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美の壺「心そのもの 禅」<File 588>

<番組紹介>
心模様で姿を変える
京都、相国寺・枯山水の庭園。
人の形にならった瑞龍寺の
七堂伽藍(しちどうがらん)を雑巾がけする
住職の日課。
 
▽迫力のダルマ画で知られる禅僧、
 白隠(はくいん)の描いた「白隠マンガ」。
 ○がまんじゅう!?多くの禅僧が描いた
 「丸」の意味を作家で禅僧の玄侑宗久さんが
 読み解く。
▽肖像画の真骨頂「頂相(ちんそう)」。
 死の直前に書かれた「遺偈(ゆいげ)」に、
 書家、紫舟さんが対面。
 
<初回放送日:令和5(2023)年9月13日>
 
 
 

美の壺1.空間に身を置く

 

京都「相国寺
(宗務総長・佐分 宗順さん)


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京都「相国寺(しょうこくじ)は、
正式名称は、「萬年山相國承天禅寺」
(まんねんざんしょうこくじょうてんぜんじ )
と言います。
明徳3(1392)年に、
室町幕府三代将軍の足利義満により
足利将軍家の菩提寺として創建されました。
 
臨済宗相国寺派大本山で、
金閣・銀閣両寺を始め、90を数える末寺を擁す、
「京都五山」の第二位に列せられる名刹です。
 
「京都五山」(きょうとござん)
京都にある「臨済宗」の五大寺。
「南禅寺」を別格とし、
その下に「天龍寺」「相国寺」「建仁寺
東福寺」「万寿寺」が位置します。
室町時代、足利義満の時に定められました。
 
室町時代には五山文学の中心地として栄え、
多くの高僧を輩出し、
禅文化の興隆に貢献しました。
山水画を大成した水墨画家の雪舟(せっしゅう)
相国寺の出身の画僧です。
 
 
「応仁の乱」に巻き込まれるなど、
度々火災に見舞われて、
衰退と再建を繰り返しましたが、
その中で「法堂」は豊臣秀頼の寄進によるもので、日本最古の法堂建築として国の重要文化財に
指定されています。
 
その「法堂」の東にある「開山堂」は、
その名の通り、開山・夢窓疎石(むそうそせき)の木像が安置されている堂で、
境内で最も大切なところです。
 
仏教寺院において「開山」とは、
当該寺院に最初に住した「僧」のことを
指すのが通例で、寺院の創立を発願し、
経済的基盤を提供した人物である
「開基」とは区別されます。
 
 
相国寺では、「お堂」や「伽藍」だけでなく、
「庭園」なども含めた取り囲む環境全てが
宗教的空間だと考えられていて、
信仰の対象として、切っても切り離せない
ものとして重視されていると、
宗務総長・佐分宗順(さぶりそうじゅん)さんは
おっしゃいます。
 
 
「開山堂」の南側に広がる「開山堂庭園」は、
「龍渕水の庭」(りゅうえんすいのにわ)とも呼ばれ、
石や砂を水や山並みに見立て、
深山幽谷の世界を表しています。
 
庭園は、前面は白砂敷きの「平庭式枯山水」で、手前の白砂の上には波の水紋が広がり、
石組は山々を象徴しています。
後方は苔敷きの緩やかな築山とし
木々が配され、四季の移り変わりとともに
様々な姿を見せます。
更にそれらの間を隔てるように水路を設けた、珍しい様式になっています。
 
この水路には、かつては旧今出川の一部として水を引き込み、小川が流れ、その水は京都御所内の池泉庭園へと続いていたそうです。
相国寺ではこれを「龍淵水」と称し、
この前庭を「龍渕水の庭」と呼んでいました。
ただ昭和10(1935)年頃には水源が途絶え、
涸れ流れとなりました。
 
 
中央には「座禅石」(ざぜんせき)が据えられていて、
ここに座し瞑想することで、
目の前は大海にも川にも雲海にも姿を変える、
心の有り様で景色が変わる空間になっています。
 
仏教の真髄、悟りの世界に近づくような
1つの手段として、ただ黙ってここへ座る、
この中に身を置くということが重要なのでは
ないかと佐分さんはおっしゃっていました。
 
 
夢窓疎石は、日本初の作庭家とも言われ、
自らを「石立僧」(いしだてそう)として、
禅宗庭園の基礎を作りました。
「苔寺」の愛称で知られる「西芳寺庭園」、
『太平記』に「天心秋を浸す曹源池」と
記される「天龍寺庭園」、
岐阜県多治見市の永保寺庭園、
鎌倉の瑞泉寺庭園、 山梨市の恵林寺庭園など、
いずれも夢窓疎石作庭の由緒を持つ名園です。
 
