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美の壺「大地の祝福 信楽焼」<File 494>

<番組紹介>
朝ドラ「スカーレット」でおなじみの信楽焼
 ▽「たぬき」が守衛のバイトで草刈家に!?
 ▽「冷え枯れた美」と茶人が絶賛した壺や甕(かめ)。
  江戸時代前期まで焼締(やきしめ)の技法で作られた
  古信楽(こしがらき)は信楽焼の真骨頂。
  見どころ満載!
 ▽花人の川瀬敏郎さんが古信楽に花をいける
 ▽陶芸家を魅了する変幻自在な信楽の土の秘密
 ▽身も心も温まる信楽焼のお風呂も登場!?
 ▽知られざる信楽焼の世界!
 
<初回放送日:令和2(2020)年1月10日(金)>
 
朝ドラ『スカーレット』のモデル・神山清子さんの作品
 
 
「信楽焼」と言えば「たぬき」。
でも それだけではないんです。
一見、素朴な壺の数々。
野趣溢れる佇まいは、茶人達に「冷え枯れた美」と讃えられました。
更に、変幻自在な土から生まれる多種多様な作品。
知られざる信楽焼の世界にご案内します。
 

 
 

美の壺1.心で観るから美しい

 

古信楽

 
滋賀県甲賀市信楽町は、
古くから焼き物の産地として栄えてきました。
この地で「信楽焼」が生まれたのは、13世紀頃と言われています。
そして、江戸時代前期までに作られ、
釉薬を使っていない「信楽焼」を「古信楽」と呼びます。
 

 
 
「蹲」(うずくまる)と名付けられた小さな壺は、
元々は穀物の種壺や油壺として使われた雑器を、
茶人が花入に見立てたものです。
人が膝を抱え、うずくまってしゃがみ込んだような
愛嬌ある姿が特徴です。

 
一方、縦、横、高さが30cm以上の
大きな「壺」や「甕」「すり鉢」なども残っています。
 

 
 
「信楽焼」は、いわゆる一般庶民のための生活道具を作る窯として
始まりました。
そして、種籾を保存したり、水を入れる用途などに使われた
「古信楽」の素朴な焼き物に美を見い出したのが、
室町時代の茶人達です。
飾り気のない姿を「冷え枯れた美」と称え、茶道具として重宝しました。
 

 
 
ところで、茶人達は
「古信楽」のどこに美しさを見い出したのでしょうか?
 

 
「古信楽」の最大の魅力と言われるのは、
「火色」(ひいろ)と呼ばれるほんのり赤い肌。
釉薬をかけずに高温で焼成する、
「焼締め」(やきしめ)と呼ばれる技法によって、
土に含まれる鉄分が酸化することで、火を思わせる色が生まれます。
信楽の土は鉄分が少ないため、ほんわりと明るい橙色に焼き上がります
「窯あじ」とも呼ばれて、温度や焚き方によって微妙に変化することで
「信楽焼」独特の発色が起こります。
 

 
 
豪快な「自然釉」(しぜんゆう)も魅力の一つです。
土と薪の灰に含まれる成分が反応し、
(かま)の中で陶器に薪の灰が降り掛かって土と化学反応を起こし、
ガラス質となって溶け出すことで自然に釉状になっています。

また信楽の土には鉱物が多く含まれていることから、
鉱物が溶けて、プツプツと白い斑点が浮き出てくることがあります。
これは「蟹の目(またはあられ)」と呼ばれて、
その名の通り、蟹の目玉のような可愛らしさが特徴です。
 

 
「信楽焼のようなこういう焼締めのものは、
 心で観るというふうによく言われるんですが、
 心でじっと観て自分に訴えてくるような美しさ。
 その辺のところが信楽焼の面白さなんじゃないかなと思います。」
 
飾り気のない「すっぴん」が魅力の「信楽焼」なのです。
 
 
 
 
 

花人・川瀬敏郎さん

 
花人の川瀬敏郎(かわせとしろう)さんは、
これまで数々の「古信楽」に花を活けてきました。
 
「信楽というのはね、
 もう大地の下からずっと這うような花に見えるほど、
 凄く、やっぱり器と花や何かが一体感がより出て。
 それぐらい信楽は一番。」
 

 
川瀬さんは、まず、室町時代の大壺に向き合いました。
火色、そして窯の中で灰がかぶり、黒く変化した部分のコントラスト。
冷え枯れた美しさを醸し出す一品です。
 
活けるのは、野山から摘んできた草木です。
 
熟れた柘榴(ざくろ)には赤いツタを添えました。
晩秋の気配が壺から溢れ出るかのような作品です。
 

 
 
続いては、「鬼桶」(おにおけ)と呼ばれる器に活けていきます。
 
「鬼桶」
 
口が広く、口造りは玉縁、口縁部から裾にかけて直線的に窄まり、底が平底になったものです。
農民が使用した苧麻(からむし)の糸を水に浸けてほぐす
「苧桶(緒桶)」(おおけ)を「水指」に見立てたものと
いいます。
 
