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美の壺「江戸のアート 浮世絵」<File 576>

<番組紹介>
人気アニメ「進撃の巨人」が
浮世絵をモチーフにした作品登場!
 
 ▽新紙幣に北斎
 ▽歌舞伎界きっての浮世絵コレクター・
  市川猿之助さんイチオシの浮世絵とは?!
 ▽春信・歌麿から北斎・広重まで…
  世界でも類を見ない浮世絵文化とは?
 ▽1ミリに何本!?彫師と摺師の超絶技巧
 ▽人気急上昇の歌川国芳の秘策
 ▽1枚に300もの摺り度数!
  フランス人浮世絵師ポール・ジャクレーが
  浮世絵にもたらした革新とは?!
 
<初回放送日:令和5(2023)年3月17日>
 
 
 

美の壺1.時代を伝える

 

役者絵(浮世絵コレクター 四代目・市川猿之助さん)

 
歌舞伎役者の四代目・市川猿之助(いちかわ えんのすけ)さんは、
歌舞伎界きっての浮世絵コレクターです。
きっかけは、子供の頃に、
お父様の四代目・市川段四郎とお伯父さんの三代目・猿之助が、
お土産としてロンドンの蚤の市で買ってきてくれた、
高祖父に当たる初代・猿之助が描かれている
「役者絵」(やくしゃえ)でした。
 
初代・猿之助(1855年 - 1922年)
浅草の立師たてし(立廻りの振付師)の子で、
役者の門人から立役へ出世、
澤瀉屋おもだかや権門けんもんにのしあげ、
遂には歌舞伎界を代表する長老になった
反骨の苦労人。
 
 
以来、お小遣いを貯めては役者絵の購入を続け、
今では3000枚超のコレクションになりました。
 

 
平成24(2012)年「四代目 市川猿之助襲名記念」の際に行われた
「二代目 市川亀治郎大博覧会」では、
「市川亀治郎浮世絵コレクション」と題して、
所蔵する膨大なコレクションから厳選した浮世絵40点が
紹介されました。
 
猿之助さんのお気に入りは、
浮世絵師・太田雅光(おおた まさみつ)
昭和20(1945)年に二代目・猿之助を描いた
『昭和舞台姿 その八 悪太郎』だそうです。
 

www.yamada-shoten.com

 
ポーズが美しく、絵面(えめん)が決まった作品で演じる時には
参考にもなるそうです。
猿之助さんにとって「役者絵」とは、
生きている絵だとおっしゃっていました。
 
悪太郎
『悪太郎』(あくたろう)は、澤瀉屋の芸「猿翁十種えんおうじゅっしゅ」のひとつに数えられる舞踊の演目。
悪太郎は、大きな鎌髭を生やし、愛嬌ある表情からも憎めない存在です。修行者とのやりとりや、薙刀を振り回しながら舞う姿など、随所で笑いを誘います。
 
猿翁十種えんおうじゅっしゅ」は初代市川猿翁(二代目・猿之助)が創作あるいは復活した舞踊と舞踊劇を、一周忌に当たる
昭和39(1964)年に孫の三代目・猿之助(現・二代目猿翁)が家の芸として制定したもの。
悪太郎あくたろう黒塚くろづか高野物狂こうやものぐるい小鍛冶こかじ独楽こま二人三番叟ににんさんばそう蚤取男のみとりおとこ花見奴はなみやっこ酔奴よいやっこ吉野山道行よしのやまみちゆき
 
 

美人画(「千葉県立美術館」副館長・田辺 晶子さん)

 
浮世絵の中で「役者絵」と並び人気のあるジャンルが
「美人画」です。
 
喜多川歌麿(きたがわうたまろ)
『ビードロを吹く娘』を含む「婦女人相十品」の揃物や、
実在する評判の美人を描いた『当時三美人』(とうじさんびじん)など、
それまで全身で描かれていた「美人画」を「大首絵」で次々と描いて、
スター絵師に上り詰めました。
 

