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秋田県・銀線細工


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「秋田銀線細工」とは、秋田県指定の伝統的工芸品であり、
秋田市指定無形文化財にも指定されている金属工芸の伝統技法です。
線径0.2~0.3mmの純銀線2本をより合わせた「より線」で
唐草や渦巻き状のパーツを作り、
それを銀枠にはめ込み、ロウ付けをして造形しています。
ブローチやペンダントなどの洋装アクセサリーなどが多く製作されてきます。
 
 

1.久保田藩による鉱山開発

 
秋田には、昔から良質な銀を産出する鉱脈が
いくつかありました。
秋田藩初代・佐竹義宣(さたけ よしのぶ)
慶長(1602)7年に常陸国から移封して来ると、
常陸にいた頃の鉱山支配の経験を生かし、
「院内銀山」(いんないぎんざん)など
次々と鉱山の開発を行っていきました。
その結果、日本有数の鉱山を有するに至り、
鉱業が大いに発展。
豊富な金銀が供出されました。
 

 
久保田藩領の代表的な鉱山としては、
南部の「院内銀山いんないぎんざん」(湯沢市)と
北部の「阿仁鉱山あにこうざん」(北秋田市)が挙げられます。
 

 

 
 
院内銀山(いんないぎんざん)

 
慶長11(1606)年に村山宗兵衛(むらやまそうべえ)らにより発見され、
国内随一の産出量を誇り、「東洋一の銀山」と呼ばれました。
1617年にローマで作成された地図にもその名が記されている。
江戸時代の中期に、鉱脈の枯渇により一時衰退の兆しを見せましたが、
幕末近い19世紀に新鉱脈が発見され、
1830年頃から再び銀の産出量が増大しました。
城下町・久保田は、「出羽の都」と呼ばれるほどの繁栄を誇りました。
 

 
 
明治時代になると、官営鉱山となり、
明治14(1881)年)9月21日には明治天皇が御巡幸されています。
その後、鉱山王・古河市兵衛に払い下げられ、
古河は他にも「阿仁鉱山」など、
東北地方を中心に多くの鉱山の経営を行い、
その利益を元手に日本最大の鉱山であった「足尾銅山」を買収、
古河財閥を作り上げました。
 
しかし、明治末期に、国際情勢の変化により
銀が暴落したため採算が悪化。
大正年間に規模を大規模に縮小、大正9(1920)年)には一時閉鎖。
その後も細々と採掘を続けていたものの、
昭和29(1954)年に閉山しました。
 
現在、JR院内駅に隣接して、院内銀山の様子を今に伝える資料館
院内銀山異人館」があります。
また、明治天皇が御巡幸された9月21日は院内地域では「鉱山記念日」とされ、
院内銀山を舞台とした「院内銀山まつり」が行われています。
 
 
阿仁鉱山(あにこうざん)

 
「阿仁鉱山」は延慶2(1309)年に「金山」として開発され、
その後、「銀」や「銅」を産出するようになり、
17世紀後半から18世紀初頭にかけて
「銅」や「鉛」の産出量は最盛期を迎えます。
阿仁の「銅」は、
貨幣原料や長崎の出島から海外への輸出品として重要視され、
多い時には、幕府御用銅のおよそ5割が阿仁鉱山から産出されました。
享保元(1716)年には産銅日本一となり、
「別子銅山」「尾去沢鉱山」と共に
「日本三大銅山」のひとつに数えられました。
 

 
「阿仁鉱山」は、
「小沢」「真木沢」「三枚」「一の又」「二の又」「萱草」の6銅山(六ヶ山)と
向山金銀山、太良鉱山、加護山製錬所から成っています。
 
「阿仁鉱山」も明治18(1885)年には古河市兵衛氏に払い下げられ、
近年まで産出を続けましたが、
昭和62(1987)年、資源の枯渇により休山となりました。
 
なお「阿仁銅山跡」は、秋田県の阿仁銅山関連遺産として、
経済産業省の「近代化産業遺産(東北鉱山)」に登録されています。
 

 
 
