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美の壺スペシャル 「城」

<番組紹介>
世界遺産30周年の姫路城。
直木賞作家・今村翔吾がその魅力を全力で語る
 
▽城の姿を精巧に再現する城郭模型作家が
 「白眉」とたたえる松本城のベストスポット
▽穴太衆(あのうしゅう)が、
 極秘に受け継いできた「石垣」の技
▽“天空の城”竹田城。細部に宿る“神業”とは?
▽彦根城の庭園にみる、
 壮大でドラマチックな仕掛け
▽二条城と名古屋城は、極上「障壁画」
▽木村多江は、金沢城のなまこ壁に挑戦
▽草刈正雄の“家臣”登場!?
 
<初回放送日:令和5(2023)年11月11日>
 
 

美の壺1.時代を映す美の宝庫

 

姫路城
(直木賞作家・今村翔吾さん)


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シラサギが羽を広げたような優美な姿から
「白鷺城」(しらさぎじょう)の愛称で親しまれている
国宝「姫路城」。
標高45.6mの姫山の頂に建つ「大天守」と
3つの「小天守」(西小天守・乾小天守・東小天守)を渡櫓(わたりやぐら)でロの字に繋いだ
連立式天守を従えた複雑な構造と
様式の美しさは近代城郭建築の最高傑作と
言われています。
 
8棟が国宝、74棟が国の重要文化財です。
そして平成5(1993)年に日本で初めて
「世界文化遺産」に登録されてから、
今年で30年になります。
 
現在の「姫路城」は、慶長14(1609)年に、
池田輝政(いけだてるまさ)により築かれた城ですが、
基礎となる「姫路城」は正平元(1346)年に、
赤松貞範(あかまつさだのり)が築いたと言われて
います。
赤松氏の後は、西国統治の重要拠点として、
小寺氏、黒田氏が城主となり、
天正8(1580)年、黒田孝高(官兵衛)は
羽柴(後の豊富)秀吉の中国攻略のため、
城を秀吉に献上しました。
秀吉は、明智光秀(あけちみつひで)を倒し
天下人として大坂城へ拠点を移したことから、
姫路城」は出世城とも呼ばれています。
 
 
令和4(2022)年、『塞王の楯』(さいおうのたて)で、
「第166回 直木賞」を受賞した
時代小説家の今村翔吾さんにとって
姫路城」は原点の城だそうです。
そんな今村さんと「姫路城」を訪れ、
おススメの鑑賞ポイントを教えていただき
ました。
 
 

www.himejicastle.jp

 
 
まずは、大手門を潜って
「三の丸広場」へ向かい、
姫路城」の全体像を鑑賞します。
姫路城」は大きさや構え、バランスが取れた
総合的な美しさがあります。
 
現在の「大手門」は、昭和13(1938)年に建てられたもので、軍用車両の通行を確保するために、
軒高を高くしてあります。往時には桐の二門が
ありました。
 
三の丸広場」は姫路城の大手門を潜って
すぐに開ける広場で、姫路城の圧倒的な存在感を間近に感じることが出来ることから、
「世界遺産 姫路城十景」にも登録されている
撮影スポットとしては当たり前過ぎるぐらいに
定番の場所です。
 
「三の丸」から険しい坂を登ると、
姫路城」の最初にして最大の門で、
二の丸へ通ずる入り口を固める櫓門の
「菱の門」(ひしのもん)が見えてきました。
 
扉の左右には、2本の太い鏡柱(かがみばしら)
建っていて、その左側の柱には墨痕鮮やかな「国寳姫路城」の看板が掛かっています。
鏡柱の上部の横に渡された
冠木(かぶき)に飾られた木製の花菱が
門名の由来です。
黒漆、飾金具付きの格子窓と火灯窓などが、
桃山時代の優美で豪華な雰囲気を醸し出して
います。
 
鉄扉の厳重な二重櫓の「ぬの門」を潜ると、
目の前には、高石垣が見えてきました。
この石垣は、上に行くほど、扇を広げた時の
ような反り上がる曲線を描いていることから、
「扇の勾配」(おうぎのこうばい)と呼ばれています。
 
石垣が反り返っているのは、
敵に石垣を登らせない工夫ですが、
それでも登ってくる敵には、
上から「石落とし」が待ち構えています。
 
石垣の隅の部分は
「算木積み」(さんぎづみ)と言って、
直方体に加工された石を交互に積み上げて
強度を上げる積み方がされています。
美しくスラっと整う高い技術です。
石垣には、石の一つひとつに歴史があり、
積み上がる美しさがあると今村さんは
熱く語ります。
 
