上品な薄作りが特徴の上野焼は、
灰釉、銅釉、鉄釉など
使用する釉薬によって肌合いや艶が異なり、
窯元によって多様な出来映えとなるのが魅力的な焼き物です。
茶器以外にも、
食器・花器などの身近な生活用品も数多く作り出され、
伝統工芸の枠を越えたモダンな陶芸作品として、
広く親しまれています!
歴史
「上野焼」は、
豊臣秀吉による「文禄・慶長の役」により招致された
加藤清正公に従って帰化した李朝陶工・尊楷が
慶長7(1602)年に
豊前小倉藩の藩主となった細川忠興候(三斉)に招かれて
陶土、水質に恵まれた上野の地に窯を築いたのが始まりです。
細川忠興は
「利休七哲」の一人にも数えられるほど
茶道に造詣が深く、
千利休から直接教えを受け、
「茶禅一味」の奥義を極めた大名でした。
千利休が豊臣秀吉の勘気を蒙り、
堺に蟄居(後に切腹)を命じられた際に見送りをしたのは、
古田織部と細川忠興の二名だけだったという話が伝わっています。
尊楷は地名に因んで「上野喜蔵高国」と名を改め、
細川忠興候の目に叶う、格調高い作品を作ったと言われています。
「上野焼」は、
後に、徳川家茶道指南役・小堀遠州が選定した
「遠州七窯」の一つに数えられ、
独特の温かみを持つことから、
当時の茶人に大変好まれたそうです。
[参考:遠州七窯]
- 志戸呂焼(遠江:遠州)
- 膳所焼 (近江)
- 朝日焼 (山城)
- 赤膚焼 (大和)
- 古曽部焼(摂津)
- 上野焼 (豊前)
- 高取焼 (筑前)
寛永9(1632)年に細川家が豊前から肥後熊本に移封されると、
尊楷は長男の忠兵衛と次男の藤四郎を引き連れて共に肥後へ移り、
「八代焼」として知られる「高田焼」の窯を開き、
上野には尊楷の三男の孫左衛門甫久(十時家)と
尊楷の娘婿の渡久左衛門高利(渡家)の二人が残り、
両家は代々小笠原氏の御用陶工を拝命しました。
「十時家」「渡家」「吉田家」の三家が
藩の御用窯として上野焼の生産を続けますが、
明治4(1871)年の廃藩置県により小笠原家が東京に移住した後は
藩の支援がなくなったために独力で生計を立てざるを得なくなり、
明治の中頃には、上野焼の生産を一時休止せざるを得なくなります。
明治35(1902)年、
熊谷九八郎が田川郡の補助を受けて「熊谷本窯」を起こし、
上野焼の伝統を存続させました。
昭和12(1927)年には、
高田得實が青柳と養子縁組になり「青柳不老園」を開きました。
昭和13(1938)年には、
「渡家」の6代久之丞の次男忠蔵の子孫・渡源彦が、
肥後八代から尊楷の子孫である上野勝蔵などを招いて窯を復興。
昭和14(1939)年には、
熊谷九八郎と共同出資をしていた高鶴萬吉の親戚である高鶴鱗作が
「高鶴窯」(現:庚申窯)を開きました。
昭和17(1942)年以降、「十時家」が「上野焼十時窯」として開窯。
昭和30(1955)年には高田利明が青柳不老園から分窯して、
「高田窯」を開きました。
このようにして、
一時休業にあった上野焼は伝統を維持しながら、
更にはその窯元数を増やし、
昭和58年には国の伝統的工芸品の指定を受けました。
現在でも、上野焼を振興させようとする取り組みが
多く行われています。
「上野焼陶芸館」には
上野焼協同組合の窯元の作品が揃えられ、
それぞれの個性を楽しめるギャラリー的なレイアウトが注目です。
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毎年は春と秋に開催される「上野焼陶器まつり」は、
多くの人出で賑わいます。
「Agano La mue」は、
( ア ガ ノ ・ ラ ミ ュ )
福岡を中心とした一流シェフ集団「博多ミラベル21」との
コラボレーション開発で生み出された、
「上野焼」の新たなブランドラインです。