 
  • 住所:〒602-0898
    京都府京都市上京区今出川通
    烏丸東入相国寺門前町701
  • 電話:075-231-0301
 
 

富山県高岡市「瑞龍寺
住職・四津谷道宏さん


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富山県高岡市にある「瑞龍寺(ずいりゅうじ)は、
曹洞宗の寺院で加賀藩前田家の菩提寺です。
 
朝7時、31世住職・
四津谷道宏(よつや どうこう)さんの一日は、
高廊下の雑巾がけから始まります。
30年続けている日課です。
四津谷さんは、掃除も、寝ることも、
食べることも、全てが修行だと
おっしゃいます。
 
 
瑞龍寺」は、江戸初期の禅宗様建築で、
山門・仏殿・法堂は富山県で唯一の国宝です。山門に立って眺める佇まいは、
豪壮でありながらも、漂う気配は凛としていて、
禅寺らしく端正です。
 
瑞龍寺」の伽藍(がらん)は一直線状に並び、
左右に回廊が巡らされて、
諸堂が対称的に配置されています。
四津谷さんによると、
寺の形が仏様の身体のかたちと同じ
「七堂伽藍」(しちどうがらん)で構成されている
そうです。
ですから「伽藍」をキレイにすることは、
体をキレイにするということと
同じ意味があるとおっしゃいます。
 
境内のお腹、つまり肝である中心には
「仏殿」(ぶつでん)が置かれ、
背骨のごとく一直線に
「山門」「仏殿」「法堂」(はっとう)
配されています。
そしてそれぞれの「伽藍」を
血管のように繋ぐのが、
300mに及ぶ「回廊」(かいろう)です。
 
「仏殿」の内部を見せていただきました。
Chinaの禅宗様式に倣って、
中央に「釈迦如来」、向かって
右に獅子に乗る「文殊菩薩」(もんじゅぼさつ)
左に白象に乗る「普賢菩薩」(ふげんぼさつ)
釈迦三尊像が祀られています。
三尊の背景の「来迎壁」(らいごうかべ)は、
能登で切り出された樹齢600年の
赤い欅(けやき)の木目を横にして
夕方の雲のように配しています。
「大乗仏教」の歴史に倣い、
お釈迦様が西方からいらっしたということで、
「来迎壁」(らいごうかべ)の木目の雲海の向こうに
「天竺」(てんじく)があることを想起させるように
なっています。
 
四津谷さんは、目の前の釈迦は
自らの心を映す鏡だとおっしゃいます。
仏様や伽藍を見た時、
自分自身にどう映るのか。
禅寺の空間に身を置き、自らと向き合う
静寂の時。
心の姿が立ち現れます。
 
 
  • 住所:〒933-0863
    富山県高岡市関本町35
  • 電話:0766-22-0179
 
 

美の壺2.メッセージを読みほどく

 

京都市「法輪寺」
花園大学国際禅学研究所顧問・芳澤 勝弘さん)


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京都市上京区にある「法輪寺」(ほうりんじ)
通称「達磨寺(だるま寺)」と呼ばれる通り、
境内の「達磨堂」には、大小、様々な
約8000体ものダルマが奉納されています。
 
「達磨寺」として親しまれるようになったのは、
昭和20(1945)年、第10代伊山和尚が
禅宗の始祖・達磨大師(だるまだいし)
「七転び八起き」の精神にあやかり、
日本の戦後復興を祈念して「起き上がり達磨堂」を建立したことから始まりました。
2月の「節分会」と11月1日の「達磨忌」には
多くの参詣者で賑わいます。
 
第10代・伊山和尚は、
「だるまの何度倒しても起き上がる姿」に
なぞらえて、禅宗を当時の大衆に広めた他、
江戸中期の臨済宗中興の祖にして、
多くの禅画を残した白隠慧鶴(はくいん えかく)
『白隠和尚全集』を刊行したことも
業績の一つとして評価されています。
 
白隠の画題は、
釈迦や菩薩といった仏教に由来するものから、
七福神やお福のような民間信仰に根差したもの、
動物を擬人化したものまで実に様々あり、
その数、10万点とも言われています。
中でも、白隠と言えば「達磨像」が有名です。
 