石垣の中に開けられた穴を出入口とした
「るの門」の石の階段を通り、
ようやく「大天守」へ到着しました。
 
平成21(2009)年6月から
平成27(2015)年3月にかけて行われた
「平成の修理」を終えた「大天守」は、
標高45.6mの姫山頂上部に建ち、
5重6階、地下1階、高さ31.49m、
石垣まで含めた高さは46m余りと、
現存天守の中では最大規模となります。
 
「大天守」の各重の三角形の「千鳥破風」と
緩やかな曲線を描く「唐破風」の
組み合わせのデザインも人気の一つだそうです。
 
最後は「大天守」と「小天守」を繋ぐ
「ロの渡櫓」(ろのわたりやぐら)に向かいました。
創建時は「北の長や」と呼ばれました。
東西の長さは約28.7m、広さ約84畳と
とても長い廊下です。
床材の両サイドは修復したものですが、
中央部は築城時のもので、
(ちょうな)痕が残り、ゴツゴツとしています。
 
お殿様も歩いたこの廊下を
足の裏にその感触を感じて
400年前の歴史を感じる今村さんでした。
 
 
  • 住所:〒670-0012
    兵庫県姫路市本町68
  • 開城時間
    午前9時00分~午後5時00分
    (閉門は午後4時00分)
  • 休城日:12月29日・30日
 
 

松本城
(城郭模型作家・島 充さん)

城郭模型作家の島充(しま みつる)さんは、
城の魅力をより多くの人に
身近に感じてもらいたいと
日本各地の城を再現しています。
その数は、40に渡ります。
現存するものばかりでなく、
空襲で焼失した城を再現しているものもあり、
学術的にも高い評価を受けています。
 
 
島さんは小学生の頃に、
旅行で「松本城」に訪れたことをきっかけに
城に興味を持つようになったそうです。
島さんは、城の魅力は子供でも分かる
カッコ良さや美しさにあると感じています。
 
 
長野県松本市のシンボル「松本城」は、
姫路城・彦根城・犬山城・松江城とともに
国宝に指定されている
「国宝天守五城」のひとつで
江戸時代までに建てられ
現在も残っている「現存十二天守」のうち、
五層六階の天守を持つ
日本最古の城として知られています。
 
現存十二天守
弘前城・松本城・丸岡城・犬山城・
彦根城・姫路城・松江城・備中松山城・
丸亀城・松山城・宇和島城・高知城
 
永正元(1504)年、前身となる
「深志城」(ふかしじょう)が築城され、
天正10(1582)年に、小笠原貞慶により、
深志城から「松本城」に改名されました。
その後、小笠原氏、石川氏、戸田氏など
城主は次々と移り変わり、
500年以上もの歴史を持つ古城となりました。
 
 
松本城」は、標高約590mの
松本盆地の平地に建つ平城です。
天守を囲むように三重の水堀が巡っています。
国宝天守五城の内、
水堀から直接立ち上がっているのは
松本城」のみです。
日本アルプスの山々を背景として、
漆黒の天守を水面に映す姿は実に美しく、
多くのファンを魅了しています。
 
 
島さんは、水面に映った天守は、
白眉だとおっしゃいます。
そんな島さんに松本城を紹介して頂きました。
 
 
城へと歩みを進めると、
少しずつ城の全体像が見えてきました。
黒い城だと思っていましたが、
城壁を覆う壁の上部は「白漆喰仕上げ」、
下部は「黒漆下見板」(したみいた)で、
この白黒の対比が、白い天守が多い
日本の城の中では、大変珍しいものです。
歩く度に白い軒裏(のきうら)と黒い板壁の
比率が変化していきます。
 
一説では、豊臣秀吉の下に出奔した石川数正が、
黒や金を好む豊臣秀吉に忠誠心を示すために
漆黒の天守を築いたとも言われています。
なお石川数正は息子の康長とともに
現在、私達が知る「松本城」の基礎を
築いた武将です。
 
 
いよいよ天守へ向かいます。
松本城天守閣は、外観は五重に見えますが、
内部は六階になっています。
天守三階が天守二重の屋根裏に設けられていて、
外からは分からない隠し階になっているのです。
窓が全くなく、この階の明かりは
南側にある千鳥破風の木連格子(きづれごうし)から
僅かに入るだけで、「暗闇重」(くらやみじゅう)とも呼ばれています。
戦時は武士が集まる場所として
使われたそうですが、
普段は倉庫として使われていたそうです。
 
