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三重県「萬古焼」

 
「四日市萬古焼」(よっかいちばんこやき)は、
三重県四日市市の代表的な地場産業であり、
昭和54(1979)年に「国の伝統工芸品」に指定されています。
四日市市と菰野町(こものちょう)を中心に、
窯元数は100社以上に上ります。
 
 

産地

「萬古焼」(ばんこ)の産地・四日市は、
東海道沿線にあり、交通の便に優れた宿場町として、
文化や流通が発達してきました。
 
周辺には、瀬戸・美濃・常滑・信楽・京都など大きな窯場地があり、
更には焼き物に適した土の採取も困難なため、
決して恵まれた環境ではありませんが、
他の窯業地にはない新技術の開発や、造形やデザイン性、
海外メーカーとの流通の開拓など多くの創意工夫をすることで、
実に多種多様なやきものを作ってきました。
「萬古の印があることが一番の特徴」と言われるほどです。
 
 

歴史

 
「萬古焼」(ばんこやき)
江戸時代中期の元文年間(1736~1740年)に
桑名の豪商・茶人であった沼波弄山(ぬなみ ろうざん)が始めたものです。
この頃、「萬古屋」という陶器の廻船問屋を営んでいた弄山は、
茶趣味が高じて、現在の三重郡朝日町小向(みえけんみえぐんあさひちょうおぶけ)
開窯したことが始まりとされています(古萬古)。
 
 
弄山は、「京焼」の技法を取り入れ、
「古萬古」と呼ばれる色絵を施した優美な焼き物を生み出しました。

そして後世にも受け継がれて欲しいとの思いを込めて

「萬古」または「萬古不易」の印を用いたことが、
名前の由来とされています。
 
弄山の作品には、当時では珍しかったとされる
「オランダ文字」や「更紗模様」といった
異国のデザインを取り入れた作品もあり、
沢山の人々から人気を集めました。
 
その後弄山は、江戸・向島小梅(現在の東京都墨田区)にも開窯し、
十代将軍・家治の御成りもあったと伝えられています。(「江戸萬古」)
 

 
 
弄山(ろうざん)の死後、
「萬古焼(古萬古)」は一旦途絶えるのですが、
30年後の天保3(1833)年に、 古物商であった
森 有節(もり ゆうせつ)・千秋(せんしゅう)兄弟により
再興されました
 
これは「有節萬古」又は「復興萬古」と呼ばれ、
後世の「桑名萬古」や「四日市萬古」に大きな影響を与えました。
始めは、「古萬古」の雰囲気を再現したものが焼き物でしたが、
だんだんと独自の表現を見出します。
釉薬を重ねて彩色した「盛絵」(もりえ)もそのひとつです。
 
また、抹茶に代わり煎茶が流行しつつあったこの時期に、
有節は煎茶急須を研究し、「煎茶のための急須」を誕生させました。
華麗な粉彩による大和絵の絵付と、
木型成形法によって製造された斬新な「急須」は
桑名の名物となり、桑名藩も製造を奨励しました。
 
これらは桑名市で作られたことから
「桑名萬古」(くわなばんこ)と呼ばれます。
陶工達は「有節萬古」に工夫を重ねて独自の作行きを生み出しました。
明治時代に入ると、パリ万博や京都博覧会などへ出品され、
多くの賞を受賞し、高い評価を受けました。
 

 
 
元々四日市が発祥ではなかった「萬古焼」が
「四日市萬古焼」と呼ばれ、四日市に定着したのは、
明治時代に入ってからです。
四日市市末永の大地主で村役であった
山中忠左衛門(やまなか ちゅうざえもん)
海蔵川と三滝川に挟まれ、
毎年水害に悩まされていた地区住民の救済のために
窯をつくったことが始まりです。
その陶法を広めました。
山中忠左衛門は、自ら「有節萬古」を研究すると、
末永村の村人にそれを伝え、道具と材料を寄付して、
量産体制を確立。
「萬古焼」を四日市の地場産業として定着させました。
 

 
 
四日市港の開港や関西鉄道の開通により、
国内各地へと販路は大きく広がりました。
更に、川村又助(かわむら またすけ)が海外輸出への足掛かりを作り、
堀友直が海外向け製品の考案を行ったことなどから、
海外への販路も広がり、地場産業としての基盤が築かれました。
 
明治中頃には、原料の白土が枯渇してしまいますが、
赤土を使ったろくろ引きの「紫泥急須」(しでいきゅうす)が生み出され、
それが現在の「四日市萬古焼」の主力製品となったのです。