「達磨大師」は元々インドで生まれ、
Chinaに渡って禅宗を伝えた
中国禅宗の開祖です。
 
 
寺に伝わる白隠慧鶴の禅画「達磨図」を
見せていただきました。
芳澤勝弘(よしざわ かつひろ)さんによると、
ダルマを太い線で描くようになったのは、
白隠から始まったそうです。
 
「達磨図」の横には「賛(画賛)」と呼ばれる
言葉が記されています。
 
「直指人心、見性成仏」
(じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ )
 
人間の心の根本を見詰めて、
人間の誰にもある仏性(ぶっしょう)というものに
目覚めなさいというメッセージだそうです。
 
 
インドの言葉で「ダルマ」は、
「真理」と言う意味があるのだとか。
それを象徴する存在として描かれたのが
太い線で描かれたダルマだと
芳澤さんはおっしゃいます。
 
 
単に達磨像を描くだけではなく、
禅の法語などからなる「賛」を加え、
ダイナミックな筆致で描かれた絵が、
独特の迫力を見る者に感じさせるからでしょう。
 
「画賛(賛)」 とは、絵の余白に書き添えた
文章または詩歌のことを言います。
元々は、「画に対する賛辞」のことでしたが、
禅宗で、師が弟子に対して「自賛」の肖像画「頂相」を与えることで相伝の証とする習慣が宋代に生まれ、鎌倉時代以降、禅宗とともに
日本にも導入されると、「賛」を絵画に入れる
習慣が一般化しました。
普通は、絵の筆者以外の人物が賛を付けますが、
作者自らが「賛」を書くこともあり、
そのことを「自画自賛」と言います。
 
 
吉澤さんがご自身がお持ちの
白隠の禅画を見せてくれました。
ダイナミックな筆致の
「ダルマ」とは違うタイプの禅画で、
芳澤さんは「白隠マンガ」と呼んでいます。
 
 
禅画「巡礼落書」には、蓑と笠をつけた巡礼者が連れの背中の上に立って
「このお堂に落書きしてはいけません」と
落書きをしています。
落書きはダメと落書きをする矛盾。
 
それを解く鍵が「賛」に書かれた
「響く瀧つせ」(滝の音)です。
「滝」は「観音菩薩」の姿を投影したものと
考えられていました。
ところがこの禅画には
「滝」も「観音菩薩」も描かれていません。
画面の外にいるのだそうです。
 
 
芳澤さんは、研究と言っては
読み書きをしてきたが、
最終的に何をしてきたかと問われると、
観音菩薩の世界から見たら
「私は落書きをしてませんよ」と
落書きしているようなものではないか、
と説明して下さいました。
白隠は「絵」という方便を使って、
禅の教えを気づいてもらおうとしてきたのだ
とおっしゃっていました。
見る側を取り込む、白隠の漫画です。
 
法輪寺
  • 住所:〒602-8366
    京都府京都市上京区下立売通
    天神道西入行衛町457
  • 電話:075-841-7878
 
 

仙厓義梵
(福島県三春町「福聚寺」
住職・作家・玄侑宗久さん)

 
福島県三春町にある
「福聚寺」(ふくじゅうじ)は、
戦国大名・田村氏の菩提寺で、
田村氏三代の墓がある臨済宗の寺院です。
現住職は、芥川賞作家でもある
玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さんです。
 
そんな「福聚寺」の本堂には、
江戸後期の臨済宗禅僧・
仙厓義梵(せんがいぎぼん)の書いた
「多子分坐満面慚紅」という文字が
(たしぶんまんめんにざんくす)
左右の「聯」(れん)に仕立てられて残されています。
 
「多子分坐満面慚紅(たしぶんまんめんにざんくす)
 
「多子塔の前で摩訶迦葉に座を分かち、
 袈裟で隠してこそこそ付法したようだが、
 まったく恥ずかしく赤くなっちゃうよ」と、玄侑氏が訳せばむずかしい言葉も力が抜ける。
 
 
 
仙厓義梵(せんがいぎぼん)と言えば、
自由闊達でユーモラスな絵画を多数描き、
その画境そのままの人柄で博多の人々に
「博多の仙厓さん」と敬愛された
江戸後期の禅僧です。
庶民でも仏の教えが分かるようにと
親しみやすい禅画を描きました。
 
しかし美濃の貧しい農家の出身であった仙厓は、若き日はその不遇な己れへの怒りを抱え、
「天明の飢饉」に苦しむ東北を行脚したようで、
「福聚寺」にも滞在したようです。
 
