「南部鉄器」は
「岩手県盛岡市」と「奥州市水沢区」で生産されている鉄器の総称で、
岩手を代表する、更に言えば、日本を代表する伝統工芸品の一つです。
今となっては、
「南部鉄器」はひとつの伝統工芸品として知られていますが、
「南部鉄器」には、盛岡と水沢という「二大産地」があること、
そしてその二大産地の起源や特色はそれぞれ異なっていることを知ると、
「南部鉄器」が辿ってきた年月や物語にロマンや面白さを感じます。
岩手において、鋳造が始まり発展した大前提として、
当地が鋳造に最適な地であったことが挙げられます。
そのひとつは、
鋳型(鉄器の型)の製作に必要な材料である砂や粘土が、
岩手県から宮城県にかけて流れる北上川より豊富に採れることです。
更に近くの山々には、
鉄を溶かす際の燃料である木材が豊富にあったことも
鋳造の産地になりえた要因のひとつです。
また、北上川の存在は、
船での運搬という大きな役割も担っていました。
こう言ったことから、
暮らしの道具である鍋・釜はもちろん、
仏具、茶器、灯籠、時には大砲といった様々な鋳物が、
各時代の鋳物師達によってつくり出され、
その時代時代の社会や人々の生活を形づくっていきました。
前述した通り、続いて一口に「南部鉄器」と言っても、
岩手県には二つの大きな産地(盛岡市・水沢地区)があり、
その起源と特色には、様々な違いがあります。
二大産地の一つは、
県庁所在地である盛岡市の「盛岡の鋳物」で、
もう一つは、奥州市水沢地域の「水沢の鋳物」です。
「盛岡の鋳物」の特徴は、
茶道具や美術的要素が強いということです。
その起源は、江戸時代、
南部藩による盛岡城築城の頃が始まりとされています。
3代藩主の時代に、茶道の興隆のため京の釜師が登用された他、
その後も京や甲州(現在の山梨県)から職人が重用され、
藩のお抱え鋳物師として南部藩の文化の発展に大きく寄与し、
「盛岡の鋳物」は、
茶道具や贈答品としてより洗練され、芸術性の高く、
南部藩にとって自慢の重要な品として発展しました。
また、9代藩主・利雄の時代、
お抱え鋳物師の一つである小泉家3代仁左衛門が、
現在の「南部鉄瓶」の原型である鉄瓶を初めて作ったとされています 。
一方の「水沢の鋳物」(かつては田茂山鋳物)の起源は、
平安時代末期にまで遡ります。
世界遺産「中尊寺金色堂」などを擁する
平泉の繁栄に大きく貢献した藤原氏が、
近江(現在の滋賀県)より鋳物師(鋳物職人)を招いたことが
始まりとされています。
当初は、藤原氏の住居があった豊田館(現在の江刺岩谷堂)で
鋳造が行われていましたが、
その後水沢羽田町へと次第に南下しました。
「水沢の鋳物」は生活必需品である鍋や釜が多く作られ、
主に民衆向けとして発展しました。
藤原氏の滅亡直後は鋳物師は各地に離散しますが、
羽田町に残った一部の鋳物師は半農半工の生活を始めます。
江戸時代には、 伊達藩によって鋳造の統制と保護が図られ、
権力者の庇護の下で、その衰退を逃れました。
時代は流れ、
戦争や生活様式の変化、高性能な製品の流行によって、
度重なる衰退の危機を経験した水沢と盛岡の鋳物業ですが、
昭和34(1959)年に両地域の鋳物組合が共同で
「岩手県南部鉄器協同組合連合会」を設立、
「南部鉄器」という現在の名称に正式に統一します。
「南部鉄器」の「南部」は元々、
かつて盛岡の藩主であった南部藩の「南部」を由来としており、
水沢は、岩手の「南部」に位置するという地理的要素から
「南部」という名称に統一されました。
そうして昭和50年、「南部鉄器」は
国の伝統的工芸品として第一次で指定されました。