「鬼桶」にある大河のような自然釉の流れが
冬の静寂(しじま)に凛と佇む寒菊を包み込みます。
 
そして壁には、「焼経」(やけぎょう)と呼ばれる
掛け軸を掛けました。
これは平安時代のものと言われる「お経」を書いたもので、
金で装飾した料紙(りょうし)の一部に焼けた跡があります。
その焼け跡と鬼桶の自然釉の流れが
見事に調和した作品になりました。
 
 
小ぶりな「蹲」(うずくまる)は「掛け花」として使いました。
命が尽きる寸前の薄(すすき)は秋の終わりを、
「蹲」は冬の訪れを表しています。
季節の移ろいを小さな壺が受け止めます。
 

 
同じ「蹲」も置いて活ければ、全く異なる印象になります。
安定感のある形がポツンと残った赤い実の危うさを引き立てます。
「蹲」がピンと張り詰めた冬の緊張感を演出しています。
 
 
最後に川瀬さんの前に現れたのは、「古信楽」のとっておきの一品。
赤い肌を流れる豪快な自然釉に大きく張った肩の迫力、
力強さが漲る大甕です。
 

 
完成した作品は、
夏に美しく咲き誇った蓮の花の枯れた姿を
琵琶湖を思わせるように、葦(よし)が囲う
水辺の風景が広がっていました。
そこには、命の終わりの静謐な空気が漂います。
自然の儚さを包み込む大きな力。
大甕はまさに大地そのものです。
 
 
 

美の壺2.土の声を聴け

 

信楽の土(陶芸家・澤 清嗣さん)

 
信楽で焼物が作られるようになった要因はいくつかありますが、
やはり焼物に適した良質の土が採れることが挙げられます。
 
滋賀県の面積の1/6を占める「琵琶湖」は、
約600万年前に、三重県の伊賀盆地辺りに誕生しました。
「古琵琶」はその後、北に移動しながら、
約60kmも離れた現在の「琵琶湖」になりました。
 
信楽も「古琵琶」の一部で、
この地域は湖底に堆積したと考えられる粘土層が多く、
「古琵琶湖層」(こびわこそうぐん)と呼ばれ、
焼き物に適したコシの強い土になりました。
 
 
信楽の土を愛する陶芸家の一人、澤 清嗣(さわ きよつぐ)さんは、
長年に渡り土と薪窯焼成にこだわりながら、
現代の信楽・焼締め陶を追究している作家です。
信楽の土の特徴は、
黒っぽく見える「珪石」(けいせき)
白い粒子状の「長石」(ちょうせき)と呼ばれる鉱物が
多く含まれていること。
焼くと様々な見どころとなって現れる上、
これらの鉱物が含まれるとコシのある土になります。
 
 
澤さんは、作る物に合わせて土を数種類を調合します。
この日、澤さんが使ったのは、一際粘り気のある土でした。
轆轤(ろくろ)成形後に澤さんが手にしたのは、
何と錆びた鋸(のこぎり)
器に錆びた刃の粗い鋸で切れ目を入れて、口元を大胆に破きました。
そして、穴窯で1200度程の高温で焼き締めます。
寝ずの作業は、5日間続きます。
窯の中で作品が炎に耐え切れず、割れたり、裂けたり、歪んだりし、
その大きく破れた隙間からは、自然釉に覆われた粗い素地が姿を見せます。
大地のエネルギーが解き放たれていくように見えます。
この「破調の美」こそ澤清嗣さんの作品の大きな魅力となっています。
 
名称
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信楽の土を引き出す(陶芸家・古谷 和也さん)

 
陶芸家に様々な閃きを与える「信楽」の土。
その魅力を独特な方法で引き出すのが、
陶芸家の古谷 和也さんです。
 

 
古谷さんが使うのは「原土」(げんど)です。
「原土」とは、山から採れたそのままの土のことです。
山から掘り出した土は土質が粗く扱いづらいため、
多くの場合は数種類の土を混ぜますが、
古谷さんは敢えてこのまま使っています。
 
まずは麺棒で原土を伸ばし、成形した作品に直接、貼り付けていきます。
黒い原土は粒子が粗く、野趣溢れる質感が気に入りました。
一方、白い原土は「火色」(ひいろ)が美しく出るもの。
個性の異なる土を組み合わせることで、互いの魅力を引き出します。
まるで荒涼とした大地を思わせる土、本来の姿。
白と火色。
同じ土を貼った部分でも 、窯の中の灰のかぶり具合で発色が分かれました。
土の存在感が溢れる一品です。
陶芸家の尽きない探求心を搔き立てる魅惑の土です。
 
 
 