葛藤の中で、峻厳な青年僧から
洒脱な和尚さんとなる仙厓の境地について、
力強くせまった『仙厓 無法の禅』という
著書を持つ玄侑さんに
仙厓の禅画を見せていただきました。
 
 
竹の禅画「此竹画讃」に描かれている竹は、
煤払いに使われるような竹です。
「賛」には、
「この竹は、小さいけれどもぬっときた」
と書かれています。
竹を庶民に見立て、
「くじけそうな人々に粘り強く跳ね返せ」
という仙厓のメッセージが込められている
と玄侑さんはおっしゃいます。
 
 
図形の丸を一筆で描いた「円相」(えんそう)は、
禅における書画のひとつで、
円は「無限」や「悟りの心」など、
多くの禅僧が多様な解釈で描きました。
 
玄侑さんによると、
円は惰性が1つも混じらない形なので、
気を抜いて描くと生きた円にならない。
心が常に躍動していること、
白紙で向かうことが重要だとおっしゃいます。
 
ところで仙厓の「一円相画賛」(いちえんそうがさん)
どうかと言うと、丸い円がひとつ描かれ、
「これを食ふて 茶のめ」という「賛」が
書かれているだけです。
禅語「喫茶去」(きっさこ)をユーモアたっぷりに、
分かりやすくています。
 
 
忙しい時などには、真っ新な気持ちで
事に向かうことを忘れてしまいがち。
おそらく仙厓さん自身もそういうことはあり、戒める意味もあったのではと
玄侑さんはおっしゃいます。
 
過去は全部投げ捨てて白紙の心を持つこと、
あれこれや難しく考えないで、
今に向き合って生きること・・・。
禅画を通じて、そういうことを
自分にも周りにも求めてるのではないかと。
 
「喫茶去」(きっさこ)
唐代の禅僧、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)
禅語録にある言葉として有名です。
元々は「お茶を飲みに行け、
お茶を飲んで目を覚まして来い」の意味で、
相手の怠惰を叱責する言葉でしたが、
趙州従諗のエピソードが基となり、
「お茶を一服如何ですか」とか
「どうぞお茶でも召し上がれ」という意味に
なりました。
 
趙州和尚が新到(新参者)の僧侶に対して、
「以前にもここに来たことがありますか?」と尋ねると、「いいえ来たことはございません」と新到が答えたので、「そうですか、どうぞお茶を召し上がれ」と言ってもてなしました。
次にやって来た別の新到の僧侶に対しても
「以前にもここに来たことがありますか?」と尋ねると、「はい、来たことがございまず」と新到が答えたので、「そうですか、どうぞお茶を召し上がれ」と言ってもてなしました。
 
その様子を見ていた院主(寺務総長)が、
「初めて参った新参者にお茶を召し上がれと
言われるのは分かりますが、以前にも来たことがある者にもお茶を召し上がれとまた言われるのでしょうか?」と尋ねました。
すると「院主さん」と趙州が呼びかけて、
院主が「はい」と返事をすると、
再び趙州は「さあ、どうぞお茶を召し上がれ」と言いました。
この時に、院主は、はたと禅宗の奥義について悟ったのだそうです。
 
福聚寺
  • 住所:〒963-7767
    福島県田村郡三春町御免町194
  • 電話:0247-62-2569
 
 

美の壺3.教えを伝える

 

「頂相」(京都市「東福寺」・
京都国立博物館」研究員・森 道彦さん)


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「京都五山」第四位の禅寺「東福寺」は、
摂政・藤原(九条)道家が九条家の菩提寺として、
鎌倉時代に19年の歳月をかけて建立されました。
規模は「東大寺」に次ぎ、
教行は「興福寺」に倣うという意味から、
東福寺」と名付け、
「京都五山」の1つとして栄えました。
 
 
開山(初代住職)は、南宋での修行を終えて
帰国していた「円爾弁円」(えんにべんえん)です。
 
円爾は南宋から帰国する際に携えた典籍は
千巻余と言われ、これによって仏書や儒書の
研究が飛躍したと言います。
また南宋から帰港した博多で、病魔退散の祈祷を行ったことが、「博多祇園山笠」の起源になった言われています。
 
茶の種子を駿河にもたらし、これが「静岡茶」の元となったとも言われています。
他にも、饂飩・饅頭・人形などの技術を持ち帰り
それを国内に伝えました。
 
応長元(1311)年、花園天皇から「聖一国師」(しょういちこくし)という号を贈られました。
 
 
「禅のあり方」を教えていただきました。
 
禅宗は「心」を伝える宗教で、
悟りや真理を伝えるために
特定の経典や文字を用いず、
師匠の姿や行動を見て弟子が体得するもので、
師匠は、弟子が真理に気づけるように
導き出すよう示すのだそうです。
 
