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美の壺スペシャル「神社」

<番組紹介>
ロバート キャンベルさんが大絶賛する大分・宇佐神宮。
鎮守の森から、国宝の本殿まで味わい尽くす!
 
 ▽人類学者・中沢新一さんが日本最古の神社で語る、
  神社誕生の秘密!
 ▽ド迫力!世界遺産・熊野那智大社の火祭りに密着
 ▽伊勢神宮・出雲大社・春日大社それぞれの建築様式と
  写真家の巨匠が福井で捉えた神社建築の美
 ▽平安の伝統を受け継ぐ、神職の装束
 ▽島根の貴重な「巫女(みこ)舞」
 ▽木村多江も念願の奈良・天河神社へ!
 
<初回放送日:令和5(2023)年1月6日(金)>
 
 
 

美の壺1.思いを託す

 

大分県「宇佐神宮」(ロバート・キャンベルさん)

 
テレビでMCやニュース・コメンテーターなどとして
様々なメディアで活躍中のロバート・キャンベルさんですが、
実は、近世・日本文学研究者で、
特に江戸中期から明治の
漢文学、芸術、思想に関する研究を行っています。
 

 
キャンベルさんはまた神社にも造詣が深く、
九州大学の研究生時代には、
調査の合間に大分県宇佐市にある「宇佐神宮」を訪れたそうです。
今回は、キャンベルさんと「宇佐神宮」を巡ってみました。
 
 
大分県宇佐市にある「宇佐神宮」は、
奈良時代の神亀2(725)年に建立され創建された神社で、
全国に約4万4千社と、日本で最も多い神社「八幡宮」の総本社です。
京都府八幡市の「石清水八幡宮」と
福岡市の「筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)
「三大八幡宮」と呼びます。
 
また「宇佐神宮」は天皇の使いである勅使が遣わされる
日本の中でも16社しかない「勅祭社」(ちょくさいしゃ)です。
寄藻川に架かる屋根がついた朱色の「呉橋」は、
10年に一度斎行される「勅祭」(ちょくさい)の時にだけ扉が開かれ、
渡ることができます。
次に開くのは、
令和初となる「勅祭」が開催される、
令和7(2025)年だそうです。
 
 
宇佐神宮」は、古くから皇室の崇敬を受け、
古代、奈良の大仏造立への援助や、
勅使・和気清麻呂の派遣により弓削道鏡が皇位につくことを退けた
「宇佐八幡宮神託事件」神託事件など国家の一大事にも度々関わり、
そして「神輿発祥の地」、
早くから「神仏習合」をなしえたことなどでも
広く知られています。
 

 
宇佐神宮」は平地に接した小高い岡の上に鎮座し、
屏風のように太古からの原生林からなる
鎮守の森に囲まれれています。
約50万㎡という広大な境内には、
国宝や重要文化財に指定されている建造物など、
見所がたくさんあります。
 
大きな鳥居が迎えてくれました。
この鳥居を潜り、神橋を渡り、大鳥居を潜って境内に入ると、
毎年6月下旬から8月下旬になると約1万株の古代蓮が見頃となる
「初沢池」と能舞台が浮かぶ「菱形池」が現れます。
また、踏むと幸せになる「夫婦石」、
ハートの形をした建造物の文様「猪目」などが点在しています。
 

 
国宝の「本殿」は、周囲を回廊で囲まれた中に西側から
「八幡大神」(はちまんおおかみ)を祀る一之御殿、
「比咩神(比売大神)」(ひめおおかみ)を祀る二之御殿、
八幡様の母「神功皇后」(じんぐうこうごう)を祀る三之御殿と
3つの本殿が並立しています。
 
主祭神「八幡大神」は、
第15代・応神天皇が神格化された姿。
「比売大神」は、多岐津姫命(たきつひめのみこと)
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
多紀理姫命(たきりひめのみこと)の3柱の女神
「宗像三女神」(むなかたさんじょしん)です。
神功皇后は、応神天皇様のお母様に当たられる
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后です。
 
