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美の壺 8Kスペシャル「木造建築・匠の技」

<番組紹介>
2020年ユネスコの無形文化遺産に
「伝統建築工匠の技」が登録された。
最古の木造建築法隆寺など、
日本の伝統建築は世界の宝であり、
それを守り継ぐ技が評価されたのだ。
8Kの高精細な映像でその匠の技の美と、
そこから生み出される美をとらえる。
また伝統の技を生かして
新たな表現への挑戦も併せて紹介、
日本の匠たちの豊かな世界を堪能する。
 
- 選定された保存技術17件 -

「建造物修理」

「建造物木工」

「檜皮葺(ひわだぶき)・杮葺(こけらぶき)

「茅葺(かやぶき)

「檜皮(ひわだ)採取」

「屋根板製作」

「茅(かや)採取」

「建造物装飾」

「建造物彩色(さいしき)

「建造物漆塗(うるしぬり)

「屋根瓦葺(がわらぶき)
(本瓦葺(ほんがわらぶき)

「左官(日本壁)」

「建具製作」

「畳製作」

「装潢(そうこう)修理技術」

「日本産漆生産・精製」

「縁付金箔(えんつけきんぱく)製造」

 
 

世界最古の木造建築「法隆寺


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新たにユネスコの無形文化遺産になった
日本の匠の技。
その象徴が世界最古の木造建築
法隆寺」です。
 
300年以上前、飛鳥時代の匠は、巨木を刻み、
建物として新たな命を授けました。
今も当時の姿を伝えているのには
理由があります。
それが匠の技。
回廊の柱に残る修理の跡は、
何代もの匠達が傷んだところを取り除き、
新たな木に替える修理を重ねてきた証しです。
 
匠達の手によって、世界最古の法隆寺
生きながらえているのです。
大工に左官に建具や屋根。
日本の職人達には、
古い建物の命を繋ぐ技術が伝わっています。
 
 
令和2(2020)年、貴重な文化財を守り継ぐ技が
「伝統建築工匠の技」としてユネスコの
「無形文化遺産」に登録されました。
その技は、文化財を守るだけでなく、
新たな美を生み出しています。
 

 ・住所:〒636-0115
  奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内 1-1-1

 
 

横浜「三渓園


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三溪園」は、製糸、生糸貿易で
財を成した実業家・原三溪
明治39(1906)年に開園した
敷地面積18万㎡の広大な日本庭園です。
 
原 三溪(本名富太郎)
(1868年/慶応4-1939年/昭和14)
岐阜県厚見郡佐波村(現・岐阜市柳津町)で
代々に渡り、庄屋をつとめた青木家の長男として生まれました。
幼少の頃から絵、漢学、詩文を学び、
明治18(1885)年に東京専門学校(現早稲田大学)に入学、政治・法律を学びました。
明治21(1888)年頃に跡見学校の助教師になり、
明治24(1891)年に、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿と結婚して原家に入籍。
原家の家業を継ぐと、個人商社を合名会社に改組、生糸輸出を始めるなどの経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として成功を
収めました。
実業家以外にも様々な面を持ち合わせた
三溪は、住まいを本牧・三之谷へ移すと
古建築の移築を開始し、明治39(1906)年には
三溪園を無料開園した他、美術品の蒐集や
芸術家の支援・育成を行いました。
1923年(大正12)の関東大震災後は、
横浜市復興会長に就任し、それまでの作家支援を止め、荒廃した横浜の復興に力を注ぎました。
三溪自身も書画を嗜み、その作品の一部は、
収蔵されています。
 
 
三溪園」は、梅や桜、ツツジ、紅葉などの
名所として知られ、
東京ドーム4個分の広大な敷地には、
国の重要文化財建造物10棟、
横浜市指定有形文化財建造物3棟を含めた
17棟の建築物を有し、
広大な敷地の起伏を生かした庭園との調和が
図られています。
 

 
 
聴秋閣」は、徳川家光の上洛に際し
元和9(1623)年に二条城内に建てられたもので、
後に家光の乳母であった春日局に与えられ、
嫁ぎ先の稲葉家の江戸屋敷に伝えられていた
建物です。
それが大正11(1922)年に
三溪園」への移築がなされ、
これをもって「三溪園」は完成となりました。
 
