<番組紹介>
祝!国宝「通潤橋」
▽嫁入り道具にも「橋」。
縁起の良い意匠として珍重される
▽もうすぐ百歳!隅田川に架かる「復興橋」
▽「永代橋」と「清洲橋」、
二つの橋は名コンビ?
▽構造美と自然が響き合う「猿橋」
▽建築写真家・藤塚光政さん、
亡き友・大野美代子さんの代表作
「鮎の瀬大橋」を撮る
▽創建350年!
「錦帯橋」を受け継ぎ、守る大工たち
▽長崎・出島で橋を「拭く」?
▽草刈さんも「橋」造りに挑戦!?
<初回放送日:令和5(2023)年6月17日>
祝!国宝「通潤橋」(つうじゅんきょう)
令和5年(2023年)9月25日(月曜日)、
熊本県山都町に所在する「通潤橋」が
正式に国宝に指定されました。
「通潤橋」のような土木構造物が
国宝に指定されるのは全国初です。
「通潤橋」(つうじゅんきょう)は、
江戸時代の嘉永7(1854)年、
水不足に悩む白糸台地に水を送るため、
矢部の惣庄屋・布田保之助(ふたやすのすけ)が
”肥後の石工”達の持つ技術を用いて建設した
日本最大の石造りアーチ式水道橋です。
昭和35(1960)年に国の重要文化財に指定され、
この度、国宝に指定されました。
長さは約78.0m、高さは約21.3m、橋幅約6.6m。
橋の上部にサイフォンの原理を応用した
3本の石の通水管が敷設されていて、
今でも白糸大地の棚田を潤しています。
八朔祭りの時に行われる放水は有名です。
放水は通水管に詰まった堆積物を取り除く
ために行なわれています。
美の壺1.日常とハレが同居する、
特別な場所
橋と日本文化
(「三井記念美術館」学芸員・清水 実さんさん)
東京中央区にある「日本橋」は、
浮世絵のモデルとなった有名な橋です。
歌川広重の描いた
『名所江戸八景 大はしあたけの夕立』では
隅田川に架かる「大はし」(現在の「新大橋」)が、
『東都両国遊船之図』では両国の橋など、
「日本橋」だけでなく多くの橋が
日本人に愛され、絵のモデルとなりました。
工芸品にも同じことが窺えます。
江戸時代から三井家が収集し伝えてきた
日本・東洋の優れた美術品を所蔵する
「三井記念美術館」の学芸部長の清水実さんに
紹介いただきました。
大きな八角形の蒔絵の貝桶『住吉蒔絵貝桶』は、
『源氏物語』を題材にしたもので、
明石の君が源氏一行の住吉詣を伺っている
シーンを表しています。
大阪の住吉大社を象徴させる太鼓橋と鳥居、
松のある砂浜の景色を
黒地に金の蒔絵で表現しています。
非常に絢爛で、縁起のよい図案として
多くの工芸品のモチーフになりました。
住吉大社の祭を描いた
『四天王寺住吉大社祭礼図屛風 』には、
七月末に行われる大祭の様子が描かれており、
太鼓橋の上を男達が御輿を担いで渡御する
様子が描かれています。
清水さんは、
「橋」は日常的でないお祭り的な空間で、
古くから日本の暮らしに深く溶け込み、
馴染んで来たのだと教えて下さいました。
- 住所:〒103-0022
東京都中央区日本橋室町2-1-1
三井本館 7階 - 電話:050-5541-8600
永代橋(えいたいはし)
(元東京都職員.紅林章央さん)
東京都職員として、40年に渡り、
奥多摩大橋、多摩大橋の設計を始めとする
多くの橋梁の設計・建設に携わってきた
橋のエキスパート・紅林章央さんは、
橋を描いた浮世絵や絵葉書などの
コレクションをしてきました。
東京には、隅田川六大橋(相生橋、永代橋、
清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋)を始め、
歴史的遺産と言える美しい橋が数多くあります。
隅田川に架かる「永代橋 」の現在の橋は、
大正15(1926)年に関東大震災復興事業として
建てられた橋長185.2m、幅員22mの
当時の最新技術を採用した斬新な橋梁で、
国の重要文化財に指定されています。
そんな「永代橋」は、様々な変遷を経て
現在のような橋となりました。
