有田」の2つの産地の磁器は合わせて
「有田焼」としてその名を全国に広めていきました。
昭和30年代から50年代の高度成長期には、
全国的な流通改革などもあって飛躍的な発展を遂げます。
絵柄や形状などにこだわりのない「波佐見焼」は、
人々の生活様式の変化や流行、時代の雰囲気などに合わせて
自在にデザインを変化させ、
人々の求めるモノが何なのかを常に模索してきたのです。
昭和53(1978)年2月6日、
「波佐見焼」は「伝統工芸品」の指定を受けました。
そして、1980年後半のバブル期に最盛を迎えました。
 

 
平成14(2002)年の産地偽装問題をきっかけに、
産地を明確にすることが社会的に求められるようになり、
「有田焼」と名乗ることが出来なくなります。
そこで「波佐見焼」として新たに世に広めようと、
窯元や工房、自治体が協力して
時代に合ったモノ作りを進めました。
 
初めて「波佐見焼」という名前を出した時には、
全く世に知られていませんでしたが、
今では有名な焼き物の産地として広く認知されています。
モダンでオシャレな雰囲気を持つ日常使いの器として、
若者を中心に人気の焼き物となりました。
 

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2.波佐見焼の特徴

 
波佐見は長崎県最大の窯業地であり、
日用和食器の出荷額は全国3位を誇ります。
 

 
そんな「波佐見焼」は、
「特徴がないのが、波佐見焼のよさ」と言われています。
一目で「波佐見焼」と分かるような技法やデザインがないため、
時代の流行を取り入れた自由な発想のものが作れるのです。
形も大小様々形、レトロな雰囲気、モダンなデザインのものなど、
バラエティー豊かです。
 

 
人口約1万5000人の小さな町で高品質・大量生産を可能にしたのが
「分業制」です。
陶磁器の石膏型を作る「型屋」、
その型から生地を作る「生地屋」、
生地屋に土を収める「陶土屋」、
その生地を焼いて商品に仕上げる「窯元」、
陶磁器に貼る絵柄のシールを作る「上絵屋」、
そのやきものの流通を担う「商社」です。
 

 
分業制によって、各工房がその仕事に特化した技術を高め、
相乗効果で「波佐見焼」全体のレベルも向上させてきました。
 
 
 

3.波佐見焼の種類

 
「波佐見焼」の中でも、
「くらわんか碗」や「コンプラ瓶」、「ワレニッカ食器」などが
よく知られています。
 
くらわんか碗

 
「くらわんか」椀は、
江戸時代にから使われるようになった庶民の生活雑器で、
ご飯や汁物、おかずを盛り付けるだけではなく、
時には盃のように使われることもあったようです。
 

 
それまで磁器は高価なイメージが強く、
庶民にとって高嶺の花でした。
そんな中、「くらわんか碗」は
手に馴染みやすい形や素朴な絵付けに加えて、
庶民にも手の届きやすい価格で販売されたことから、
磁器が一般市民に広まるきっかけとなりました。
 
 
 
江戸時代に作られた「くらわんか椀」は、
産地などとは関係なく、「くらわんか舟」で
「餅くらわんか、酒くらわんか」という掛け声とともに
売られたことからその名前がつきました
 

 
江戸時代、摂津の淀川には、
「三十石船」と呼ばれた乗り合い船が往来し、
途中停船しようとする「三十石船」に鍵爪をかけて近づき、
飯や汁物、酒などの飲食物を販売していた小舟を
「くらわんか舟」(公式には「茶船」)と呼んでいました。
 

 
船上に火床を置いて煮炊きし、作った料理を「くらわんか椀」に盛って
この地方の方言で「喰わないのか」
「喰うことも出来ないくらい銭を持っていないのか」と乱暴に言った言葉
「くらわんか」と声を掛け販売していたことから
「くらわんか舟」という俗称が定着したのです。
 

 
船上で煮炊きしたものを盛って販売するため、
「くらわんか椀」は揺れる小舟の上でも倒れないよう重心が低く、
底がどっしりとした形をしており、
万が一倒れても破損しにくいように、厚手で丈夫に作られています。
 

 
「くらわんか椀」は食後返却しなくてはならなかったのですが、
器の数で料金を計算するため、
支払いをごまかすために器を川に投げ捨てる客もいたことから
価値の高い器は用いられず、
絵付けなどもシンプルなものになっているのが特徴です。
 
現代の「くらわんか椀」は形はそのままにし、
厚みを2.6mmと昔より1mm削って軽量化したことにより、
より使い勝手が良くなっています。
 

 
 
くらわん館
商社・窯元のやきものがズラリ揃う
波佐見焼最大級の観光物産館です。
「絵付け」「ロクロ」「タタラ型打ち」などの
陶芸体験も出来ます。
2階は資料館となっていて、
波佐見焼に関する歴史資料や作品が展示されています。
古代からの各時代の代表的な窯12基を再現した
野外博物館「世界の窯広場」を備えた
やきもの公園」が隣接しています。
 
  • 住所:〒859-3711
       長崎県東彼杵郡波佐見町井石郷2255-2
  • 電話:0956-26-7162
 
 
コンプラ瓶

 
「コンプラ瓶」は、醤油や酒を輸出するために作られた瓶です。
木の樽だと風味が損なわれるため、
長崎で生産されている「波佐見焼」で作ったのが始まりです。
 

 
長崎の商人達は、「金富良社」(こんぷらしゃ)という組合を作り、
日本酒や醤油を長崎出島から、東インド会社を介して
東南アジアやオランダを中心とした西洋向けに盛んに輸出したので、
その容器が「コンプラ瓶」と呼ばれるようになりました。
「コンプラ」とは
ポルトガル語の「コンプラドール(comprador)」に由来するもので、
「買付け」「仲買人」という意味です。

「コンプラ瓶」は別名「蘭瓶」(らんびん)とも呼ばれ、
染付白磁の燗付徳利に似ていて、
瓶の肩には、オランダ語で
「JAPNSCHZOYA」  (ヤパンセ・ソヤー:日本の醤油)、
「JAPANSCHZAKY」(ヤパンセ・サキー:日本の酒)と
書かれています。
 

 
明治期のコンプラ瓶の下部には、
「DECIMA」(出島)や
「長崎金富良商会」の略文字(CPD=COMPRADOR)も印字されています。
 
 
ワレニッカ食器
「ワレニッカ食器」は、昭和62(1987)年に開発された
通常の磁器の約3倍の強度を誇る、割れにくい給食用の食器のことです。
強化磁器のルーツとも言われています。
最初は町内の小学校のみでしたが、
子供達から「食べやすい」「給食をおいしく感じる」と好評だったことから、
県外の学校や病院へも出荷され、全国で使われるようになりました。
 
当初「ワレニッカ」という名称でしたが、
「ハサミスクールウェア」「セーフティーわん」と
進化するたびに名前を変えていき、
平成12(2000)年度からは全学校に導入しています。
 
 

波佐見陶器まつり

 
毎年ゴールデンウィーク期間に開催される
町内約150店の窯元・商社が出店して、
通常の3~4割引での販売がされるため、
多くの買い物客、やきものファンで賑います。
出店者と対話しながらの器探しは陶器まつりならではのお楽しみです。
 
また、鋳込み・絵付(有料)体験など、
やきものの産地波佐見町ならではの体験コーナーもあるので、
貴重な体験をすることも出来ますよ。
 

hasamitoukimatsuri.com