 
『寛政の三美人』(かんせいさんびじん)は、
淡いピンク色のキラを背景に、
富本豊ひな、難波屋おきた、高島屋おひさという、
当時を代表する女性三人が並んだ華やかな作品です。
 
「豊ひな」は吉原の芸者で、
富本節を語る美人芸者として名を馳せました。
「おきた」は浅草隋身門前の水茶屋の娘。
三美人の中で最も人気があったとされています。
「おひさ」はおきたよりも一つ年上で、
名も高島のおひさうつくしと謳われました。
 
三人の女性は、多少の違いはありますが
似通った顔立ちをしています。
千葉県立美術館」副館長の田辺晶子さんによると、
浮世絵版画は薄利多売の世界で、
より多くの人々に買い求められることに重きを置いたため、
客観的な表現になったのではないかと言います。
因みに、価格は蕎麦一杯分程で、
若者からお年寄りまで多くの人が手に入れることが出来たそうです。
 

 
 
喜多川歌麿の他にも、
様々な絵師によっていろいろな「美人画」が登場しました。
 
鈴木春信の描く美人は、華奢で優美、まるで妖精のようです。
画面が二枚、三枚と続いた絵もあります。

 
鳥居清長(とりいきよなが)の描く八頭身美人に心奪われ、
幕末になると美人画も変化を遂げます。

 
渓斎英泉(けいさい えいせん)の作品は、
凄みがあり「あだっぽい」美人画です。

 
浮世絵師が新しいスタイルを打ち出し、
当代の好みに敏感に反応しました。
 
  • 住所:〒260-0024
       千葉県千葉市中央区中央港1-10-1
  • 電話:043-242-8311
 
 
 

美の壺2.線と色に魂込めて

 

浮世絵版画の歴史

 
浮世絵が生まれたのは17世紀頃、江戸時代の事です。
そもそも浮世絵の「浮世」とは、
江戸時代以前の戦が続いたいわゆる「憂世」に対し、
徳川幕府成立によって始まった、
ゆとりを持った平和な世が生んだ言葉でした。
安定した世の中に明るい意思をもった庶民の間で、
いつしか「憂世」は「浮世」という明るい言葉となり、
その当時を描いた絵という意味で「浮世絵」が生まれたそうです。
 
 
初期の「浮世絵」は、
墨一色のモノクロの「墨摺絵」(すみずりえ)から始まりました。
地本の挿絵を描いていた菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が発表した
肉筆画の『見返り美人図』が評判を呼んだことから
一枚の絵として発展したのが「浮世絵」です。
 

 
江戸中期になると墨色だけでなく、
「紅摺絵」(べにずりえ)と呼ばれる赤を基調とした色に
緑や黄の色が加わった彩色が始まります。
後にはやや進んで4色5色を用いるようにもなりました。
「紅摺絵」を製作した主な絵師には、
奥村政信(おくむらまさのぶ)らがいます
 

 
 
明和年間(1764~1772)以降になると
多色で刷られた精巧な木版画「錦絵」(にしきえ)が登場します。
 
江戸時代中期に、裕福な俳諧人達の間で
「絵暦」という絵入りの暦が流行していました。
より贅沢で華美なものを求められるようになったことから、
多色摺木版画の技術が飛躍的に向上します。
そしてこれまでの「墨摺絵」や「紅摺絵」と比べて、
錦織のようなに鮮やかで美しかったことから
「錦絵」と称して売り出されました。
初期の「錦絵」の代表的な浮世絵師には、
鈴木春信(すずき はるのぶ)がいます。

 
「錦絵」は早く大量に摺る技術が確立されると、
庶民にも手頃な価格で購入出来るようになり、
文化・文政期(1804〜1830年)には最盛期を迎えます。
歌舞伎俳優を描いた「役者絵」や話題の美人を描いた「美人画」、
相撲の力士や武者の絵がブロマイドのような存在で
人気を集めました。
 

 
江戸後期には、風景を描いた「名所絵」がブームとなりました。
葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『東海道五十三次』は、
庶民に巻き起こった旅ブームと相俟って人気を集めたのです。
まだ訪れたことのない地に思いを馳せて浮世絵は、
庶民に至るまで絵を楽しむ文化が形成されていきました。
 


