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美の壺「いざ鎌倉 武士たちの美意識」<File 562>

<番組紹介>
世界遺産・厳島神社の貴重な
大鎧(おおよろい)。
そこには雅でかわいらしい桜模様
 
▽甲冑(かっちゅう)師が語る、
 貴族文化に憧れた武士の鎧(よろい)
 ファッションとは?
▽義経・弁慶・巴御前が奉納したとされる
 薙刀(なぎなた)
▽鎌倉時代から伝わる
 秘伝の薙刀(なぎなた)術
▽北条政子奉納と伝わる豪華な手箱を
 特別公開!
 人間国宝が手箱の技術を読み解く!
▽草刈正雄邸には、刀剣の化身・三日月宗近!
 
<初回放送日:令和4(2022)年7月22日(金)>
 
 

美の壺1.鎧(よろい)
:命をかけて身にまとう

 

厳島神社・
国宝「紺糸威鎧」、
国宝「小桜韋黄返威鎧」
(厳島神社 禰宣・福田道憲さん)

 
広島県廿日市市にある厳島は、
「神を斎(いつ)き祀(まつ)る島」
という語源のように、古くから島そのものが
神として信仰されていました。
 
天照大御神と須佐之男命の「誓約」(うけい)により
生まれた、海の神、交通運輸の神、財福の神、技芸の神である宗像三女神むなかたさんじょしん
市杵島姫命いちきしまひめのみこと田心姫命たごりひめのみこと湍津姫命たぎつひめのみこと]を
御祭神と祀っています。

 
厳島神社は、武士で初めて太政大臣になった
平清盛が厚く信仰したとして知られる神社
です。
清盛は、久安2(1146)年に安芸守(あきのかみ)
任官されると、平家の守護神として尊崇し、
仁安3(1168)年頃に現在のような寝殿造りの
海上社殿を造営したと言われています。
沖合約200mのところに立つ大鳥居は、
平清盛の頃から何度か建て替えられたもので、
現在のものは明治8(1875)年に再建された
9代目に当たるそうです。
 

 
 
嚴島神社には、武士にまつわる貴重な武具が
多数収められています。
禰宣(ねぎ)・福田道憲(ふくだ みちのり)さんに
嚴島神社所蔵の国宝の「大鎧」(おおよろい)のうち
2領を紹介していただきました。
 
国宝「紺糸威鎧」(こんいとおどしのよろい)は、平清盛の長男・平重盛が奉納したと言われる、
ほぼ捨て全ての部品が残っている貴重な「鎧」です。
 
 
当時の「鎧」は、
馬に乗り弓矢を用いた戦いに適した形に
なっていて、大きく頑丈に作られています。
 
「大袖」(おおそで)
盾となって身を守る役目を果たしつつ、
腕を自由に動かすことが出来ます。
 
「兜」(かぶと)
矢を引きやすくするために反り返っています。
 
機能的であるばかりでなく、
随所に繊細な芸術性も見て取ることが
出来ます。
 
「胴」の部分には
獅子の模様が型染めされています。
胸を守る板には菊の花が描かれ、
背中の紐は
袖部分がめくれるのを防ぐために
結び方に工夫が凝らされているだけでなく、
房がつけられていたり、
後ろ姿のお洒落も忘れてはいません。
 
紺糸威鎧に使われている「威し」(おどし)は、
紺色の組紐です。
藍で黒染められた紺色は
「勝色」(かちいろ)と呼ばれ、武士に好まれました。

「威し」のデザインや色・素材によって
「鎧」の全体の印象が大きく変わることから、
「威し」は武士にとって美意識の見せ所でも
ありました。
 

それからもうひとつは、
源頼朝の叔父で、桁外れの逸話を数々残し、
日本史上最強の武士の呼び声も高い、
源為朝(みなもとの ためとも)の大鎧と
(こざくらがわきがえしおどしのよろい)です。
 

こちらの「威し」は鹿の革で出来ていて、
よく見ると、「桜」の模様が施されています。
金具も「桜」のモチーフになっていて、
「桜」に対する並々ならぬ思いを感じられます。
 