 
柱が多くあり、柱の表面には、
手斧(ちょうな)で削った跡が模様となった
貝殻状の「はつり紋」が
美しく浮かび上がっています。
 
いよいよ最上階ですが、
島さんは不思議な表情を浮かべています。
島さんは、最上階の天守6階に上ると、
すぐに引き返したくなるそうです。
最上階に人が入るのは、
城主が落城する切迫した時で、
そう思うと厳しい建物なのだと感じて
逃げ出したい気分になるそうです。
当時に思いを馳せている島さんでした。
 
  • 住所:〒390-0873
    長野県松本市丸の内4−1
  • 開城時間
    8:30~17:00(最終入城 16:30)
  • 休城日
    年末12/29~31を除き無休
 
 

美の壺2.石の声をきく

 

彦根城
(十五代目穴太衆頭・粟田 純徳さん)


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滋賀・琵琶湖の東に位置する「彦根城」は、
彦根山(金亀山)を利用して
江戸時代初期に築かれた平山城(ひらやまじろ)です。
徳川四天王の一人井伊直政の子、
直継が築城に着工し、次男・直孝の代まで
18年の歳月をかけて築き上げました。
 
井伊直孝は大坂冬の陣で兄直継に代わって出陣し、
その功績により家督を継ぎました。
その後直孝は、秀忠・家光・家綱の三代に渡り、
将軍の執政となり、幕府政治確立にも貢献。
それらの功により3度加増され、
譜代大名としては例のない30万石となりました。
「彦根35万石」と言われるのは、
この他に幕府領5万石の預かりがあるためです。
 
 
「彦根城」は近世城郭と呼ばれます。
日本の城の多くは、
「山城」と「近世城郭」に
大別することが出来ます。
「山城」は、自然の山を削り、掘り、盛り固め、
堀や土塁などを造成した、
全体がほぼ「土」で築かれた城のことを
言います。
 
 
一方「近世城郭」は、織田信長の安土城以降、
江戸時代にかけて築かれた、天守を持ち、
高い石垣・広大な水堀・瓦葺きの建物などを
備えた「石」づくりの城です。
 
彦根城の石垣建築には、近江国琵琶湖西岸の
「穴太」(あのう・あのお)という所に居住した
石工集団「穴太衆」(あのうしゅう)
重要な役割を果たしました。
 
全国的に「穴太衆」(あのうしゅう)の名が
知られるようになったきっかけは、
信長の「安土城」の築城です。
世間があっと驚いた石垣の城の誕生に、
「穴太衆」が中心的な役割を果たしたためです。
「安土城」以降、城普請で引っ張りだこになり、
「石工といえば穴太」が定着し、
近江出身でなくても石工のことを
「穴太衆」「穴太方」などと呼ぶようになりました。
 
 
「石積みの里」としても知られている
比叡山の門前町でもある
大津市坂本を拠点に全国で活躍する
粟田建設」は、今も唯一
「穴太衆」400年の技を継承しています。
熊本地震で被災した熊本城石垣の
修復プロジェクトにも参加しています。
時には海外でも技を披露しています。
 
「穴太衆」(あのうしゅう)は、
「野面積み」(のづらづみ)と呼ばれる
自然石を加工せずに
そのまま積み上げる手法を得意としています。
穴太衆系譜を受け継ぐ家の第15代目当主・
粟田純德(あわたすみのり)さんは、
「野面積み」(のづらづみ)とは、
地震や豪雨への備えを考えた時に
最も耐久性に優れているとおっしゃいます。
 
石垣建築のほとんどが極秘事業で、
文書を残すことも禁じられ、
全てが口伝で伝えられています。
形と大きさが異なる自然の石を
そのまま使うため、
マニュアルに残しようがないためとも
言われています。
 
粟田さんも、祖父で13代目の
万喜三(まきぞう)さんから教わりました。
万喜三さんは「石の声を聞く」と言う言葉を
残しています。
 
彦根城の「天秤櫓」(てんびんやぐら)を支える
石垣は築城当時の石積みが分かる場所で、
「野面積み」の特徴がよく出ているそうです。
 


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「野面積み」では、
石と石の間に細かい石を入れて
「品」という字のように組んでいきます。
ひとつの石にだけ荷重がかからないように
工夫が凝らされています。
「石の声を聞け」と、
石の行きたいところへ行かせます。
大小のバランスを考えて自然の石で組み立て、自然の石をそのまま使うことが
美しいとされています。
 
 
彦根城「表門」近くの石垣は、
粟田さんの修業時代、
祖父について修復したものだそうです。
粟田さんは、日本独自の技法に美しさを感じ、人から見られて感激されるとやりがいを感じるとおっしゃっていらっしゃいました。
 
  • 住所:〒522-0061
    滋賀県彦根市金亀町1−1
  • 開城時間:8:30~17:00
    (最終入場)
    ・彦根城・玄宮園:16:30まで
    ・開国記念館  :16:45まで
  • 休城日:年中無休
    (開国記念館は12/25~31休館)
 