明治末期の全国的な不況により、
萬古焼業界も低迷期を迎えたことから、
新製品の開発で打開しようと、西洋の硬質陶器の研究が始まりました。
そして明治44(1911)年、
水谷寅次郎が磁器土と陶土を合わせた
「半磁器式特殊硬質陶器(半磁器)」の開発に成功。
ちょうど改元の時であったため、
「大正焼」と名付けられました。
 

 
この半磁器は  また、寅次郎は半磁器の生産技術を広め、
この半磁器は、黄味を帯びた温かみのある素地で人気となりました。
低温で焼成出来ることから、
製造する側にも燃料費を抑えられる利点もありました。
萬古焼業界は活況を取り戻し、
生産の機械化や硬質陶器・軽量陶器の開発も進められ、
四日市は窯業地として大きく発展しました。
 

 
四日市大空襲で、
「萬古焼」の工場や倉庫のほとんどが焼失してしまいましたが、
終戦後は業界の再建が進み、昭和23(1948)年の貿易再開の後押しも受けて、
復興は速やかに進みました。
 

 
昭和34(1959)年頃、素地粘土に「ペタライト(葉長石)」を加えた
「割れない土鍋」が爆発的な人気となり、
現在も「土鍋」の国内生産高は80〜90%を占めています。
もうひとつの「萬古焼」の定番「紫泥急須」のシェアも70%を占めます。
昭和54(1979)年、「四日市萬古焼」は
当時の通商産業大臣から「伝統的工芸品」として指定されました。
 

 
昭和60(1985)年以降の急激な円高により
海外への出荷は落ち込みますが、
国内向けの出荷額はほぼ横ばいを続けています。
 

 
四日市市内陶栄町には「萬古神社」があり、
沼波弄山が祀られ、山中忠左衛門の碑があります。
毎年「萬古祭り」や「土鍋供養祭」が行われ、
大勢の人で賑わいます。
 
萬古神社
  • 住所:〒510-0035
    三重県四日市市陶栄町3-21
  • 電話:059-331-3496
 
 
人気陶芸家の内田鋼一さんにより
平成27(2015)年にオープンしました。
展示品の中心は
「古萬古」や「有節萬古」と呼ばれる古いものではなく、
明治時代から戦後にかけて発展したデザイン性の高い「萬古焼」です。
他に、年に2回の企画展も行われています。
 
BANKO
アーカイブデザインミュージアム
  • 住所:〒510-0032
    三重県四日市市京町2-13-1F
  • 時間:11:00-18:00
  • 休み:火・水曜日
  • 電話:059-324-7956
 
平成28(2016)年に開催された
「第42回 先進国首脳会議」(伊勢志摩サミット)では、
首脳陣の乾杯の際に萬古焼の盃が使用されました。
 
 

萬古焼を代表する商品

1.土鍋

「土鍋」は萬古焼を代表する商品で、
国内シェアの80~90%近くを占めています。
街中で見られる国産品土鍋のほとんどが、
「萬古焼」と言っても過言ではないでしょう。
 
近年は、大きさや形状も様々に増え、
多彩な商品が開発されています。
 
<陶板>
 
<タジン鍋>
 
<ごはん釜>
 
<炭コンロ>
 
特に高度な技術を使った
電磁調理器具用のIH土鍋の開発も盛んです。
 
 
 
「萬古焼」の特徴は「陶土」にあります。
ロケットの塗装にも使われる「ペタライト」という
熱に強いリチウム鉱石を混ぜて焼くことで、強度がアップ。
耐熱性に特に優れ、
ガスレンジや炭火などの空焚きや直火に対しても、
高度の耐久性を発揮します。
 
 

2.紫泥急須

「紫泥急須」もまた「萬古焼」を代表する商品の一つです。
使い込むほどにお茶のタンニンと肌が反応し合い、
お茶の風味がまろやかになっていくと言われています。
 
明治時代以降、煎茶の流行を受け急須の製作が始まり、
現在のような焼き締めの急須が大勢を占めるようになりました。
 
萬古焼の急須の特性は、その土に由来します。
「紫泥」(しでい)と呼ばれる鉄分の多い土地元の赤土粘土は、
繊細で扱いが難しいのですが、
窯でしっかりと還元焼成させることにより
何とも言えぬ美しい色に焼き上がります。
 
生産量全国3位を誇る三重の「伊勢茶」と取り合わせてみては
いかがでしょうか。
 
 
 

蚊遣り豚(かやりぶた)

 
日本の夏の風物詩、「蚊遣り豚」は
三重県菰野町の名産品の一つです。
耐熱性が高く壊れにくい「萬古焼」は、
蚊取り線香入れにぴったりです。