参拝は一之御殿から順に、
「二拝四拍手一拝」で参拝するのが習わしです。
全国でも珍しいこの参拝作法は、
出雲大社」と同じです。
 
3棟の「本殿」は基本的に同じ形で、
「八幡造」(はちまんづくり)と呼ばれる建築様式です。
特別に「本殿」を拝見させていただきました。
柱や床など全てが朱色です。
 
宇佐神宮」の「八幡造」は、
ふたつの切妻屋根の建物(「内院」と「外院」)が
前後に接続した形になっていて、
両軒に接する部分には、
金色に仕上げた銅製の谷樋(たにどい)が掛けられています。
キャンベルさんによると、
屋根と屋根が接する形が「M」の形になっていて
モダニズム建築の一面もあるそうです。
 
内院には「御帳台」があり、外院には「御椅子」が置かれ、いずれも御神座となっています。
「御帳台」は神様の夜のご座所であり、
「御椅子」は昼のご座所と考えられています。
神様が昼は前殿、夜は奥殿に移動することが
「八幡造」の特徴です。
 
宇佐神宮」は、
行き交うの人の匂いや祈り、地表全てを受け入れるような
温もりを感じる神社です。
 
  • 住所:〒872-0102
       大分県宇佐市南宇佐2859
  • 電話:0978-37-0001
 
 

奈良県桜井市「大神神社」(人類学者・中沢新一さん)

 
奈良県桜井市にある「三輪山」(みわやま)には、
人々の信仰の原型を見ることが出来ます。
 
三輪山は、縄文と弥生の文化が混交して発展していきました。
縄文人にとっては、
自然が神であり、我々人間は神の分身だという考えでしたが、
弥生人になると、
人間と自然と神の間に距離ができ、祭祀が必要となってきました。
 
日本で最古の神社とされている。
大神神社(おおみわじんじゃ)は、
本殿を持たず拝殿のみの神社です。
三輪山自体をご神体として祀っていいます。
拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る
「古神道(原始神道)」の形態を残しています。
 
『古事記』によれば、
大国主神(おおくにぬしのかみ)とともに国造りを行っていた
少彦名神(すくなびこなのかみ)が常世の国へ去ってしまうと
これからどうやってこの国を造って行けばいいのかと
思い悩んでいた大国主神の前に、海の向こうから
光り輝く神様・大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が現れ、
「私を祀るのであれば、一緒に国造りを完成させましょう。
でないと国の完成は難しいでしょう」とおっしゃいます。
 
 
大国主神はどう祀ればよいのかを尋ねられたので、
「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ
 (大和の東の山の頂上に祀りなさい)」と
おっしゃいました。
それを聞いた大国主神は、御諸山(みもろやま)の頂上、
今の三輪山に大神神社に祀りました。
 
これにより、大国主神は国造りをすることが出来ました。
 
 
人類学者の中沢新一さんによると、
神社の脇道には古い神様が祀られていことが多いそうです。
三輪山の山中には古い形の神社の祭祀場があり、
上から奥津磐座おきついわくら中津磐座なかついわくら辺津磐座へついわくらの3つの磐座がある他、
神様が鎮まる岩が点在しています。
その中心が「磐座神社」(いわくらじんじゃ)で、
大地の下から何かの力がせせり上がって
この世に姿を現した磐山を神体として祀っています。
 

 
大神神社の背後にある
死や闇を山の中で感じ取ることが出来た時、
古代人に一歩近づけるのだと中沢さんは教えて下さいました。
 
 
ところで、大物主神が
「因幡の白兔」(いなばのしろうさぎ)を助けた
大国主神と同一神であるということから、
大神神社の拝殿向かって左側にある「参集殿」には、
可愛い「なで兎」がいます!
この兎を撫でると、運気アップに加えて、
撫でた部分の体の痛みを取ってくれるとも言われています。
また、例祭である「大神祭」を崇神天皇が卯の日に始めて
以来、卯の日をご神縁の日として毎月「卯の日祭」が執り行われるなど、兎と縁の深い神社としても知られています。
 