東福寺には、円爾の「頂相」(ちんぞう)
[重要文化財]が残されています。
顔の部分は細い線で描かれている一方、
身体の方は太い線で対比して描かれています。円爾が51歳の時に病んだ右目は細く描かれ、
老いた、ありのままの姿で描かれています。
 
「頂相」(ちんぞう)
元来は、仏の頭頂の肉が盛り上がっている
部分「肉髻」(にくけい)のことを指し、
「頂上の尊い相」という意味から、
禅僧の肖像画を指すようになりました。
 
「禅宗」では、師匠の人格そのものが
「仏法」として尊ばれ、
弟子は師との厳しい精神的な修練を通じて
悟りに至ると考えられました。
そして、師の僧が弟子の僧侶に対して、
法を正しく嗣いだことを示す「印可状」の
一部として「自賛」の肖像を与え、
弟子はそれを師そのものとして崇め、
大切にしたことから、禅宗の普及と共に
「頂相」は多く描かれました。
 
 
塔頭の国宝「龍吟庵」(りょうぎんあん)は、
円爾の弟子で、東福寺の第三世住持であった
無関普門(むかんふもん)禅師
(諡号は大明国師(だいみんこくし))の住居跡で、
墓所でもあります。
 
ここには、大明国師の彫刻の「頂相」が
残されています。
「頂相」は肖像画だけでなく、
3次元の立体彫刻としても造られました。
墓の上に彫刻の「頂相」が乗っている墓頭です。
大明国師を理想化することなく、
目、耳たぶ、病気の傷跡などの顔の特徴を
そのまま精巧に作ることで、
禅師の精神を伝えています。
 
 

「遺偈」
(「東福寺資料研究所」所長・石川 登志雄さん)

 
弘安3(1280)年10月17日、
円爾は最後の力を振り絞って、
「遺偈」(ゆいげ)を書き、入滅しました。
 
「遺偈」(ゆいげ)とは、
高僧が自らの死に臨んで遺す、
辞世の詩句のことです。
高僧はこの「遺偈」の中に、
自分の感懐や信仰の根幹、
あるいは弟子や後世への教訓などを
記しました。
 
「美の壺」の題字でお馴染みの書家の紫舟さんは
円爾の「遺偈」を見せていただき、
「東福寺資料研究所」の石川登志雄さんと
読み解きました。
 
釋辯圓遺偈
利 生 方 便
七 十 九 年
欲 知 端 的
佛 祖 不 傳
 
 
利生し方便すること、
七十九年。
端的に知らんと欲す、
佛祖の傳はらざるを
 
「79年間、衆生のためにと願い尽くしてきたが、
 明確に真理を得ようとしても、
 仏祖はついに示してくれなかった
 (皆が、教えを伝え、悟りを得なさい)」
という意味だそうです。
 
 
周囲の人が支え、最期の力を振り絞り、
一字、一字書いたものではないかと
紫舟さんは読み取ります。
石川さんによると、短時間で書いた書で、
こんなに力を持った書はあまりないそうです。
 
円爾の弟子、癡兀大慧(ちこつ だいえ)
「遺偈」(ゆいげ)も見せていただきました。
 
癡兀大慧(ちこつだいえ)は、
平清盛の子孫とも言われ、
比叡山に学び、密教にも精通。
円爾の禅に反発し法論を挑むものの、
逆に円爾に感化されて弟子入りし、
東福寺第九世を嗣席したという、
面白いエピソードを持っている人物です。
 
 
正和元(1312)年11月22日、
癡兀大慧が84歳で安養寺に示寂するに際して
したためたものです。
80歳の時に両目を失明した癡兀が、
侍僧に支えられながら
最後の力を振り絞って遺した渾身の書です。
 
 
「自力で悟った真理こそが仏の教えだ」
といった意味が書かれています。
両目を失明し、散らばったような字で、
その乱れた筆致はまさに臨終直前を
思わせます。
 
かすれた部分は書き足していると、
紫舟さんは見ます。
 
石川さんは、「禅」というものは、
師匠の生き方、考え方、姿そのもので
全てを受け継ぐことが大切で、
亡くなる時に弟子に与える唯一のものが
「遺偈」(ゆいげ)だと教えて下さいました。
 
  • 住所:〒605-0981
    京都府京都市東山区本町15-778
  • 電話:075-561-0087
 

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