 

竹田城
(阪南大学教授・来村 多加史さん)


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「竹田城」は、兵庫県朝来市の
標高353.7mの古城山山頂に築かれた
日本百名城のひとつに数えられる
全国屈指の山城遺構です。
 
秋の良く晴れた朝には、
円山川から発生する濃い霧の中に浮かぶ姿は
「天空の城」と呼ばれ、
歴史ファンだけではなく
多くの人達を惹き付けています。
雲海に浮かぶ姿は向かいにある
立雲峡(りつうんきょう)から望むことが出来ます。
 
本丸は山の最高地点に置かれ、
二の丸・三の丸・南二の丸・東丸などが
配置された梯郭状の縄張りが、
虎が伏せたような姿に見えることから、
「虎臥城」(とらふすじょう、こがじょう)という
別名があります。
 
 
「竹田城」は、嘉吉3(1443)年に
山名宗全が基礎を築いたとされます。
天正8(1580)年、豊臣秀長に攻め落とされ、
その後城主となった赤松広秀により、
今見られる石垣は、積み方などから
赤松時代に築かれたと見られています。
関ヶ原の戦いで西軍にまわった広秀は
徳川家康により切腹を命じられ、
結果、「竹田城」は廃城となりました。
 
廃城から400年を経ていながらも
自然石をほとんど加工せずに積み上げた、
「野面積み」(のづらづみ)の石垣が
ほぼそのままの状態で残っており、
現存する石垣遺構としては日本屈指の規模です。
 
 
阪南大学国際観光学部教授大学教授の
来村多加史(きたむらたかし)さんは、
北京大学にも留学した経験を持ち、
日中考古学と中国軍事史が専門です。
来村教授は過去の様々な戦いを
文献と実地調査から読み解いています。
 
来村教授と竹田城を訪れました。
城への道を行くと、
やがて左手に石垣が見えてきました。
石垣に向かって石段を登ると
来村教授おススメの「大手門」に到着です。
 
現在の「大手門」は、
両側の石垣しか残っていません。
これは「穴太衆」が「野面積み」という
石積み技法を用いて積んだものです。
石をあまり加工せず、
乱積みで積み上げているので、
荒々しく迫力があります。
 
竹田城
  • 住所:〒669-5252
    兵庫県朝来市
    和田山町竹田古城山169
 
 

美の壺スペシャル企画
木村 多江さん、城の美を訪ねて
「金沢城」

 

玉泉院丸庭園
(石川県金沢城調査研究所所長 冨田 和気夫さん)

 
木村多江さんが、「城の美」を求めて、
石川県金沢市にやって来ました。
天正11(1583)年に前田利家が入城し、
加賀藩前田家が14代に渡り居城とした
「金沢城」は市街の中心地に城があります。
 
元々この地には、加賀一向一揆の拠点であった
「御山御坊」(おやまごぼう)という
浄土真宗の寺院がありました。
御山御坊は、天正8(1580)年に織田軍により
攻め落とされ、佐久間盛政により
築城されたのが「金沢城」の始まりです。
佐久間盛政が賤ヶ岳の戦いで秀吉に破れ、
天正11(1583)年、前田利家がを居城とし、
城造りの名人の高山右近や嫡男・前田利長に
城の改修を命じました。
なお金沢城の天守閣は慶長7(1602)年の落雷で焼失し、その後は再建されませんでした。
天守閣に代わっては三階櫓が建てられました。更に寛永8(1631)年、寛永の大火により
金沢城も炎上し、それまで本丸に置かれていた
御殿は二の丸に移されたと言います。
それも明治14(1881)年に、当時所管していた
旧陸軍の失火で焼失してしまいました。
 
 
木村さんはまず、藩主の内庭であった
「玉泉院丸庭園」(ぎょくせんいんまるていえん)
やって来ました。
石垣のある庭園を見たのは初めてだそうで、
強さと美しさを兼ね備えている庭園という
印象を持たれました。
 
石川県金沢城調査事務所の冨田所長に
「玉泉院丸庭園」内を案内していただきました。
 
庭園は、池泉回遊式の大名庭園で、
池底からの周囲の石垣最上段までの高低差が
22mもある立体的な造形になっています。
庭園に面した石垣は、
形状や色彩など外観の意匠に趣向を凝らした、
「見せる石垣」として造られており、
庭園の景色を特徴づける重要な要素となって
います。
 
庭園の中心に据えられ、
石垣の上部に滝を組み込んだ
「色紙短冊積石垣」は、その名前の通り、
正方形と長方形の石垣がバランスよく配置され
オブジェのようです。
太平の世、美的な見え方を追求した石垣です。
 