  • 住所:〒633-8538
       奈良県桜井市三輪1422
  • 電話:0744-42-6633
 
 
 

美の壺2.森羅万象に祈りを捧げる

 

長野県松本市「穂高神社奥宮」(権禰宜・穂高賢一さん)

 
北アルプス穂高岳の麓、長野県松本市上高地は、
日本を代表する山岳リゾートです。
国の文化財(特別名勝・特別天然記念物)にも指定されています。
 
ところで「上高地」の名の由来は、
神が下る地すなわち「神降地」(かみこうち)から由来していると
言われています。
 
川沿いの道を歩いていくと鳥居があり、小さな社があります。
標高1500mの祈りの場である
穂高神社 奥宮(ほたかじんじゃ おくみや)です。
 

 
 
穗髙神社奥宮の奥には、
荘厳なムード漂う「明神池」(みょうじんいけ)が広がっています。
江戸時代の資料で明神池は「霊湖」(れいこ)と記されています。
神聖な池であることの象徴です。
明神岳から常に伏流水が湧き出ているため、
広く澄んだ水面の「明神池」は寒い冬でも全面凍結はしないそうです。
 
 


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権禰宜(ごんねぎ)の穂高賢一さんによると、
2000年前に移り住んだ人が雄大な穂高に感銘を受け、
穂高の大神様が降り立ち明神池にも降り立ったという伝説を
お話しくださいました。
 
毎年10月8日、明神池では、
御船神事として「穂髙神社奥宮例大祭」が行われています。
山の安全を神に感謝するお祭りで
「明神池お船祭り」とも呼ばれています。
穂高神社が海神族の守り神だったことを今に伝える祭事です。
 
安曇野を拓いた安曇氏(あずみうじ)の起源は非常に古く、
『古事記』には、
「阿曇連はその綿津見命わだつみのみことの子、宇都志日金柝命うつしひかなさくのみことの子孫なり」と
記されています。
古代に北九州や玄界灘を舞台に活躍した海人族だったのです。
 
明神池は、明神岳から崩落した砂礫により
堰き止められて出来たと言われています。
御祭神の一人、穂高見命(ほたかみのみこと)
安曇族のために、
それまで湖水だった安曇野を干して土地を作ったと言われています。
 
 
穂髙神社奥宮
  • 住所:〒390-1516
       長野県松本市安曇上高地
  • 電話:0263-95-2430
       0263-82-2003 [冬期]
  • 4月17日~11月15日まで
 
 

和歌山県「熊野那智大社」(氏子・村井弘和さん)


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和歌山県南部の熊野那智山(くまのなちさん)にある
「那智の大滝」は
神武天皇によって祀られたと『古事記』に記されるなど、
古くから「熊野信仰」の中心地のひとつとして
信仰の対象となっていました。
 
落差133m、滝壺の水深10mにも及ぶ大滝で、
「那智四十八滝」の一の滝として、
約1300年前から滝行が行われてきた修業の現場でもあります。
 
太古に12神が御滝本に降りて来られ、
飛瀧神社(ひろうじんじゃ)でお祀りされていましたが、
317年に那智山の中腹に
熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)が建立されると、
12神は遷られました。
 
例年7月14日、熊野那智大社では例祭「那智の扇祭り」が行われ、
この12神が年に1度、
那智の滝に見立て扇で飾った12の柱「扇神輿」に乗って、
御滝本にお里帰りなさいます。
重さ50㎏以上もある12本の大松明の炎が参道いっぱいに乱舞するため、
通称で「那智の火祭」とも呼ばれています。
「日本三大火祭り」のひとつとされ、
重要無形民俗文化財にも指定されています。
 
「扇祭り」で進行役を務める
氏子の南治重(みなみ しげはる)さんによると
扇みこしには神様が乗っていらっしゃるので
12本の大松明(おおたいまつ)で参道を清めるために
火が必要なのだそうです。
 
大松明は、桧の板を100本以上束ねて作ります。
12人の白装束の男達が燃えさかる重さは50㎏の大松明を抱え
「ハリヤ、ハリヤ」と大声を掛け合いながら
30分以上担いで参道の石段を下ったり、上ったりします。
氏子の村井弘和さんは、
「松明を落とさないように、みんなで無事に下ろしたい。」と
その心境を語ります。
 