「永代橋」が最初に架橋されたのは、
江戸時代の元禄11(1698)年です。
徳川政府による幕藩体制が安定し、
江戸の街が隅田川を越えるまで広がり、
「八百八町」が形成された頃です。
5代将軍・綱吉の50歳を祝う事業として行われ、
50歳を祝して「永代」と名付けられました。
(近隣の地名に因んだという説もあります)
以降、度重なる流失事故があり、
幾度も架け替え工事が行われてきましたが、
いつの時代にも江戸の名物であり、
葛飾北斎の『絵本隅田川両岸一覧』、
歌川広重の『名所江戸百景』などに、
いろいろな姿の永代橋が描かれています。
明治30(1897)年には、木橋から
道路橋としては初となる最新の鋼鉄
「スチールトラス」の橋に生まれ変わりました。
ところが、床組が木造であったために
大正12(1923)年9月1日午前11時58分に起こった
マグニチュード7.9の「関東大震災」で焼け落ち、
逃げる人の手助けにはなりませんでした。
そんな経験がきっかけとなって、
焼け落ちない橋を作ろうと
「震災復興橋梁」のひとつとして
大正15(1926)年12月に
今の「永代橋」は竣工しました。
「震災復興橋梁」とは、
震災直後から昭和5(1930)年にかけて、
復興事業の一環として架けられた
橋梁のことです。
架けられた「震災復興橋梁」の数は、
僅か8年間で総数425橋に及びます。
一部の橋は、改修や補修を重ねながら、
現在も都市の交通を支えています。
復興橋「清州橋」
復興橋の中で紅林さんがお気に入りの橋が
復興橋の華とも称される「清洲橋」(きよすばし)です。
震災復興局では、「清洲橋」を
重厚かつ雄大で男性的な
「永代橋」と対になるように
繊細で女性的なデザインを意図し、
当時世界最美の橋と呼ばれた
独ケルン市の大吊り橋「ヒンデンブルグ橋」
(戦禍で現存せず)をモデルとして
自碇式吊橋(じていしきつりばし)が採用し、
昭和3(1928)年3月に竣工しました。
そして架橋当時、深川区清住町と
日本橋区中洲町を結ぶ橋梁であったため、
各町名の一字をとり「清洲橋」と名付けました。
なお、平成19(2007)年6月18日に、
永代橋、勝鬨橋とともに
「国指定重要文化財」に指定されています。
「清州橋」は、耐震性を考慮したことよって
設計や施工も複雑となったため、
隅田川に架かる橋の中で最も多い、
通常の3倍の鉄が使われています。
強さと美しさを兼ね備えた「清州橋」は、
一般的な吊り橋と異なる独自構造をしています。
橋の両端にアンカーを装着しておらず、
板を6枚重ねたチェーンを直接、
橋桁の端に接続する方法を採っています。
チェーンを使う橋は日本の中で
「清州橋」だけです。
復興橋は、新時代の幕開けとして
東京の人々の支えとなりました。
隅田川の中で一番力を入れ、
ペアとして作られた「清洲橋」と「永代橋」は、
「清州橋」を180度ひっくり返すと
「永代橋」の形になります。
紅林さんは、
「橋は町の中の彫刻で美しくなくてはならない。
永遠の憧れ。」とおっしゃいます。
橋への愛情を感じます。
美の壺2.自然と響き合い、
風景となる
猿橋
(土木ライター・三上 美絵さん)
山梨県の東部にある桂川の深い渓谷にかかる
「猿橋」(さるはし)は「日本三大奇橋」のひとつで
ユニークなデザインの橋です。
「奇矯」(ききょう)と言うのは、
日本の中でも江戸時代頃に建造された古い橋で、
その構造が珍しく造形的にも美しいとされる
橋のことです。
歌川広重の「甲陽猿橋之図」や
十返舎一九の「諸国道中金之草鞋」などにも
見ることが出来ます。
「猿橋」の起源は、
西暦600年頃と言われています。
朝鮮半島の百済の造園博士の志羅呼(しらこ)が、
たくさんの猿が繋がりあって
対岸へと渡っていく姿からヒントを得て
作られたという逸話があります。
「猿橋」は高さ31mの位置に架かる、
長さ約30m、幅3.3mの橋で、橋脚が一本もない