海鼠壁(なまこかべ)
(建設会社常務取締役・大道 浩さん)


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「金沢城」のもう一つのシンボル
「五十間長屋」(ごじっけんながや)は、
一般的には「多聞櫓」(たもんやぐら)と呼ばれる
武器兼什器などの倉庫を言います。
 
「櫓」は、敵情視察や武器などの収蔵、
防備などの役割も兼ね備えた建物のことで、
中でも「多聞櫓」(たもんやぐら)は石垣や土塁の上に建てられた、細長い長屋造のことです。
1階建てが多いのですが、複数層の物もある他、
単独で建てられたり、建物同士を繋ぐ位置に
造られて、廊下兼倉庫の役割を持つものも
あります。
名前の由来は、多聞山城を築いた松永久秀が
その櫓の内に多聞天(四天王の1つで北の守神)を
祀っていたことによると言われています。
 
「五十間長屋」(ごじっけんながや)の壁は、
「海鼠壁」(なまこかべ)と呼ばれる
縁が盛り上がっている個性的な壁をしています。
 
 
これは雪の多い北陸地方ならではの工夫です。
雪で壁が濡れるため、
壁面に四角い平瓦を横化菱形に並べて貼り、
継ぎ目には漆喰をかまぼこ型に盛り上げて
塗って補強しているのです。
 
また冨田さんによると、
「海鼠壁」のような手間の掛かる高級外壁は、
財力の証として、家臣に知らしめるものでも
あったようです。
 
「海鼠壁」の独特の美しさと有効性が、
今改めて見直されています。
 
「五十間長屋」の修復で
「海鼠壁」の仕上げを担当した左官工事会社「イスルギ」の大道浩さんを訪ねた木村さん、「海鼠壁」塗りに挑戦しました。
 
イスルギ」は、大正6(1917)年に
金沢で創業した左官の専門工事業社です。
「コテの天才」と呼ばれた創業者の半七を始め、
多くの左官の名工を輩出した伝統技術は
世代を超えて受け継がれていて、
姫路城や金沢城など歴史的建造物の施工も
行っています。
 
「漆喰」は、消石灰(しょうせっかい)を主原料に、貝灰(かいばい)・スサ・角又(つのまた)を添加し、
水で混ぜて作ります。
 
・「消石灰」
石灰岩から焼成して作られ、
二酸化炭素と反応すると硬くなるという
性質を持っています。
 
・「スサ」
関西では「スサ」、関東では「ツタ」と
呼ばれています。
自然素材のスサには「藁スサ」や「麻スサ」「ひだしスサ」といったようなものがあります。
漆喰が乾燥していく際に水分が抜け縮んで
いきます。
この縮みによる壁のヒビ割れを防止する
つなぎ材としての役割と増量材としての
役割があります。
 
・角又(つのまた)
クラック防止やコテ滑りを良くするスサや
天然の角又海藻から抽出したつのまた
 
 
まずは、「コテ返し」から学びます。
漆喰を均等に取って、
中央からサイドへ手早く塗ります。
同じ厚さで塗るのは職人技です。
 
等間隔にコテで塗るのは、
技術と根気のいる作業です。
まず瓦と瓦の間の目地の部分を
粗い漆喰を塗って盛り上げ、
その上にきめの細かい漆喰を上塗りして
仕上げます。
 
 
塗ること1時間。
今度はコテを替えて仕上げ、
2時間後、ようやく1本塗ることが出来ました。
コテやデコボコの跡が残ってしまいましたが、
木村さんは、塗り重ねる内に体が対応して
だんだんと漆喰がついてくれるようになったと
おっしゃいます。
自分と向き合う時間となったそうです。
 

成巽閣
(成巽閣館長・吉竹 泰雄さん)


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最後に木村さんは、「成巽閣(せいそんかく)
という御殿にやって来ました。
館長の吉竹さんに案内して頂きます。
 
成巽閣」は、文久3(1863)年に
13代藩主の前田斉泰(なりやす)
公家鷹司家から迎えた母君・真龍院のために
建てた隠居所です。
なお真龍院は、明治3(1870)年までここで
過ごしたそうです。
明治維新を機に兼六園が公園化するに伴い、
博物館・中学校・県議会などが置かれ、
明治40年代以降は前田家の別邸として使用され、
戦後は公益財団法人となりました。
 
敷地約6610㎡、建坪約990㎡の
「大名書院造り」と「数奇屋風書院造り」の
二つの様式を持つ建造物には
加賀百万石と称される財力を文化工芸に
惜しみなく注いだ前田家の建物に相応しい、
花鳥の意匠や豊かな色彩に溢れています。
加賀の工人だけで造り上げた
この見事な御殿は、
国の重要文化財となっています。
また細やかに手入れされた庭園は、
国の名勝に指定されています。
 