美の壺3.狸、大物なんでも来い

 

信楽狸

 
「信楽焼」と言えば、やっぱり「狸」ですね。
福々とした狸が編み笠をかぶり、
右手に徳利・左手に通帳を持って立っているのが定番です。
狸が「他を抜く」に通じるとして、
商売繁盛としてお店の軒先に置かれることも多いものです。
 

 
ところで、なぜ信楽は「たぬきの町」となったのでしょう?
きっかけの一人と言われているのが、
窯元「狸庵」(りあん)の初代・藤原銕造(ふじわら てつぞう)です。
大好きなたぬきの焼き物ばかりを作っていました。
 

 
藤原銕造(ふじわら てつぞう)は11歳の時から
京都清水焼の窯元で修業していました。
銕造はある月夜の晩に、ポンポコポンと腹鼓に興じる
狸を見てすっかり魅せられ、何とかその姿を焼き物で
再現しようと狸を作り始めました。
(夢の中で「タヌキを造れ」と告げられて制作したのが
 始まりだとする説もあります。)
京都清水での修行を終え、信楽に住みついてからは
大きな陶器を得意とする信楽の特徴を活かして、
等身大の「狸」を次々と作りました。
 
 
そんな折、昭和26(1951)年に昭和天皇が信楽を行幸されました。
その際、信楽の陶工達は、
当時の主力製品であった火鉢を積み上げてアーチをつくり、
日の丸の旗を持たせた信楽狸を並べ、奉迎しました。
それを見た昭和天皇は喜ばれ、次のような歌を詠まれました。

をさなきとき あつめしからに なつかしも
しからきやきの たぬきをみれば
 
そのエピソードがマスコミに取り上げられたことから、
「信楽狸」が一躍、全国的に有名になったのです。
 

 
 
更に、たぬき文化研究家・石田豪澄が、
伝承をベースとした
「信楽狸八相縁起」(しがらきたぬきはっそうえんぎ)を考案。
石田のススメで信楽の陶器店が
「信楽狸八相縁起」のしおりをつけて販売したところ、
たぬきの置物が縁起物として好まれるようになりました。
 

 
「信楽狸八相縁起」(しがらきたぬきはっそうえんぎ)
 ・笠 :思わざる悪事災難ふせぐ笠
 ・目 :何事も大きな目玉で正しい判断
 ・顔 :いつも笑顔を忘れず真心で
 ・徳利:我が徳は日頃の努力で身につけて
     (利は徳について来る)
 ・通 :世渡りは信用第一、通い帳は大切に
 ・腹 :常に落ちつき決断力の太腹をもて
 ・金袋:金は上手に使い、上手に増やせ
 ・尾 :何事も終わりは太く大きく締めくくる
 
 
信楽では、「大物」と呼ばれる焼き物も盛んに作られています。
中でも全国一の生産量を誇ったのが「火鉢」です。
昭和20年代、信楽の町は「火鉢景気」に沸きました。
 

 
昭和30年代に入ると観葉植物の流行に目をつけ、
主製品は「植木鉢」に移行しました。
 

 
昭和30年代中頃からは
「タイル」をはじめとする「建築用陶器」の生産が始まり、
国会議事堂の屋根にも採用されました。

 
信楽は、大きな焼き物も小さな焼き物も作ることが出来る、
どんなものでも作ろうとする産地です。
現在も、陶器風呂や坪庭など、
時代のニーズに応じた様々な製品が生み出されています。
 

 
 
また、産業製品に留まらず、芸術作品も生み出されています。
信楽の土はコシが強くて、しかも窯の中で変形しにくいので、
本当に大変面白い土です。
こうした信楽の土の変幻自在さに目をつけた人物が、
あの岡本太郎です。
 

 
昭和45(1970)年の
「日本万国博覧会(大阪万博)」のシンボル
「太陽の塔」の背面の「黒い太陽」は、
信楽の陶器工場で、
信楽の当時の技術を駆使して制作されたものです。
様々な人に認められた信楽の技でした。
 

 
 

大物陶器(文五郎窯 五代目・奥田文悟さん)

 
文五郎窯」の五代目・奥田文悟さんは、
陶製浴槽のような大物を手掛けるロクロ師です。
 
使うのは、240㎏もの粘土。
大物を相手に全力で勝負します。
最も重要なのは、縁の厚み。
 
大きな浴槽は3つに分けて作るため、
繋ぎ目をミリ単位で合わせていきます。
窯までは軽トラックで運んで、
釉薬をかけ、窯で1週間程焼いて、完成です。
 
奥田さんの浴槽は、
全国各地の旅館やホテルで大勢の人を温めています。
人をポカポカと優しく包み込む、手仕事の温もり。
匠の技が生み出す、癒やしのひとときです。
 

 

<関連>信楽焼/イッピン「滋賀 焼きもの」

 
 

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