2階には眺望を楽しむ部屋があり、
複雑な形の屋根を頂く1階は
普通の四角ではなく変形五角形をしていて、
明かり取りとなる付書院は
通常見られる意匠とは大きく異なり、
小さな床(とこ)に対して
斜めに大きく設けられています。
そして、お客様を迎える玄関土間には
木目の美しい木のタイルが敷き詰められて
います。
破天荒なまでの遊びを
上質な空間にまとめ上げた、
江戸時代の大工の技が光ります。
 
日本の文化財建造物には、
保存修理が欠かせません。
 
高温湿潤な日本の環境においては、
木材はカビたり、虫にやられてしまって
傷んでしまいます。
特に根元部分は水に接しやすいので
腐りやすく、そのままにしておくと
建物全体が傷んでしまうため、
根元の部分だけ新しい木を用いて
取り替えなくてはなりません。
 
 
「根継ぎ」(ねつぎ)とは、
柱の下部が腐食したりした時に、
柱全体を入れ替えずに、
その部分だけ新しい材に交換することを
言います。
石の上に直接柱を立てる
「玉石基礎」(たまいしきそ)などでは、
柱の根本が腐ることがあるため、
「根継ぎ」を行わなくてはなりません。
 
 
三溪園」で最も有名な建物、
重要文化財「臨春閣(りんしゅんかく)では、
平成30年度から令和4年の8月まで
保存修理工事と耐震診断・補強工事が実施されました。
襖を受け止める敷居には、350年の間に
節が取れて穴が開いていました。
傷んだところを取り去り、
新しい部材で埋める「埋木」を施します。
この道19年の大工・砂田泰輔さんが、
同じ素材の栂(つが)の木を用いて、
正確に切り出した部材を埋めていきました。
繊細な修理の作業は、鋸や鉋などの
手道具でしか出来ません。
オリジナルの敷居に傷をつけない
熟練の技です。
 
更にもう一仕事。
墨汁や土を使って、
350年以上経った木の色に近づける、
「古色付け」を施します。
伝統建築の美を保つのは、
大工の手に掛かっています。
 
  • 住 所:〒231-0824
    神奈川県横浜市中区本牧三之谷58-1
  • 電 話:045-621-0634
  • 開館/閉館時間
    9:00~17:00(最終入園 16:30)
  • 休館日:12/29~12/31
 
 

大工道具

大阪・四天王寺

 
大阪の四天王寺は、1400年前の
推古天皇元(593)年に、聖徳太子が、
鎮護国家・済世利民のご請願により創建された
日本仏法最初の官寺です。
 
この四天王寺は、大工と道具の歴史に
深く関わっています。
境内にある「番匠堂」の周囲には、
「南無阿弥陀仏」と書かれた旗が立てられて
いますが、よく見ると名号(文字)の書体は、
鋸や指金、釘抜きなどの大工道具(番匠器)で
描かれています。

そしてお堂に祀られているのは、
曲尺(かねじゃく)を携えた聖徳太子。
そのお姿より、「曲尺太子」(かねじゃくたいし)と称され、日本における「大工の始祖」として 番匠(大工)達から尊崇されています。
 
  • 住所:〒543-0051
    大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
  • 電話:06-6771-0066
 
金剛組
聖徳太子は、四天王寺の伽藍建立に当たり、
当時、朝鮮半島にあった百済国より
「番匠」と称される名工を招き、
高度な建築技術を日本文化に取り込みました。
 
その百済から招いた大工の系譜を今に受け継ぐ
建設会社があります。
長年、四天王寺の宮大工を務め、
今は全国の寺院や神社を手掛ける
金剛組」です。
 
金剛組
 
飛鳥時代第30代敏達天皇7(西暦578)年創業。
世界で最も古い歴史を有する会社です。
578年に、聖徳太子の命を受けて百済より
招かれた3人の工匠のうちの一人が
創業者である金剛重光で、以降、金剛家の
当主は代々、四天王寺を護る大工の称号
「正大工職」という役目を与えられ、
神社仏閣建築の設計・施工、城郭や文化財
建造物の復元や修理等を主に手掛けて、
歴史を刻んできました。
平成17(2005)年までは、金剛一族が経営してきましたが、経営危機に陥り資金繰りが
悪化したため、その後は、「高松コンストラクショングループ」の支援を受けて、
新会社として事業を継続しています。
(正大工は現在不在)
 