 
公式の御対面所として使われ、
上段、下段18畳からなる、
「謁見の間」(えっけんのま)を拝見します。
 
まず、上段の間と下段の間の間にある
色鮮やかな花鳥の彫刻欄間が目を引きます。
名工・武田友月(たけだゆうげつ)の作と
言われています。
ヒノキの一枚板を両面透かし彫りしたもので、
前田家の象徴である梅や吉祥柄である
赤い椿やブルーの極楽鳥が印象的です。
 
その奥には一段上がった「上段の間」があります。
天井は、格式のある格天井で壁は金色です。
障子の腰板には花鳥、柱には色漆が施され、
とても美しい空間です。
 
「謁見の間」や隣接する「鮎の廊下」には、
真龍院の夫、12代・斉広公が隠居所として使った
竹沢御殿のものを用い、亡夫の面影が残されて
います。
 
「松の間」は、「つくしの縁庭園」を
眺めることが出来る部屋のひとつで、
御休息の間として使われていました。
書院障子の腰板には、
色鮮やかな小鳥や野辺の草花を描いた
オランダ渡来のガラス絵が嵌め込まれています。
曲水の清音が響く庭園など、
母親への細やかな気遣いに溢れています。
 
御殿の2階も案内いただきました。
「群青の間」とそれに続く「書見の間」は、
色鮮やかなお部屋となっています。
天井は、杉柾を目違いに張り、
蛇腹と目地には西欧から取り寄せた大変高価な
ウルトラマリンブルーという顔料を惜しげなく
用いて鮮やかな群青に塗られています。
 
成巽閣
  • 住所:〒920-0936
    石川県金沢市兼六町1-2
  • 営業時間:9:00~17:00
  • 定休日
    水(祝日の場合は翌日)
    12月29日~1月2日
  • 料金
    入館700円(特別展は1000円)
 
 

美の壺3.技が伝える権威の空間

 

名古屋城・二の丸庭園
(名古屋城調査研究センター主査・原 史彦さん)

「名古屋城 二之丸庭園」は、
徳川御三家の筆頭・尾張徳川家の
居城「二之丸」に残る
「北御庭」「前庭」「東庭園」からなる
広さ3万㎡の大名庭園です。
 
庭の目立つ位置には、
「御祠堂」(おしどう)という儒教の経典が
納められた書庫があったことから
初代・義直公が作庭した時には、
儒教の教えをもとに庭を作ったと
考えられています。
それが10代藩主の斉朝公の頃になると、
庭には木や花が植えられ、
人をもてなす場に大改修されました。
 
北御庭と前庭は昭和28(1953)年に名勝指定され、
平成30(2018)年にほぼ全域が名勝として
追加指定されています。
 
ただ、明治時代に陸軍が駐屯した折に、
庭の一部が取り払われてしまいました。
現在、二の丸庭園をかつての姿に取り戻そうと
整備発掘の調査が進められています。
 
「名古屋城調査研究センター」の
原史彦さんによると、石組みや地割には、
初代・義直の頃の痕跡が残っているそうです。
 
「石組」(いしぐみ)
自然石を組み合わせて配置したもの、
またはその配置。
 
「地割」(じわり)
庭園設計をなす根幹のもので、
設計に従って池の形や島の配置、
築山の設け方、石組の配置などのことを言い、
これによって庭の時代識別やどの様な思想を持っているかが一目瞭然で知ることが出来る。
 
当時は庭の技術は
京都などの中央政権にしかなく、
その技術を受け継ぎ再現しているのは、
武将や領民に権威を見せつけるツールとして
使われていたと考えられています。
 
  • 住所:〒460-0031
    愛知県名古屋市中区本丸1番1号
  • 開城時間:9:00-16:30
  • 休城日 :12/29-31,1/1 (4日間)
 
 

彦根城・玄宮園
(作庭家・庭園研究家 野村 勘治さん)


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「玄宮園」(げんきゅうえん)は、
隣接する楽々園とともに江戸時代には
「槻御殿」(けやきごてん)と呼ばれた
彦根藩の下屋敷です。
4代藩主の直興公が延宝5(1677)年に
「近江八景」を模して造営しました。
更に江戸時代後期の文化10(1813)年に
第11代藩主の直中公が隠居屋敷として
再整備し、今日に近い形に整えられたと
言われています。
 