奈良時代は花と言えば「梅」が人気でしたが、
平安に入ると貴族の間で「桜」が流行。
「桜」は武士の文化にも取り入れられたと
考えられています。
 
福田さんによると、
平清盛が安芸守(あきのかみ)になることで
都と繋がりが出来て、
「大鎧」にも、都の文化が入って
雅やかなデザインになったのだとか。
 
生きるか死ぬかの戦場で纏う「鎧」に、
武士は「強さ」だけではなく、
「美しさ」を求めたのでした。
 
嚴島神社 社務所
  • 住所:〒739-0588
    広島県廿日市市宮島町1-1
  • 電話:0829-44-2020
  • お問合わせ時間:午前9時~午後4時
 
 

「威し」のデザイン
(「西岡甲房」甲冑師・西岡文夫さん)


www.youtube.com

 
 
甲冑武具の修復と復元、模造制作を行う
「西岡甲房」の西岡文夫(にしおか ふみお)さんは
日本を代表する甲冑師(かっちゅうし)
ひとりです。
西岡さんは「甲冑」が好きで、
甲冑師・森田朝二郎(もりた あさじろう)氏に師事、
グラフィックデザイナーを経て、
25歳で甲冑師になりました。
以来、国宝を始めとする
「鎧」の修復・模造に携わり、
「鎧」を研究してきました。
 
 
甲冑を作り上げるためには、
いろいろ技術が必要となります。
最も重要なのは、
鉄板を成形する「鍛金技術」と、
威しや各部品を組上げる「仕立」です。
その他にも、鉄以外の金属加工、漆工、革工、
木工、裁縫などの技術も必要です。
 
かつてはそれらの技術は、
それらを専門とする職人の分業で
成り立っていましたが、
現在は、甲冑づくりのプロである「甲冑師」が
これらの仕事をほぼ全て一人でやり遂げなくてはなりません。
基本技術を身につけるだけでも
十数年の年月が必要とされ、
技術以外にも、
大変な労力と資金が必要とされることから、
今や甲冑師は日本にわずか数名しかいません。
 

 
「甲冑」は、基本的には
頭にかぶる「兜」(かぶと)と、
体を守る「鎧」(よろい)の総称で、
武器として使われていた日本刀と異なり、
防具として活躍していました。
 
「甲冑」は、「三つ物みつもの」と呼ばれる
「兜」「胴」「袖」と、
付属の「喉輪のどわ」「籠手こて」「草摺くさずり」「佩楯はいだて」「臑当すねあて」「頬当ほおあて」といった部位によって構成されています。
 
そしてこれらには、
小札こざね」「縅毛おどしげ」「金具廻かなぐまわり」「金物かなもの」「絵韋えがわ
といった部品が使用されています。
 

 
「小札」(こざね)とは、甲冑を構成している
小さな短冊状の板のことで、
この小札と小札を「威毛」(おどしげ)という糸や革紐で綴じ合わせて
甲冑の基本となる「兜」「胴」「袖」が
完成します。
 
「小札」(こざね)に緒(=紐)を通すことを「緒通し」(おとうし)と言い、
転じて「縅し」(おどし)と呼ばれるように
なりました。
 
 
「威毛」(おどしげ)には、
「組紐」やなめした革「韋紐」(かわひも)
使われることが一般的です。
なお、甲冑に使われている「組紐」は
現在、着物の帯締めに使用されている
「組紐」とは違う物で、
様々な意味や願いが込められた色の糸を、
更にとても優美で複雑な組み方をして
組紐状にしたものです。
西岡さんの工房では、
妻の西岡千鶴さんが「組紐」を担当し、
日本古来の組紐技法を再現して
復元製作を行っています。
 
日本の「甲冑」には、
単なる「武具」ではない
「装束」としての魅力があると
西岡文夫さんはおっしゃいます。
 
「特に14世紀前半頃までの甲冑には、
 紫色などの高貴な色が使われ、
 貴族文化と見紛うばかりの優美さが
 あります。」
 
平安から鎌倉、室町時代までの
「威し」のデザインが載せられた
『尚古鎧色一覧』
(しょうこがいしょくいちらん)により、
武士は、平安時代までは
貴族に使われる身分だったことから、
上昇志向というか、貴族文化に憧れて、
雅なデザインの「威し」が作られたのではと
西岡さんは考えています。
 