メラメラと炎を上げる大松明12本は
石段の上をグルグルと参道を反時計回りに回っていきます。
参道下では、松明に触れると無病息災と言われているため、
多くの人々が手を伸ばします。
 
炎の乱舞の後ろからは、
日の丸の扇子を開いて松明の炎を扇ぐ人達、
そしてその後ろに「扇神輿」が
紫色の浴衣を着た担ぎ手に担がれてやって来ました。
こうして「大松明」、そして12の「扇神輿」が
遂に滝にご帰還なさいました。
 
「御田刈の式」などが行われた後、
最後に大松明を担いだ白装束の氏子により
滝に向かって「那瀑舞」(なばくまい)と呼ばれる舞が奉納され、
祭りが終わります。
 
  • 住所:〒649-5301
       和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1
  • 電話:0735-55-0321
 
 
 

美の壺スペシャル恒例、
木村多江が行く!「神社紀行」

 

組ひも工房「鍵辨紐房店」(代表・鍵谷将宏さん、母・靖子さん)

 
美の壺スペシャル恒例、木村多江さんの登場です。
まず、木村さんが訪れたのは、京都市中京区二条城近で
大正3(1914)年より、寺社で使われる飾り紐や房を作る
組ひも工房「鍵辨紐房店」(かぎべんひもふさてん)さんです。
 
代表の鍵谷将宏(かぎたにまさひろ)さんのお母様・
靖子さんに作業を見せていただきました。
組み紐づくりは、今ではほとんどが機械で行われていますが、
鍵谷さんの工房では手組みで作られています。
そして、手組みの紐をそのまま使うのではなく、
「結び」を施しています。
 
木村さんも紐結びに挑戦!
花を模した菊結びや縁起が良いとされる
「叶結び」(かのうむすび)
結んだ時に出来る結び目が「口」の形に見え、
裏側からは「十」の形に見えるため、
合わせて「叶」という文字になることが
由来だそうです。
 
職人さんも難しいという「総角結び」(あげまきむすび)
教えていただきました。
平安時代の未成年男子の髪型である
「角髪」(みずら)から考案された結びで、
護符や魔除けの代表的な結びでもあることから
端午の節句に飾られる鎧兜(よろいかぶと)にも
用いられています。
 
室内に垂れ下げる「御帳(幌)」(みとばり)には、
「総角結び」(あげまきむすび)が8つ並んでいます。
根気が必要な作業です。
思いを込めて作るからこそ
やりがいのある仕事だと鍵谷さんはおっしゃいます。
 
木村さんは、神社の美の一端を再確認したようです。
 
鍵辨紐房店
  • 住所:〒6048274
       京都府京都市中京区小川通
       三条上る西堂町498
  • 電話:075-221-4103
 
 

奈良県吉野郡「天河大辨財天神社」(宮司・柿坂匡孝さん)

 
木村さん、続いては、奈良県吉野郡にある
天河大辨財天神社(てんかわだいべんざいてんじんじゃ)
やって来ました。
天河神社」は飛鳥時代より続く由緒ある神社で、
芸事をする人が多く参拝に訪れます。
木村さんも以前から訪れたかったとそうです。
 

 
 
宮司の柿坂匡孝さんによると、
天河神社は、水の神様を祀っていることから
川や水の音、発する音から身体を動かすことに繋がり、
舞や舞踊という芸事をする人が参拝するようになったそうです。

   

 
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、
神仏習合により「弁財天」として信仰されてきました。
広島県の「厳島」、滋賀県の「竹生島」とともに
「日本三大弁財天」の筆頭とされ、芸能の神様としても
有名です。
 
 
拝殿前には神楽殿があります。
天河神社」と能舞台との関係は、室町時代に遡ります。
 
天河神社」の宝物庫には、能面・能装束多数が現存します。
その中に、過去600年間、再び甦る日を待ちながら眠り続けて来た
「阿古父尉」(あこぶじょう)と名付けられた能面があります。
 