野村庭園研究所代表で、
庭園研究家・野村勘治(のむらかんじ)さんに
「玄宮園」の魅力を教えていただきました。
 
「玄宮園」は水が豊かな場所にあり、
それを活かした「魚躍沼」(ぎょやくしょう)
呼ばれる広大な入り組んだ池水を中心に、
池には大小4つの島が浮かび、
それらの島々には9つの橋が架けられています。
畔には臨池閣、鳳翔台、八景亭などの建物が
配されている変化に富んだ回遊式庭園となって
います。
 
池の水は、湧水の豊富な外堀から
サイフォンの原理により導水して供給し、
小島の岩間から水を落として滝に仕立ています。
池には船小屋があり、園内で舟遊びを催した
こともあったそうです。
かつては園のすぐ北側まで、
琵琶湖の松原内湖(まつばらないこ)に面していて、
大洞(おおほら)の弁財天堂や
菩提寺の清凉寺・龍潭寺への参詣、
松原下屋敷「御浜御殿」への御成りには、
庭園の北側の水門を開いて、
御座船(ござぶね)で出向いたようです。
 
 
「玄宮園」の入り口を入ると右手に橋が見え、橋と橋の間に切石が築かれています。
橋の先が見えないため、何があるのだろうと
興味をそそる演出になっています。
更に園内各所には、「玄宮園十勝」と呼ばれる
景勝スポットが点在しています。
 
 「玄宮園十勝」
  1. 「臨池閣」(りんちかく)
  2. 「鳳翔台」(ほうしょうだい)
  3. 「魚躍沼」(ぎょやくしょう)
  4. 「龍臥橋」(りゅうがばし)
  5. 「鶴鳴渚」(かくめいなぎさ)
  6. 「春風埒 」(しゅんぷうれつ)
  7. 「鑑月峯」(かんげつほう)
  8. 「薩埵林」(さったりん)
  9. 「飛梁渓」(ひりょうけい)
  10. 「涵虚亭」(かんきょてい)
 
「龍臥橋」(りゅうがばし)は、園内で一番大きな橋で、
橋の真ん中へ到着すると、
ようやく全体像が見えてきました。
 
「鶴鳴渚」(かくめいなぎさ)は、
松や岩組が見所です。
鶴の首に見立てた「鶴首石」(かくしゅせき)は、
天を突くような立石です。
 
池の北の畔「飛梁渓」(ひりょうけい)から
南西方向を望めば、水の上に浮かぶように立つ
「臨池閣」(りんちかく)
その奥の小高い山(築山)の上には
数寄屋造りの「鳳翔台」(ほうしょうだい)
更ににその向こう側に、
美しい国宝彦根城の天守がそびえて見えます。
 
野村さんは、「玄宮園」には「彦根城」を
より壮麗に見せる演出がされていると
おっしゃっていました。
 
 
玄宮園
  • 住所:〒522-0061
    滋賀県彦根市金亀町3
  • 開園時間:8:30〜17:00
    (最終入場16:30まで)
 
 

美の壺3.よみがえる古の至宝

 

名古屋城・本丸御殿
(名古屋城調査研究センター学芸員・朝日美砂子さん)


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名古屋城 本丸御殿」は、
尾張藩主の住居かつ藩の政庁として
慶長20(1615)年に完成しました。
内部は障壁画や飾金具などで絢爛豪華に飾られ、
江戸時代の先端技術を注いだ
「近世城郭御殿の最高傑作」と讃えられ、
天守ともに、昭和5(1930)年に
「旧国宝第1号」に指定されました。
ところが昭和20(1945)年5月14日の
「名古屋大空襲」により、
本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、
正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて、
焼失してしまいました。
 
 
「本丸御殿」は、平成21(2009)年から
復元工事を始めました。
復元には、大切に保管されていた
309枚の昭和実測図や約700枚の古写真、
戦火を免れた1049面の障壁画などの
第一級の史料を基に、現代の名工達が
細部に至るまで忠実に再現が進められました。
そして9年半後の平成30(2018)年6月に完成し、
現在、全面公開されています。
 
 
「本丸御殿」は、慶長20(1615)年に
家康九男で、初代藩主の徳川義直の住居として
建てられた御殿です。
「大坂の陣」直後、この本丸御殿では、
義直と浅野幸長娘・春姫との婚儀が執り行われ、
その後もしばらくは住居として使用しましたが、
元和6(1620)年に「二の丸御殿」に引っ越し後は、将軍上洛時の「御成御殿」(おなりごてん)
いわば迎賓館として使用されていました。
 