「刎橋」(はねばし)という特殊な構造で造られて
います
「刎橋」とは、深い谷や流れが急な川など
橋脚が建てられない河川において、
橋の脚を使わずに、両岸から
「桔木」(はねぎ)という木を岩に刺して、
四層の桔木によって橋を支える構造のことです。
橋の重さがあるほど、両岸の桔木に力が伝わり、
より強固に橋全体を支える仕組みになって
います。
橋を支える桔木の部分に、
小さい屋根がつけられていて、
桔木の付け根の所から水が溜まりやすいので、
雨が少しでもかからないようにして、
橋を少しでも長持ちさせたいという思いから
出来たものです。
土木や建築を愛し、全国を旅して
"かわいい土木"の数々を紹介する著書を
出版している土木ライターの三上美絵さんは、
「猿橋」の大ファンです。
三上さんは、岩肌のゴツゴツとした感じと
せり出した段々となる桔木が、
風景に溶け込んでいると
猿橋の魅力をおっしゃいます。
橋の下に屋根があるなんてかわいいですね。
四季折々の季節と融合して美しいですね。
「かつしかハープ橋」
建築写真家の藤塚光政さん、
橋梁デザイナーの大野美代子さん
東京都八王子市の多摩美術大学の
アートアーカイブセンターには、
建築写真家・藤塚光政さんが撮影した
「かつしかハープ橋」の写真が収められて
います。
「かつしかハープ橋」は、
昭和62(1987)年に開通した
首都高速中央環状線を通し、
荒川と荒川放水路に跨る橋です。
高さ65mと29mの二本の塔から左右に
48本のケーブルが張られた
世界初の曲線斜張橋(きょくせんしゃちょうきょう)で
曲線とワイヤーが織りなす姿が、
まるで楽器のハープのようです。
夜にはライトアップされ、
葛飾の名所の一つになっています。
この橋をデザインしたのは、
橋梁デザイナーの大野美代子さんです。
大野さんはインテリアデザインから出発し、
その後、土木の世界にデザインをもたらし、
日本の街並みや景観を美しく豊かにするために
尽力しました。
特に橋のデザインにおいては、
昭和55(1977)年に「蓮根歩道橋」を手掛けて以降、
横浜ベイブリッジやフランス橋(横浜)、
名港中央大橋(名古屋)、女神大橋(長崎)、
鶴見橋(広島)、鮎の背大橋(熊本)、
小田原ブルーウェイブリッジ、
はまみらいウォーク(横浜)、
千葉モノレール橋脚など、65もの数を手掛け、
数々の賞を受賞するなど高い評価を受けました。
大野さんは、残念ながら
平成28(2016)年に逝去されましたが、
藤塚さんが撮影した大野さんの作品が
残されています。
藤塚さんは、他にも隈研吾さんや、
藤森照信さんなど多くの建築家から
支持を受けるキャリア60年超の写真家です。
「鮎の瀬大橋」
熊本県山都市には、大野さんの代表作
「鮎の瀬大橋」(あゆのせおおはし)があります。
「鮎の瀬大橋」は、緑川渓谷に架かる
長さ390m・高さ約140m・主塔の高さ70mを誇る
全国でも珍しいV型橋脚と斜張橋の
複合型の橋梁です。
橋のたもとからは谷の風景を眺めることが出来、
平成14(2002)年には「最優秀賞」を受賞しました。
平成11(1999)年の完成時に藤塚さんは、
大野さんに依頼されて
「鮎の瀬大橋」の写真を撮影しました。
今回、藤塚さんは、25年振りに
「鮎の瀬大橋」にやって来ました。
「鮎の瀬大橋」は
140m以上の深い渓谷に架かる橋で
通常の工法で建てるのは難しい環境です。
大野さんは、橋半分をワイヤーで重さを支え、
V字の橋脚をつけました。
ワイヤーはメタリックオレンジ色にしました。
遠くから離れて見ると、「鮎の瀬大橋」の
デザイン性がはっきりとします。
大野さんの言葉に「風景をつくる」という
言葉があります。
自然は美しいけれども
優れたデザインのものが入ると
風景がガラッと変わるという意味だそうです。
藤塚さんは、「鮎の瀬大橋」が出来た当初、
柱は山、V字の脚は谷を表現していると
感じたそうです。
そしてケーブルのオレンジ色が