 
 

「匠木版画工房」浮世絵彫師・朝香元晴さん

 
浮世絵には絵師に注目が集まりますが、
「彫り」や「摺り」の職人の技が浮世絵を支えています。
 
匠木版画工房」の浮世絵彫師・朝香元晴さんは、
喜多川歌麿の美人画『兵庫屋花妻』の復刻を手掛けています。
『兵庫屋花妻』は、顔の部分を大胆に捉えた「大首絵」です。
 

花妻が読んでいる手紙の中に、
「人まねきらいしきうつくしなし
 ・・美人画は哥子にとゝめ参らせ候・・」と
自分が美人画の第1人者であることを誇っている。
 
浅香さんは子供の頃から木版画が大好きだったそうです。
師匠の歌麿の彫りを見た時に
「こんな細い線が彫れるのか!」と感動して
日本一の彫師を志すことを決意したそうです。
 
 
「美人画」の版木には、
彫師ならではの超絶技巧が施されています。
髪の毛の一本一本まで、しかも生え際まで彫りで表現する技法を
「毛割」(けわり)と言います。
 

 
スッと長く髪を彫る「通し毛」、
生え際を櫛で梳いたように見せる「八重毛」(やえげ)
髪の生え際や襟足などに1本のほつれ毛を敢えて描くこともあります。
 
この技法は最も難しい卓越した技術を要するため、
親方格の彫師が担当をする作業と言われ、
こうした立場の彫師を「頭彫」(かしらぼり)と呼びます。
 

 
版木の材質は、「山桜」の木です。
堅くて精緻な彫りができます。
浅香さんは、絵師の線を生かすも殺すも彫師にかかってくると言います。
浅香さん自身の線ではなく、
歌麿、広重の当時の絵を忠実に蘇らせることに
かかっているのだそうです。
主版を摺り、色版を摺り重ねると江戸時代の美人画が蘇りました。
 

takumihanga.com

  • 住所:〒162-0067
       東京都新宿区富久町23-4
  • 電話:03-5379-5668
 
 

摺師の三田村努さん

 
三田村努(みたむらつとむ)さんは、
この道35年、3代続く江戸木版画の摺師(すりし)です。
幕末から明治にかけて活躍した
浮世絵師・河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)
『狂斎百図大夕立』の復刻に取り組んでいます。
 

 
「浮世絵」は、絵師、彫師、摺師の3人が協力し合って初めて、1つの作品が完成します。
まず「絵師」(えし)が、墨の線で「下絵」を描きます。
次に「彫師」(ほりし)が、下絵を山桜の木の板に貼り、
版下絵の輪郭線となる「主版」(おもはん)を彫ります。
更に色毎に分けて版木を彫り、それぞれの色の色板
(色版)を作ります。
そして絵師の立ち会いのもとで、版画を摺る「摺師」(すりし)がそれぞれの版木に色をつけていきます。
 
 
三田村さんが使う版木は、
輪郭線の「主版」(おもはん)
色をつける「色版」(いろはん)です。
「色版」は裏表を使います。
摺師がそれぞれの版木に色を付けて紙に刷り重ねていきます。
 
三田村さんによると、摺りで最も大切なことは
「見当」(けんとう)と言われる目印を刻み入れることだそうです。
「見当をつける」と言いますがその語源になったものです。
各版木の手前に「ひきつけ見当」、
右隅に「カギ見当」という切り込みを入れて、
そこに紙を合わせることで、
基準位置からズレることなく摺ることが出来ます。
 
 
「淡い色から濃い色」の順に
「小さな面積の場所から、大きな面積の場所」の順という原則で
1回、2回、…10回と色が塗り重ねられて摺っていきます。
ぼかしやグラデーションをつけると、奥行きが出来ました。
 
「ぼかし(グラデーション)」を入れて摺るには、
絵の具の量の乗せ方や微妙な摺り加減に高度な熟練の技が求められます。
 
 
三田村さんは、仕上がるに従って
プレッシャーがかかってくるとおっしゃいます。
ひとつひとついろんな人の手が加わり思いが加わってくるからです。
緻密な技が一枚の紙に込められています。
 