ただ実際に「本丸御殿」を使った将軍は
徳川秀忠と家光のみで、
その後は尾張藩士により警備と手入れが
行われるだけだったそうです。
 
 
学芸員の朝日美砂子さんに
名古屋城 本丸御殿」を案内して頂きました。
 
きらびやかで豪華な部屋ばかりです。
「御殿」は、「棟」毎に固有の役割があり、
藩主や家臣は、儀礼や行事毎に
「棟」を往来していたそうです。
そして襖や障壁画は部屋毎の役割に応じて
画題や技法を描き分けていたそうです。
 
 
 
名古屋城 本丸御殿」襖や障壁画は、
狩野派により描かれたものです。
例えば、玄関には虎やヒョウの絵が
描かれています。
これは、入ってくる人を威嚇し、
中にいる貴人を守るために選ばれた
モチーフです。
 
 
 
藩主と家臣が対面する表書院には、
桜やキジが描かれています。
藩主が座る上段の間には巨大な松が描かれ、
藩主の威厳を表しています。
 
 
「本丸御殿」で最も絢爛豪華な
「上洛殿」(じょうらくでん)は、
寛永11(1634)年に、京都に向かう途中の
三代将軍の家光が宿泊するために増築された
特別の棟です。
あまりにも豪華に造り過ぎたために、
家光が却って不機嫌になったと言われています。
 
室内の装飾は細部まで贅の限りが尽くされ、
障壁画は、当時33歳の狩野探幽が描いた
古代Chinaの朝廷を描いた「帝鑑図」(ていかんず)
「雪中梅花鳥図」(せっちゅうばいちくちょうず)などを再現したものです。
 
朝日さんは、このような棟は、
住むためのものだけでなく、
権威の象徴として見せるためのものとして
造られたとおっしゃっていらっしゃいました。
 
「上洛殿」の更に奥には、将軍が寛いだ
蒸し風呂の「湯殿書院」と
清須城内にあった徳川家康の宿舎を移築した
「黒木書院」があります。
 
  • 住所:〒460-0031
    愛知県名古屋市中区本丸1番1号
  • 開城時間:9:00-16:30
  • 休城日:12/29-31,1/1(4日間)
 
 

二条城二の丸御殿
(絵画制作主任・北尾かおりさん)


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二条城は、京都御所の守護と
将軍が京都に上った際に宿泊する目的で
作られました。
慶長8(1603)年に徳川家康が入城し、
そこで征夷大将軍の就任を祝う会が
開かれました。
 
15代将軍の徳川慶喜が
「大政奉還」を表明したことでも
有名な「二の丸御殿」は、
江戸初期の書院造の代表的な建物で、
江戸城・大坂城・名古屋城の御殿が失われた今日、
国内の城郭に残る唯一の御殿群として
「国宝」に指定されている
歴史上においても大変貴重な遺構です。
 
部屋の数は33室、広さ約800畳という
広大な空間となっています。
 
 
 
二の丸御殿」には、
安土から江戸時代にかけて活躍した
近世日本を代表する画家集団狩野派らによる
約3600面の障壁画が残されています。
昭和57(1982)年)には、そのうち1016面が
国の重要文化財に指定されています。
 
制作されて400年もすると、
絵具の剥落(はくらく)や紙の劣化を引き起こす
問題に直面したことから、二条城では、
これら貴重な障壁画を恒久的に保存するために、
昭和47(1972)年から順次御殿の間の絵を模写して
オリジナル作品と入れ替えるプロジェクトを
立ち上げました。
 
そして、築城400年を記念して
オリジナルの重要文化財の二の丸御殿障壁画を
収蔵、展示公開するために
平成17(2005)年)10月に開館しました。
 
 
収蔵庫では、障壁画は御殿と同じ配置で、
移動可能なパネル内に収納されています。
これらのパネルを、通常年4回、
御殿の部屋毎あるいはテーマ毎に選び、
ガラス張りの展示エリアに移動して
公開しています。
 
絵画制作主任の北尾かおりさんは、
プロジェクトに参加して30年のキャリアです。
北尾さんの制作風景を拝見しました。
半透明のプラスティックのシートに
墨の輪郭線を辿っています。
線の入り方や
最後に線が止まっているのか、
払っているのかを見極める、
繊細かつ重要な作業です。
高度なデジタル技術が発達した今でも
人の手の技術を大切にしています。
 
現在、二条城御殿の模写は約8割が終了し、
二の丸御殿の中に飾られています。
 
北尾さんは、写真ではない、模写という
日本独自の形で残し続けたいとおっしゃって
いました。
 
 
  • 住所:〒604-8301
    京都市中京区二条通堀川西入
    二条城町541
  • 二条城障壁画 展示収蔵館
    ・入館時間:9:00-16:30
          (閉館は午後4時45分)
    ・入館料 :100円(未就学児無料)
 

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