 


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棟梁の篠崎守正さんは、人一倍、道具にこだわる職人さんです。
この日は、屋根の側面を飾る破風板(はふいた)の鉋がけを行っていました。
塗装をせずに、鉋仕上げの技だけで木目の美しさを引き出す「白木仕上げ」です。
 

 
作業に応じて、側面を削るには
「比不倉鉋」(ひふくらかんな)を使うなど、
何種類もの鉋を使い分けて鉋がけを行います。
最後は、研ぎ上げた刃が僅かに出た
「仕上げ鉋」で削ると、
透けて見える鉋屑の厚さは、0.01㎜程。
鋭い刃が木の組織を乱すことなく、
スパッと削っている証しです。
破風板(はふいた)にも艶が出ています。
磨くのではなく、刃物で出す艶。
優れた道具と匠の技が生み出した
日本独自の美です。
 
「木の美しさを生かすには、
 仕事の合間に絶えず行う研ぎが肝心。
 大工の基本だ」
と篠崎さんはおっしゃいます。
時には、刃の裏の、平らな面も磨きます。
完全な平面でないと、よく切れないからです。
鉄の板に当て、鏡のようになるまで磨きます。
手塩にかけて育てる大工道具。
道具は、正に自分の分身です。
 
竹中大工道具館

 
日本で唯一の大工道具の専門博物館
竹中大工道具館」には、
実用から美術品まで、選りすぐった
約1000点の大工道具が展示されています。
 
明治以降、大工道具は大きく発展しました。
刀を作れなくなった刀鍛冶が道具作りに
加わり、刀剣の技と美をもたらしたからです。
 

 
昭和26(1951)年に作られた
突きノミ「天爵」(てんしゃく)は、
日本人の道具へのこだわりが生み出した
究極の大工道具です。
ノミなのに手で持つ柄はありません。
使うための道具ではなく、
美しさを鑑賞するものだからです。
まるで美術刀剣のような緊張感のあるフォルムで、裏側には剣があしらわれています。
どこまで美しく作れるか、
一人の道具鍛冶が3年掛かりで挑んだ、
最高傑作です。
 
  • 住所:〒651-0056
    兵庫県神戸市中央区熊内町7-5-1
  • 電話:078-242-0216
  • 開館時間:9:30~16:30
        (入館は16:00まで)
  • 休館日 :月曜日 [祝日の場合は翌日]
         年末年始[12/29~1/3]
 
 
千代鶴是秀と江戸熊の絆


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作ったのは、千代鶴是秀(本名・加藤廣)。
幕府のお抱え刀鍛冶の家系に生まれ、
大工道具を芸術へ昇華させたと称される
大正・昭和を代表する鍛冶の名工です。
 
是秀は、「神雲夢」「嵯峨の秋」
「淡雪」「初契」などと
あたかも茶道具のように大工道具に銘を刻み、
箱書きをしたためて職人へ届けたそうで、
それ以来、銘を刻むことが広まっていった
そうです。
 

その是秀の道具に惚れ込んだのが、
戦前に活躍した名大工の江戸熊こと、
加藤熊次郎です。
借金をしてまで、是秀のノミを
買い求めました。
江戸熊がその生涯で揃えた是秀のノミは
何と37本にも及びます。
是秀も江戸熊の腕前を高く評価し、
2人は深い親交を結びました。
 

 
昭和17年、江戸熊は亡くなりましたが、
遺族からノミを託された是秀は驚きました。
全て作った時以上に見事に研ぎ上げられていたからです。
是秀は、江戸熊が残したノミを散逸させない
ように計らいます。
時代は戦時下。
ノミは金属の供出から逃れるために、
防空壕に隠されました。
守り抜かれた江戸熊のノミ。
大工と道具鍛冶の絆が、
このノミを今に伝えているのです。
人や神仏の住まいを作る道具には、
単なる物を超えた価値があります。
 
 

建具の美

清流亭
南禅寺山門の北に位置する
重要文化財「清流亭」は、
南禅寺一帯の別荘地開発を手掛けた
実業家・塚本與三次(つかもとよさじ)
建設したもので、庭園を囲むように、
建物が配置されています。
 

建築には、明治・大正きっての
数奇屋工匠・北村捨次郎が創意を凝らし、
琵琶湖疎水から水を引き入れた庭園は、
「植治」(うえじ)こと、七代目・小川治兵衛の
手による瀟洒な佇まいです。
 