この能面は、能役者・世阿弥(ぜあみ)の後継者で、
若くして非業の死を遂げた天才的能役者であり、
かつ『隅田川』『弱法師よろぼし』『盛久もりひさ 』『歌占うたうら』といった
作品を作った観世流三代目元雅(もとまさ)が、
死の一年前、万感の想いを込めて天河神社の能舞台で舞い、
能の発展を祈願して自らの手で奉納したものです。
 
元雅(もとまさ)は、父・世阿弥をして
「祖父(観阿弥)にも越えたる堪能」と言わしめた
才能の持ち主でしたが、
永享4(1432)年に、
父・世阿弥に先立って伊勢で客死した悲運の役者です。
 

 
 
「阿古父尉」(あこぶじょう)は、
頬が瘤(こぶ)のように少し垂れ下がっている感じから、
「阿瘤尉」とも書く、上品な男性老人の面です。
 
木村さんも神楽殿に立たせていただき、
感動されたご様子でした。
 


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平成23(2011)年9月、国立能楽堂から
新作能「世阿弥」の舞台で「阿古父尉」を使いたいと
いう願いが柿坂神酒之祐宮司の下に届きます。
そこで、当代随一の能面打・見市泰男さんが老大樹から新たに阿古父尉を作り、能舞台で披露されました。
この「阿古父尉」は
「ガイアシンフォニー 地球交響曲第八番」でも
披露されています。
 
天河大辨財天神社
  • 住所:〒638-0321
       奈良県吉野郡天川村坪内107
  • 電話:0747-63-0334
 
 
 

美の壺3.時を越えて息づく

 

福井県越前市「大瀧神社」(写真家・藤塚光政さん)


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日本を代表する神社、伊勢神宮、出雲大社、春日大社は、
それぞれに個性があり、その建築様式も様々です。
 
神社建築の代表的な様式には、
「神明造り」(しんめいづくり)
「大社造り」(たいしゃづくり)
「春日造り」(かすがづくり)の他、
「権現造り」、「流造り」などがあげられます。
 
 
伊勢神宮内宮・外宮の正殿は、
「唯一神明造」(ゆいつしんめいづくり)と呼ばれる
特別な「神明造」です。

www.isejingu.or.jp

 
出雲大社本殿は、
出雲地方で特徴的な「大社造」で作られています。

 
春日大社は、正面に大きく庇(ひさし)が突き出す
大きな屋根を持った「春日造」です。

 
 
藤塚光政さんは、
そんな神社など日本の木造建築にこだわり、
撮影をし続ける写真家です。
 

 
今回、藤塚さんが撮影するのは、
福井県越前市大滝町にある「大瀧神社」です。

この辺りは「和紙のふるさと」として知られ、
「越前和紙」で有名です。
「大瀧神社」は、6世紀末に創建された
女性の紙の神様「川上御前」(かわかみごぜん)をお祀りする神社です。
日本で唯一、全国の紙業界から崇敬を集める紙祖神です。
 
今から1500年程前、継体天皇が越前におられ、
男大迹皇子と呼ばれていた頃、
この村里の岡太川の上流に美しい姫が現れて
「この地は清らかな水に恵まれているから
 この水で紙漉きをして生計を立てよ」と、
懇ろに紙漉きの技を里人に教えたといいます。
この教えを受けた人々は、
この姫を「川上御前」(かわかみごぜん)と崇め奉り、
岡太神社(おかもとじんじゃ)を建ててお祀りしました。
その後、延元2(1337)年に足利軍の兵火で社殿が失われ、
更に天正3(1575)年の織田信長の一向一揆攻略の際、
大瀧寺一山が兵火に遭い消失。
再建時に大瀧神社の摂社として境内に祀られるように
なりました。
 
 

 
 
そんな「大瀧神社」が今、注目されています。
社殿の檜皮葺きの屋根が
入母屋造りに千鳥破風に唐破風、
そしてまた入母屋に唐破風と幾重にも連なり、
彫刻が施され重厚感があります。
これが全国でも類を見ない、
日本一複雑な屋根だとされているのです。
 