 
 

美の壺3.新境地を開く

 

太田記念美術館(主席学芸員の日野原健司さん)


www.youtube.com

 
東京・原宿にある「太田記念美術館」は
国内有数の浮世絵を専門とする美術館です。
収蔵品は約14,000点、月毎に作品を入れ替えて、
常時80~100点程度の浮世絵が展示されています。
 

 
 
太田記念美術館」主席学芸員の日野原健司(ひのはらけんじ)さんに
江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人、歌川国芳(うたがわ くによし)
『里すずめねぐらの仮宿』を見せていただきました。
 

 
描かれているのは「スズメ」。
綺麗な着物に身を包み、格子の中で、ツンとおすまししています。
また格子の外に群がってその姿を眺めているのも、
みんなスズメです。
 

 
歌川国芳がこの『里すずめねぐらの仮宿』を描いたのは、
弘化3(1846)年です。
その前年の弘化2(1845)年の12月、
遊郭「吉原」は大火事に見舞われました。
吉原ではすぐに「仮宿」で仮営業を始めるのですが、
「本営業」よりもカジュアルで気軽な感じの「仮宿」は
大変に繁盛したようで、国芳はその様子を描きました。
 

 
「弘化」の前の元号は「天保」です。
「天保の改革」(1841~1843年)で浮世絵は規制の対象となり、
遊女や役者絵を描くことを禁じられました。
 

 
歌川国芳は30歳を過ぎてから
『水滸伝』を題材にした武者絵のシリーズ
「通俗水滸伝豪傑百八人之一個(壱人)」が大ヒット。
「武者絵の国芳」として名を馳せ、
古今東西の歴史・物語に登場する数々のヒーロー達を描きました。
 

 
その一方で国芳は、ギャグセンス全開の
ユーモラスな戯画や風刺画も数多く描きました。
 

 
様々なジャンルの作品を描く中で共通しているのは、
人々の意表を突くようなアイディア。
当時の情勢不安を吹き飛ばすような、
愉快痛快な作風が、国芳作品の魅力と言えるでしょう。
 

 
国芳にとっては、規制があるからこそ、
その条件でどれだけ面白い絵が描けるかアイデアの挑戦でした。
規制により一層面白い作品が出来ました。
 

 
  • 住所:〒150-0001
       東京都渋谷区神宮前1-10-10
  • 電話:03-5777-8600
 
 

パリ生まれの浮世絵師 ポール・ジャクレー


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ポール・ジャクレー(1896‐1960)は、仏パリに生まれ、
3歳の時に家族とともに移り住んだ日本で生涯を過ごした
フランス人画家です。
ジャクレーは日本の伝統的な浮世絵版画の手法に基づいた
色鮮やかな多色木版画を数多く制作しました。
 

 
 
ジャクレーは11歳で黒田清輝に洋画を学び、
13歳からは、美人画、風俗画を得意とした池田輝方(いけだ てるかた)
その妻で浮世絵師の池田蕉園(いけだ しょうえん)
日本画を学びました。
ジャクレーは特に浮世絵の模写に没頭しました。
戦後は軽井沢へ移り住んで、彫師や摺師の家を構えて雇い、
自分の思った作品を制作しました。
 

 
ジャクレーの作品は、
ミクロネシアなどの南洋の島々、
日本の風俗などを鮮やかな木版画で精緻に表現しています。
 
代表作の 『満州国真珠』には、
浮世絵では考えられない技巧が凝らされているそうです。
美術史家の猿渡紀代子(さるわたり きよこ)さんによると、
ジャクレーは、失われていく人達の存在や風俗を
描き留めたかったようです。
 
ポール・ジャクレーの養女の稲垣・ジャクレー・テレズさんは、
「Faire Plaisir(フェール・プレジール)楽しみなさい」と
よく言ったとおっしゃいます。
 
ジャクレーは、伝統的な日本の浮世絵の技法に
新たな風を吹き込んでくれました。

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