 
東郷平八郎が「清流亭」と命名しました。
平成22(2010)年には、その吟味された材料と
熟練した伝統技術を駆使して建てられ、
洗練された意匠を持つ和風建築として
国の重要文化財に指定されています。
 
組子障子(栄建具工芸・横田栄一さん)


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建具の美、それは細部に宿ります。
「組子」は細い木材を組み合わせて
様々な文様を作っていくため、
0.1mmの誤差も許されない
非常に精度の高い技術で、
日本の伝統的な木造建築の中の
「襖」「障子」「欄間」などの建具に
用いられています。
 
横田さんの工房「栄建具工芸」では、
50年以上、その技術を磨き、30年程前からは、
組子を使って絵を描くことに挑戦しています。
 
「地組」という土台となる三角形の連なりの中に
「葉」と呼ばれる細かな部品を組んでいきます。
日本中の木材を調べて、様々な色を使い分けます。
黄色い葉は「漆」の木。
黒いのは地中に埋もれていた「神代桂」。
葉の木の色と密度を調整することで、
まるで絵のように模様を描きます
 
工房が作った組子の屏風「信濃の山河」。
山並みは、様々な葉の濃淡や色彩で表現して
います。
山の麓には、川が流れる里の風景。
大きな画面をこれまで開発してきた
組子の幾何学模様で飾りました。
木を知り尽くし、腕を磨いてきた
匠の技の極みです。
 
 

漆喰

漆喰総塗籠(国宝・姫路城


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日本を代表する国宝であり、
世界遺産にもなっている「姫路城」は、
「白鷺城」の異名の通り、
その白さが際立っています。
この白の秘密は
「漆喰総塗籠」(しっくいそうぬりこめ)
屋根瓦以外、壁から軒下に到るまで
外に露出している部分を白漆喰で塗り固めて
います。
 

 
これは美しさのためというだけではなく、
燃えやすい建材を「漆喰」で徹底的に
コーティングすることで、
防火性を高めることを意図したものです。
 
「漆喰」(しっくい)とは、
石灰を焼いた消石灰を水で練り、
藁やノリなどの繋ぎを入れたものです。
それを完璧に、ムラなく塗るのが
職人の技です。
扱うコテは 30種類以上。
狭いところを塗るのは小さなコテ、
広い面積を塗る大きなコテと、
条件によって使い分けています。
代々、姫路の左官達は、
およそ30年おきに漆喰を塗り替え、
その技を伝えてきました。
 
  • 住所:〒670-0012
    兵庫県姫路市本町68
  • 電話:079-285-1146
 
現在の左官(森田一弥さん)

 
お城から広まった漆喰の技は、
現代の私達の暮らしにも深く関わっています。
 
京都の町中にある隠れ家のような日本酒バー
たかはし」の店は土壁に包まれています。
仕上げ塗りの一つ手前の中塗りでとどめ、
土の質感を生かされています。
壁だけでなく天井まで塗り込めているため、
まるで土の中にいるような包まれ感があり
ます。
鉄の粒を混ぜて、寂びていく変化を楽しむ
「ほたる壁」には、
壁にちらほら蛍の明かりが舞っています。
 
土壁のバーを手掛けたのは、森田一弥さん。
当時は左官でしたが、現在は独立して、
建築家になっています。
京都の洛北にある静かな集落で
最近手に入れた古民家の自宅を
左官の技を使って改装しています。
 
土壁の一番下の層となる荒壁をそのまま
生かした素朴な味わいの土壁から、
高度な漆喰の技まで、
森田さんは左官の技の幅広さを
木造建築に生かそうとしています。
 
閉鎖した部屋は作らず、漆喰の壁で仕切った
開放的な間取りの新築の家は、
細かな葭の天井と、
大らかな曲線の漆喰が美しい、
高度な左官の技が光る建物です。
 
一方、京都の古い町家のリノベーションでは、
本来は表には出さない荒壁のままの壁の
その荒々しい質感が、古い家の趣に調和して
います。
 
建物の表情を決める土壁や漆喰の左官の技が
暮らしを彩ります。
 
 

屋根

「檜皮葺」(長野県・国宝「善光寺」)


