「伊賀焼」は三重県伊賀市等で作られる焼き物です。
伊賀では、 耐火度の高い粘土が採取出来ること、
薪に最適な赤松の森林が豊かであったことから、
古くから陶器が焼かれていました。
歴史
「伊賀焼」の始まりは7世紀後半から8世紀に遡ります。
「須恵器」という土器が焼かれ、
初めのうちは農業用の種壷が作られていましたが、
飛鳥時代には寺院の瓦も作られていたと言います。
鎌倉時代になると、
甕、壺、すり鉢などの日用雑器が焼かれるようになり、
「伊賀焼」と呼ばれるものはここに始まったとされています。
室町時代になり、茶の湯が洗練されると、
伊賀では水指や花生が焼かれ始めます。
「伊賀に耳あり、信楽に耳なし」と言われますが、
この時代から一対の耳を持つ作品が多くなってきます。
伊賀の茶陶は徐々に耳目を集めていきましたが、
1579年、織田信長の天正伊賀の乱でこの地は焦土と化すと、
陶工は諸国に離散し、
信楽や、中には秋田にまで逃れた者もいました。
「六古窯」(ろくこよう)の一つに数えられる「古伊賀」と呼ばれる
独特で豪壮な風格を確立させたのは
桃山時代に筒井定次が伊賀領主となってからだと言われています。
筒井定次は茶の湯を好む人物で、伊賀の茶陶に目を付け、
離散した陶工を呼び戻し、製作を保護奨励しました。
ここで伊賀焼の茶陶が大成していくことになりました。
六古窯(ろくこよう)とは
平安時代末期~安土桃山時代を代表する窯業地のことです。
平安末~鎌倉・南北朝・室町・安土桃山を
中世とすることから中世六古窯、または日本六古窯とも呼ばれます。
次の6窯が該当します。
- 瀬戸窯(せとよう :愛知県瀬戸市)
- 常滑窯(とこなめよう:愛知県常滑市)
- 越前窯(えちぜんよう:福井県丹生郡越前町)
- 信楽窯(しがらきよう:滋賀県甲賀市信楽町)
- 丹波窯(たんばよう :兵庫県篠山市今田町)
- 備前窯(びぜんよう :岡山県備前市伊部)
その後、「ゆがみ」や「へこみ」など
「織部好み」の影響を受けた茶陶が作られるようになりました。
織部自身も伊賀焼を愛用していたことが分かっています。
更に、「伊賀焼」は高温で数度焼成するため、
自然と青ガラス質のビードロ釉が出来、
自然美に近い一期一会の様子が見受けられます。
これが茶道に通じるとされ、
「伊賀焼」は天下の茶陶として名を馳せました。
しかし藤堂家三代目の高久の時代の 1661年頃、
白土山の粘土の採取が禁止されて御留山となったため、
多くの陶工が信楽に移り、
茶陶「伊賀焼」の生産は約100年間に渡り、中断されてしまいました。
しかし18世紀に入ると、藤堂家九代目の高嶷が再び作陶を奨励、
これにより「再興伊賀」の時代を迎えました。
明治期以降は、
伊賀陶土の特性を生かした耐熱食器の生産が主流となり、
産地としての基盤が固められました。
第二次世界大戦で金属の生産が止まると、
代用品として伊賀の「土鍋」「行平」の需要は急増しました。
しかし終戦後に産業の近代化が進ぶと、「伊賀焼」の従事者が減り、
土鍋の売れ行きは急速に落ち込んでしまいました。
但し、伊賀では土鍋などの耐熱食器製作の技術は
今日まで受け継がれており、
伊賀焼の持ち味を活かした、現代の生活に合った製品が開発されています。
昭和57年には「伝統的工芸品」に指定され、
現在は13名の伝統工芸士が認定されています (令和2年6月現在) 。
伊賀焼の特徴
日本で取れる陶土の中で、 土鍋に出来る程の耐火度を持つのは
「伊賀の土のみ」と言われています。
その耐熱性と蓄熱できる性質から、
調理器具として優秀な働きをしてくれます。
伊賀市はかつて琵琶湖の底だったとされ、
古琵琶湖層と言われる地層から採れる伊賀の土の中には、
400万年も前に生息していた有機物が多く存在しています。
この土を高温で焼くと、
有機物が発泡し、土の中に細かな気孔がたくさん出来るため、
木のように「呼吸する土」と呼ばれています。
この状態の土は熱をすぐに通さず、一度蓄熱をします。
蓄熱性が高い伊賀の土でつくられた土鍋は、
火から下ろした後でもなかなか冷めず、
弱火でコトコト煮込んでいるのと同じ温度を保ってくれます。
そのため、調理に適しているのです。
また、「伊賀焼」はかつて「伊賀の七度焼き」と言われたほど、
何度も焼くのが特徴で、高温で何度も焼成することによって、
焦げと窯変によるビードロ、力強い形など、
土の風合いを生かした焼き物が多く、人気です。