社殿は江戸時代後期の天保14(1843)年に再建されたもので、
手掛けたのは、曹洞宗本山永平寺の勅使門を手掛けた
名棟梁の大久保勘左衛門です。
国の重要文化財の指定を受けました。
 
藤塚さんは、建物について、
どういう発想で建てられたのか?と思いを巡らせるそうです。
水が豊富な地域から
滝つぼの波をイメージしたのではないかと
藤塚さんは持論を語っていました。
 
大瀧神社
  • 住所:〒915-0234
       福井県越前市大滝町13−1
  • 電話:0778-42-1151(社務所)
 
 

神職の装束「狩衣」(藤井 秀俊さん、久世 隆さん、梶岡 慶子さん)

 
神職の装束「狩衣」(かりぎぬ)は、
平安時代の貴族の男性が平常着としてまとっていた装束です。
元々は狩の時に着用したので「狩衣」という名前が付きました。
 

 
「正服(正装)」は「衣冠」で、
例大祭や新嘗祭といった大祭の際に着用します。
頭には冠、袍と袴、麻沓と笏を身に付けます。
 
「礼装」は「斎服」で、
歳旦祭などの中祭の神事で着用します。
冠と白地の装束を身につけます。
 
「常装」は「狩衣」「浄衣」で、
小祭やその他の儀式で着用します。
頭には烏帽子、狩衣と袴、麻沓と笏を身に付けます。
神職の普段着という位置付けとなります。
なお神職には、
特級・一級・二級上・二級・三級・四級という身分があり
身分に応じて袴の色が異なります。
 
 
「狩衣」(かりぎぬ)は、
薄い生地に立体的な文様、楕円形の首元が特徴的で
平安時代の伝統に倣って、工程ごとに分業して作られています。
 
「生地作り」は、シャトル織機で織ります。
緯糸は水に浸した絹糸を用います。
藤井秀敏さんによると
濡れた糸を使うことで生地がパリッとするそうです。
 
文様にも秘密があります。
左右対称の文様柄をわずかに崩すことで
より整った形になるそうです。
 
次の工程は「張り」の作業です。
竹ひごで出来た「伸子」(しんし)で生地を伸ばして、
刷毛を当てます。

久世隆さんによると、
装束は「強装束」(こわしょうぞく)といって
堅く仕上げるのが基本だそうです。
 
生地が出来ると「仕立て」の作業です。
この道7年の梶岡慶子さんが生地を重ねて縫っていきます。
難しいのは首回りの部分です。
力がいる作業です。
梶岡さんは、神社にお願いをして昔のものを見せてもらったりして
絶えず研究をされているそうです。
 
ここに平安の伝統の形が今も受け継がれています。
 
 
 

美の壺4.つなぐ心

 

奈良県桜井市・談山神社「嘉吉祭」(氏子・上杉征子さん)


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奈良県桜井市多武峰(とうのみね)にある
談山神社(たんざんじんじゃ)
大宝元(701)年に創建された
「大化の改新」の中心人物の藤原鎌足を祀る神社です。
 

 
中臣鎌足と中大兄皇子が「大化の改新」の談合を、
この多武峰(とうのみね)で行ったことから
「談らい山」(かたらいやま)とか「談所ヶ森」と
呼ぶようになったのが始まりです。
現存する塔としては日本最古の「木造十三重の塔」は、
国の重要文化財となっています。
 

 
 
談山神社」では、毎年10月の第2日曜日、
藤原鎌足に感謝して秋の実りをお供えする
奈良県無形民俗文化財の「嘉吉祭」(かきつさい)
執り行われています。
 
南北朝合一「明徳の和約」(元中9年/明徳3年/1392年)の後の
永享7(1435)年、南朝の遺臣が多武峰に拠って兵を起こすと、
足利幕府の大軍がこれを攻め兵火を放ったため、
一山が焼失しました。
この兵火を避けて御神体を一時、飛鳥の橘寺に遷座しましたが、
3年後の嘉吉元(1441)年9月に元の多武峰(とうのみね)に帰座しました。
神体の帰座を喜んだ一山の人々は、
多武峰の秋の収穫物を調えた神饌(しんせん)をお供えして
お祝いしたのが、「嘉吉祭」(かきつさい)の起源です。
 