また、端に向けて色を変えている「威し」は、
「十二単」(じゅうにひとえ)にも用いられた、
平安貴族の「襲色目」(かさねいろめ)から影響を
受けたものが多くあり、
戦場という殺伐とした世界にも、
風雅の心を忘れなかった武人のゆかしき心が
偲ばれます。
 
「鎧」(よろい)は、戦場へ向かう
いわば「死に装束」だと西岡さんは言います。
戦いに臨むために着飾り、
出来るだけ戦場で目立つ、
そういう意識があったのかもしれないと。
 
「鎧」には、武士達の覚悟と思いが
込められていたのです。
 
 

美の壺2.薙刀(なぎなた)
:その輝きに心を映す

「義経、巴御前、弁慶の薙刀」
大山祇神社82代目宮司・三島安詔さん)

 
瀬戸内海のほぼ中央、
大小の島々に囲まれた
瀬戸内海国立公園の中心の
愛媛県今治市大三島(おおみしま)
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)
あります。
 
源平合戦の舞台でもあった瀬戸内海。
ここ「大山祇神社・宝物館」には、
日本最古の平安中期から鎌倉~戦国時代まで、
全国の国宝・国の重要文化財の指定を受けた
武具類の約8割が、保存展示されています。
そのため、大三島(おおみしま)
「国宝の島」とも呼ばれています。
 


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82代目宮司の三島安詔(やすのり)さんは、
「神の島」とも呼ばれる大三島おおみしま大山祇神社おおやまづみじんじゃは、
「戦いの神」として崇拝されていたことから、
戦勝の祈願・御礼に、鎧、兜、刀剣類などが
奉納されたのではないかとおっしゃいます。
 
海上交通の覇者であった
村上水軍(むらかみすいぐん)
河野水軍(こうのすいぐん)にも崇敬され、
いにしえより数々の宝物が奉納されて
きました。
 
奉納された武具は
国宝・重要文化財だけでも169点。
中でも、天下に名を轟かせた英雄達が
奉納した武具が「薙刀」(なぎなた)です。
 
 
「薙刀」(なぎなた)とは、長い柄の先に
反りのある刃がついた刀の一種で、
平安時代に生まれたと言われています。
 
元は「長刀」(なぎなた)と書かれていましたが
日本刀である「打刀」(うちがたな)
後に「短刀」に対して
「長刀」(ちょうとう)と書くようになったため
「薙刀」という漢字にして、区別するように
なりました。
 
 
見た目は「槍」に似ていますが、
突くことをメインとした「槍」に対し、
「薙刀」は振り回して
遠心力を上手く用いることで、
相手を薙ぎ斬ります。
その勇壮な姿は、戦場の花形になりました。
 
大山祇神社・宝物館」には、
義経や弁慶、巴御前(ともえごぜん)
奉納したと伝えられる「薙刀」もあります。
「薙刀」は、相手との間合いが取れると同時に
突く・斬る・薙ぎ払うと
攻守万能であったことから、
巴御前ら女性の武器としても
重宝されたのです。
 

 
薙刀遣いとして歴史に名を馳せた
武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)の「薙刀」は
ひと際大きく、刃の長さは1m、重さは2kgを
超えています。
その反りも大きく、
比べてみると一目瞭然です。
屈強な豪傑だけが使いこなせる迫力が
あります。
大山祇神社」では、
数々の戦や敗戦で接収されそうになった時も、
これらの武具を守りながら
今に伝えてきました、
 
大山祇神社 (大三島町宮)
  • 住所:〒794-1393
    愛媛県今治市大三島町宮浦3327
  • 電話:0897-82-0032
 
 

薙刀術「直元流大長刀術」
(宗家・矢吹裕二さん)