景色に映えているのを見て、
大野さんの並々ならぬ感性に
今なお圧倒される藤塚さんでした。
美の壺3.人の思いをつなぐ場所
「錦帯橋」(きんたいきょう)
大工棟梁・海老﨑粂次さん
大工・沖川公彦さん
山口県岩国市にある「錦帯橋」(きんたいきょう)は、
国指定の名勝であり、日本を代表する木造橋
です。
30m以上の長さのアーチが5つ並んでいて、
ひとつひとつのアーチ部分は、
木材を丁寧に組み上げる
独特の「木組みの技法」工法で造られていて、
地元の大工の匠の技が代々伝わっています。
延宝元(1673)年、岩国3代藩主の吉川広嘉が
現在の橋の原型となる木造橋を架けましたが、
錦川の洪水によりすぐに流失。
翌延宝2(1674)年に改良を加えて再建された橋は、
昭和25(1950)年9月の台風29号で
流失するまでの276年間、威容を保ちました。
流失後、市民の強い要望により、
昭和28(1953)年に木の橋として再建されました。
平成13〜16年に劣化した木造部分を架け替える
「平成の架け替え事業」が行われました。
現在、橋の保守管理を担当している
大工の沖川公彦さんは、
当時28歳、最年少で作業に携わりました。
沖田さんは、岩国の大工として
絶対に失敗出来ないという緊張感と
ドキドキ感が混在した思いで参加したそうです。
次の橋の架け替え事業では、沖田さんが中心。
自分の代で衰退させることなく、次の代にも
繋げていきたいとおっしゃっていました。
「平成の架け替え」の
棟梁だった海老﨑粂次さんは、
立派な橋を架けるには
技を磨くだけでは十分ではないと言います。
「木造で、支えるものがない橋で
百尺を超えるものは世界中探しても
「錦帯橋」だけ。
地元の人の手で橋の架け替えをして
次へ渡すことは自然なこと」
長く地元の人たちに愛される橋です。
「出島表門橋」
(構造デザイナー・渡邉 竜一さん)
出島は、徳川幕府の命により
寛永13(1636)年に完成した人工の島です。
かつては4.5mの小さな石橋で繋がっていて、
約200年もの間、唯一、わが国と西洋を繋ぐ
役割を果たしてきました。
明治期に役割を終えた出島は、
その周囲は埋め立てられ
海に浮かぶ扇形の原形は姿を消しました。
昭和26(1951)年からは、
長崎市が出島の復元整備が始まり、
平成29(2017)年には、出島の玄関橋である
「出島表門橋」が完成し、昔と同じように渡って
出島に出入り出来るようになりました。
鉄製で落ち着いた雰囲気の「出島表門橋」は、
滑らかな曲線をしていて、
国史跡の出島側には重量をかけずに
出島の対岸部分だけで橋を支えています。
平成25(2013)年に、昔あった位置に橋を架ける
という計画がスタートしました。
その時の要件は2つ。
1つは出島は国指定の史跡なので、
出島側に橋台を設けてはいけないということ。
もう1つは文化庁からのもので、
復元と誤解されないよう、昔風のものではない
現代の橋にするということでした。
最優秀に選ばれ、橋を設計した渡邉竜一さんは、
歴史的風景を損なうことなく細部にこだわって
「出島表門橋」を完成させました。
波形の橋板には、
無数の穴を開けるなど軽量化に努め、
遠くから見ると橋の反対側が、
微かに透けて見える程度です。
ある日の夕暮れ、月2回行われる
「はしふき」というイベントのために、
橋のたもとに人が集まりました。
毎回15人程度が参加して、
バケツ片手に橋を拭いていきます。
参加者の伊井かおりさんは、デザイン的にも
優れているおしゃれな橋が好きなそうで、
関われることが嬉しいと言います。
小田結香子さんは、冬は寒いので橋を温め、
夏は冷やしてあげたいと思いながら
拭いているそうです。
渡邉さんは、まだ5年半の新参者の
「出島表門橋」が10年、20年・・・・と
歳月を積み重ね、人の感情が橋に触れることで
町の歴史に加えてもらえたら
地域の人々にも迎えてもらえるのではと
思っているそうです。