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国宝「善光寺」の本堂は、日本で一番大きな
「檜皮葺き」(ひわだぶき)の屋根です。
 
高さおよそ29m、奥行き54m、
使われている檜皮の量は255t。
何と、全国の生産量の2年分。
檜の皮を積み重ねた
「檜皮葺き」(ひわだぶき)の屋根は、
柔らかく優美な曲線を描ける、日本ならではの屋根素材です。
豊かな森があって初めて造れる
巨大な屋根です。
 
  • 住所:〒380-0851
    長野県長野市長野元善町491
  • 電話:026-234-3591
 
 
杮葺(三溪園「臨春閣」)
植物の屋根は傷むため、
20~30年おきに葺き替える必要があります。
江戸時代初期に造られた重要文化財
臨春閣」の檜皮葺き屋根も
現在、葺き替え工事が行われています。
 
檜皮葺き屋根の下の庇(ひさし)は、
薄い木の板で葺いた
「柿葺き」(こけらぶき)になっています。
世界中に板葺きの屋根はありますが、
2~3㎜の木の薄板を幾重にも重ねて
施工するのは「柿葺き」(こけらぶき)だけです。
 
(さわら)の薄い杮板(こけらいた)
竹釘で留めていきます。
この杮板は、年輪が斜めに入り、
かなりの力を入れても割れることのない
特別な板です。
葺き上がったばかりの椹の木の美しい肌が
輝いていました。
 
(ひさし)の次は、
屋根に檜皮(ひわだ)を葺いていきます。
檜皮は檜の皮を薄く剥ぎ、75㎝程の大きさに
整えたもの。
それを濡らして柔軟性を持たせ、
竹釘で留めていきます。
木の皮が醸し出す、鄙びた質感。
自然に美を感じる、
日本人ならではの屋根素材です。
 
「檜皮採取」(原皮師(もとかわし)・大野浩二さん)


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飛鳥時代に瓦がもたらされるまで、
日本の建物は草や木の皮や板などの植物で
葺かれていました。
瓦が広まった後も、植物の屋根は受け継がれ、
とりわけ、「檜皮」(ひわだ)
最高級の屋根素材とされてきました。
 
日本人と森の深い関係が屋根にもあります。
今回「無形文化遺産」登録された
「檜皮(ひわだ)採取」に携わる
「原皮師」(もとかわし)として37年間、
檜皮葺き建物を支えてきた大野浩二さん。
 
採取出来る森は限られるため、
全国各地を飛び回る大野さんの拠点は
古くから檜皮の産地として知られてきた
兵庫県丹波市です。
 
檜皮は、樹齢80年以上のヒノキの立木から
採取します。
「振り縄」(ぶりなわ)という、
端に木の棒の付いた縄を木に巻き付け、
足掛かりと腰綱にし、木のヘラで皮を剥いて
いきます。
大きな木に朝から半日登ったまま作業する時もあるそうです。
 
木べラから手に伝わってくる感覚を頼りに、
木の肌を傷つけないように慎重に剥いで
いきます。
檜の赤い肌の内側にある、
木が成長する形成層に傷をつけなければ、
檜は生きている部分で成長を続け、
10年後に再び採取することが出来るのです。
 
自宅に戻ると、
採取した檜皮を屋根材料として整える作業が待っています。
皮を薄く剥がし 1.5㎜の厚さに揃え、
2尺5寸を基本とした長さに裁ち、
30kgの丸皮に仕上げるのも原皮師の仕事です。
最初に採取したものは「荒皮」と呼ばれ
歩留まりが悪いのですが、
2回目からは「黒皮」と呼ばれるキレイな皮が採れます。
特に丹波産の檜皮は「黒背皮」といって、
光沢と粘り気があり、
耐久性が高い高級品として知られています。
 
かつてこの集落には、
何人もの原皮師がいましたが、
今は大野さんの家だけになってしまいました。
全国にいる原皮師もまた深刻な後継者不足に陥っていることから、
大野さん達は職人の養成に力を入れています。
地元の協力を得て、森を借りて原皮師養成林として 研修の場にしています。
また、全国で檜皮を採ることの出来る森を増やす取り組みも続けています。
後継者を育てるのも檜皮の森を育てるのも、
100年先を見据えた息の長い仕事です。
木造建築の匠の技、それは森の恵みの賜物でした。
 

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