 
かつては、人間の煩悩の数より多い、
およそ130種類の神饌を作って供えていたということから、
「百味の御食」(ひゃくみのおんじき)と名付けられたそうですが、
明治以降は30種類程と少なくなってはいますが、
美しい御神饌が調製されています。
 

 
祭りの1週間程前から、
多武峰地区に住む3軒程の氏子や談山神社の神職達が、
山や畑で獲れた秋の味覚を持ち寄り、飾り付けていきます。
 
茗荷(みょうが)の葉を束ねて芯を作り、
穀類、果実、野菜など秋の恵みを刺し、
独特な盛り付けで美しく飾っていきます。
 

 
中でも、「和稲」(にぎしね)がひときわ目に留まります。
彩色したお米を積み上げた、カラフルで華やかなお供えです。
氏子の上杉征子さんは、
新米3000粒を幾何学文様にしながら積み上げます。
上杉さんは、20年以上作ってきました。
 
芯棒は高さ15㎝、直径4~5㎝の丸い和紙の周りに
餅米粉と水を混ぜて練り上げた糊を塗り、
そこに彩色された米粒を貼り付けていきます。
平らに積むのは至難の業です。
米粒を一周積むのに25分かかります。
それを何段も積み上げて文様を描いていきます。
積み上げた米御供の上に餅米をのせたら、完成です。
ベテランの上杉さんでも、一本に数日かかるといいます。
 
家々によって違いますが、見た目をキレイに美味しく飾り、
鎌足さんにお供えをします。
祭りの当日、地域の人の手で作った神饌は
神職の手に渡されて神殿へと運ばれます。
代々、地域に継承された姿です。
 
  • 住所:〒633-0032
       奈良県桜井市多武峰319
  • 電話:0744-49-0001
 
 

島根県松江市「巫女舞」(巫女・濱地良佳さん)


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島根県松江市美保関(みほのせき)にある
出雲御三社の一つ「美保神社(みほじんじゃ)は、
全国に約3000あるえびす様の総本宮です。
 
本殿の右殿には大国主命の御子神で、
出雲の「国譲り」の際に釣りをしていたことから、
釣りの神が転じて、豊漁の「えびす」と習合したと思われる
「事代主神」(ことしろぬしのかみ)が。

 
左殿には高天原の天津神・
高御産巣日神(たかみむすひのみこと)の御姫神で、
大国主命の最後の后となる「三穂津姫神」 (みほつひめのかみ)
祀られています。
そしてこの「三稜津姫命」から
「美保」の名がついたと言われています。
 
 

 
美保神社では、
朝8:30頃からは「朝御饌あさみけ祭」、
夕方15:30頃からは「夕御饌ゆうみけ祭」という
ご祭神へご供物を奉る儀式が
一年365日、毎日かかさず執り行われています。
祝詞があがった後、
神楽の演奏に合わせて「巫女舞」(みこまい)が奉納されます。

 
権禰宜(ごんねぎ)の横山直正さんは、
美保神社には「巫女舞」(みこまい)は欠かせないものだと言います。
 
江戸時代には、巫女を専属とする「巫女家」(みこけ)が5家あり、
舞の所作は秘伝で代々受け継がれてきました。
ところが現在は、巫女はなり手が少ない現状です。
横山さんは、可能な限り伝承を続けたいとおっしゃっています。
 
現在、巫女をしている濱地良佳さんは、
高校生の時、祈りを本職とする生き方を知ったそうです。
舞っている時は、感謝の気持ちが湧き上がってくるそうです。
人々の思いや願い、祈りを込めて舞います。
これからも受け継いでいきたい伝統です。
 

 
  • 住所:〒690-1501
       島根県松江市美保関町美保関608
  • 電話:0852-73-0506
 
 

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