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鎌倉時代より秘伝として守り受け継がれてきた
「直元流 大長刀術」
(ちょくげんりゅう おおなぎなたじゅつ)宗家の
矢吹裕二(やぶき ゆうじ)さんに
「薙刀」の技について教えていただきました。
 
「直元流 大長刀術」は、
強力無双の男子の武器として、
主に平安時代末期から戦国時代にかけて
僧兵や武士達が主に戦場で用いたと
言われている「薙刀」です。
稽古に使うのは、
9尺およそ2.7mにも及ぶ木刀の「薙刀」です。
 
「遠いところから相手に技を仕掛けられる
 というのが利点になります。
 薙刀は非常に自由自在で、
 切り払い、突いたり、
 上から真っ二つに下したりといった動作が
 出来ます。」
 
『太平記』には、
薙刀を振るう武士の姿が記されています。
「水車」(みずぐるま)は、
薙刀の中心部分を持って
持ち手を切り替えながら
水車のように回転させる技で、
今にも伝わっています。
 
「力を抜いて柔らかく振る、
 それが1番切っ先に力が加わる事ですので、
 自分で羽衣を身にまとうような気持ち、
 そういうイメージを持って
 薙刀を振っています。」
 
「雲乱」(うんらん)は、
薙刀の切っ先を三日月に見立て、
乱れた雲を掻き分けて
三日月が垣間見えるように薙刀を振る技です。
 
「森羅万象をそこにイメージする。
 森羅万象というのが
 1番自然の理に適っている。
 それを目標として、
 型にどんどん色付けしていく・・・
 物語風の技になります。」
 
鎌倉時代から800年、
武士の精神は今に受け継がれています。
 

美の壺3.手箱:
きらめく技の玉手箱

北条政子の梅蒔絵手箱
国宝「梅蒔絵手箱」
(静岡県三島市・三嶋大社

 
 
静岡県三島市にある「三嶋大社」は
創建は不明ですが、
山森農産の守護神である
「大山祇命」(おおやまつみのみこと)
福徳の神である「積羽八重事代主神」
(つみはやえことしろぬしのかみ)
御二柱の神を総じて
「三嶋大明神」(みしまだいみょうじん)と称し、
御祭神として祀っています。
 
「平治の乱」に敗れ、
伊豆国へ流されていた源頼朝は、
三嶋大社」を深く信仰し、
源氏再興のため百日祈願に通ったと
伝えられています。
そして治承4(1180)年8月17日の
三嶋大社」の祭礼の日を
「源氏再興の旗挙げの日」と定め、
伊豆国の目代山木兼隆を討ち取ったのでした。
 
その後、源氏の再興に成功した頼朝は、
鎌倉将軍となった後も
三嶋大社」を篤く信仰し、
祭事の復興、社殿の造営を行った他、
鎌倉時代を通じて幕府崇敬の神社としました。
それ以降の戦国時代や江戸時代にも、
特に関東の武士は頼朝に倣うように
三嶋大社」を崇敬し、戦勝祈願を依頼し、
所領や刀などを寄進しました。
 
その時寄進された宝物が
文化財として所蔵されています。
 

 
 
この宝物の中でも、
頼朝の妻・北条政子の奉納と伝えられる
「梅蒔絵手箱」(うめまきえてばこ)は、
内容物である化粧道具も全て
国宝に指定されている、
鎌倉時代の漆工芸品を代表する優品です。
梅があしらわれた化粧道具は、
一式34点がほぼ揃ったものとしては最古級で、
風俗研究の資料としても貴重な遺品です。
 

 
 
学芸員・奥村徹也(おくむら てつや)さんは
次のように解説して下さいました。
「蒔絵工芸品には様々な技法がありますが、
 基本的な技法が全部詰まった最初の手箱と
 言っていいと思います。
 技術も非常に素晴らしくて
 最高峰と言って良いものだと思います。」
 
「手箱」には、鎌倉時代、
その強烈な輝きが好まれて盛んに用いられた
「沃懸地」(いかけじ)と呼ばれる技法により、
金銀をやすりでおろして細かい粉にした
「鑢粉」(やすりふん)が蒔きつめられて
います。
 
