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山形県「山形鋳物」

 
日本文化を代表する「茶道」になくてはならない
「茶の湯釜」の多くが山形産です。
鉄瓶、青銅花瓶、鉄鍋、置物など、
薄手で、しかも繊細な肌や正確な形は
伝統的工芸品に相応しい優れた技術によるものです。
 
 

歴史

 
「山形鋳物」の起源は
平安時代の中頃、「前九年の役」を治めるために
山形を訪れた源頼義に従軍した鋳物職人が、
山形市内を流れる馬見ヶ崎(まみがさき)川の砂や付近の土が
鋳物の「型」に適することを発見し、
この地に留まったことにより、「山形鋳物」は始まりました。

その後、北朝年号延文元年(1356・南朝正平11年)8月6日、
最上氏の祖・斯波 兼頼(しば かねより)が山形に入部し、
山形城(霞が城)を築城した際、
兼頼から鋳物御用を申し付けられた鋳物師9名が
鋳物製品を献納したと伝えられています。
なお兼頼を初代として、
子孫は地名をとって「最上氏」を称することとなりました。
 
 
慶長年間(1596年~1615年)、最上氏第11代当主で、
出羽山形藩の初代藩主となった最上義光(よしあき)は、
商工業の発達を目的に城下町を大きく再編し、
鋳物師17人を鍛治町から隣の町に移し「銅町」と命名。
火を扱う町だけを並べる町づくりをし、
鋳物産地としての基礎が作られました。 
 
 
当時の山形は、
「出羽三山参り」が流行する賑やかな門前町で、
鋳物師が作る「山形鋳物」の仏具や日用品は
土産物として人気を博し、
「山形鋳物」の名声は全国へ広まりました。
 
その後、足踏式の「たたら」の考案により
山形唐金鋳物(ブロンズ)の技術が確立され、
大型の梵鐘や灯籠などが鋳造されるようになり、
「銅町」は一大鋳物産地として発展していきました。
 

 
明治期に入ると、
鉄瓶や茶の湯釜などの美術工芸品も作られるようになります。
元々従軍した鋳物師として、
「軽量」を理想とする武具を手掛けていたため、
薄肉で繊細なデザイン、美しい鋳肌、寸法形状の正確さが
「山形鋳物」の最大の魅力です。
 
また、大正期以降は全国的に機械化が進んだことで、
鋳造機械の分野が飛躍的に発展。
「銅町」でも機械鋳物も生産されるようになり、
機械分野と工芸分野が同居する産地へと変化しました。
 

日露戦争では砲弾製造、
シナ事変開戦や戦時経済体制の移行により
蓄積した技術を軍需産業へ転換する動きもありました。
 
終戦後は、機械鋳物は物資不足を契機として、
織機、農機具、鉱山用機械刃物など
多くの鋳物が製造されるようになり、
更にミシン産業の隆盛に伴い「ミシン鋳物」が急激に成長。
その後も工作機械部品、自動車部品、電機部品などが生産され、
売上高も年々増大。
今では「山形鋳物」全体の80%以上に上ります。
 
昭和49(1974)年には、「銅町」が手狭になったことから、
「山形鋳物工業団地」に移転し、新しい鋳物町が作られました。
 

 
昭和50(1975)年2月17日には、
経済産業省の「伝統的工芸品」に指定され、
現在、「工芸鋳物」「機械鋳物」ともに順調に発展しています。
 

 
 

特徴

「山形鋳物」は「機械鋳物」と「工芸鋳物」に大別され、
更に「工芸鋳物」は
「鉄製」のものと「銅合金(ブロンズ)」のものとがあります。
 
 
伝統に磨かれた独特の鋳型作り、
文様押し、肌打ち、漆仕上げにより、
薄物で繊細な肌と形の正確さが「山形鋳物」の特徴です。
「山形鋳物」の特徴は、鉄器がもつ重厚な存在感はそのままに、
「薄手で繊細な肌合い」が生み出されている点にあります。
 
茶の湯釜や鉄鍋は「鉄」から作られますが、
その他の製品には「銅合金(ブロンズ)」も使用されており、
技術の進化とともに使用できる素材も増えた近年では、
「アルミの鋳物」も見られるようになりました。