模様の部分を盛り上げて立体的に作る
「高蒔絵」(たかまきえ)の技法をもって
庭園の情景が描かれています。
「高蒔絵」(たかまきえ)の技法は
鎌倉時代に生まれました。
丘の上は、銀を少し混ぜた
青みがかった「金粉」が使われています。
波打ち際にかけても
異なる形の金粉を撒き分けています。
手箱に使われた金粉の種類は、
何と20もあります。
金粉のわずかな違いを組み合わせて、
複雑で多様な表現がなされています。
 
梅花が咲き誇り、
空には雁が飛んでいる絵の中には、
「榮・傳・錦・帳・雁・行」という漢字が
隠れています。
唐の詩人・白居易(はくきょい)
友と共に昇進を遂げた慶びを詠った
漢詩の文字を配したものです。
 
「榮・傳・錦・帳・雁・行」
 
 雁は錦帳を伝え、花は萼を連ねたり、
 彩は綾袍を動かし、雁は行を趁う。
 
これは、「葦手」(あしで)とか「歌絵」
と呼ばれる表現法で、
和歌や漢詩の文字の一部が象徴的に配され、
模様とともに、
断片的に配された文字を読み解くことで、
意匠に隠された文学的表現が読み取れるようになっています。
図柄の意匠から
手箱の世界観を読み解く遊び心。
持ち主の教養の高さを伝えています。
 
  • 住所:〒411-0035 
    静岡県三島市大宮町2丁目1番5号
  • 電話: 055-975-0172
 
 

国宝「梅蒔絵手箱」の模造制作
(蒔絵の人間国宝・室瀬和美さん)


www.youtube.com

 
 
政子の「梅蒔絵手箱」(うめまきえてばこ)は
現在、「東京国立博物館」に委託されており、
三島大社・宝物館」には展示されているのは
模造復元品です。
 
三嶋大社の国宝「梅蒔絵手箱」を
模造制作するプロジェクトは、
平成8(1996)に発足しました。
プロジェクトの責任者は、蒔絵の人間国宝の
室瀬和美(むろせ かずみ)さんです。
室瀬さんは、漆芸作家として活動しながら、
正倉院宝物の漆工研究や文化財の修理及び
その復元模造制作を手掛けてきました。
「模造」とは、材料・技法を調査分析した上で
精密に再現することです。
 
今回のプロジェクトは、
およそ3年もの歳月をかけて、
鎌倉時代の技法を解明しながら行われました。
 
「鎌倉時代のものは
 大らかなイメージがあったんですけど、
 いざ細かいところを調べてみると
 計算され尽くしたぐらい繊細で、
 ものすごく神経が行き届いている。
 自分の印象以上に驚きでしたね。」
 
調査を通して、室瀬さんが1番驚いたのは、
金粉の「形」でした。
 
「私達が今使っている金粉は
 「球体」なんですよ。
 この時代はかなり粒子が粗い
 ザラっとしたものを使ってますね。
 「球体」じゃない金粉というのは
 やっぱりそれまであんまり見たことが
 なかったですからね。
 この「梅蒔絵手箱」に出会って
 手掛けて初めて、
 あぁ「球体」じゃない金粉て、
 こんなに表情が違うんだっていうの
 分かりましたね。
 乱反射して、複雑に光ってくることで、
 一粒一粒に表情がある。
 無機質ではなくて、有機質な表情が
 同じ金の色でありながら見えてくる」
 
ただ粗く削るだけでは作れない、
手仕事で作る味わいのある、
そして絶妙な形をした金粉を再現するのに
半年以上を要し、足かけ3年の月日を掛けて、
平成10(1998)年に「梅蒔絵手箱」の模造を
完成させました。
 
「これを作った時代の人は
 こういう気持ちで作ったんじゃない?
 こういう気持ちで描いたんじゃない、
 こういう気持ちで表現したんじゃないかと
 いうことを、
 作品を通して、その時代の技術者と
 会話出来たような気持ちになって、
 すごく充実感がありました。」
 
戦いと常に隣り合わせにあった
日常であったにもかかわらず、
極上の日を求めた人々の思いが、
今に受け継がれています。

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