また、「旧阿仁鉱山外国人官舎(あにこうざんがいこくじんかんしゃ)は、
明治時代に生産増強のために招き入れられた
アドルフ・メッケルらドイツ人鉱山技師の宿舎になった建物で、
メッケルらの離任後は迎賓館として利用されました。
平成2(1990)年、「国重要文化財」に指定されました。
 

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2.「秋田銀線細工」の歴史

 
一方、久保田城下では、
院内・阿仁などの銀山から産出する良質な金・銀を使用して、
移封時に藩主・佐竹義宣に従ってきた金銀細工師(白金師)により、
主に武家向けに刀装具や装身具などの細工物の製作が盛んに行われました。
 
 
 
「銀線細工」は、戦前までは、金の細工物、鍛金、彫金なども含め
「金銀細工」と呼ばれていた技法のひとつでした。
日本に「金銀細工」の技法が伝わった経路には諸説ありますが、
江戸時代、当時貿易港だった長崎県の平戸に
オランダ人がその手法を伝えたことから始まったと言われています。
当時の江戸では、産地である平戸に由来して
「平戸細工」と呼ばれていました。
 
 
江戸から秋田への伝来経路も諸説ありますが、
秋田藩と平戸藩の江戸屋敷が近かく親交があったためと推測されています。
秋田では、昭和初期の頃から「銀線細工」と呼ばれるようになりましたが、
今でも、渦巻き状のパーツのことを「ヒラト」と呼んでいます。
 
 
庄内の鈴木重吉(正阿弥伝兵衛)が
江戸の名工・武州正阿弥流・正阿弥吉長の弟子となり、
後に、出羽久保田藩の第3代藩主・佐竹義処(さたけ よしずみ)
鐔工(つばこう)として召し抱えられ、
久保田城下で武具等の金銀細工を製作すると共に指導に当たり、
多くの名工を輩出し、秋田金工の基盤を築きました。
 
 
 
明治9(1876)年に「廃刀令」により
武士階級の需要がなくなり金工が廃れた一方で、
装身具などの庶民需要が生じ、
錺職(かざりしょく)により
「銀線細工」が盛んに造られるようになりました。
 
その豊富な鉱物資源を背景に新しい時代の産業化が図られる中で、
更に商品価値を高める機運が高まり、
金銀細工・彫金・意匠などの専門家が招聘されて、
銀板を土台にした「平戸細工」から更に発展した、
新たな技法とデザイン性が加わり生まれたのが、
「秋田銀線細工」です。
 
盛んに作られるようになったのは、
明治38(1905)年の日露戦争以降。
昭和時代には戦争により一時中断されますが、
戦後間もなくして、高坂水雄(選択無形文化財・現代の名工)が
日展に二回連続で入選したことで、
「秋田に“平戸”を凌ぐ銀線細工あり」と全国に知られるようになり、
「銀線細工」ブームが到来しました。
 
また戦前は、金銀で作られた細工物は
同一業者が銀線細工だけでなく、
金や銀の鍛金・彫金製品を作っていたことから、
全て「金銀細工」と総称で呼ばれていましたが、
「線条細工」を「銀線細工」と呼んで区別するようになりました。
 
昭和30(1955)年には、国の文化財保護審議会で
「記録作成等の措置を講ずるべき無形文化財」(選択無形文化財)に選択され、
伊藤徳太郎、高坂水雄が対象となりました。
平成8年(1996)2月26日、
「秋田銀線部会」が「秋田県伝統的工芸品」に指定。
同年3月11日には、秋田銀線細工の技術保存と後継者育成、
地場産業振興に努める「秋田銀線細工技術伝承保存会」が
「秋田市指定無形文化財」に指定されました。
 
秋田銀線部会
  • (株)竹谷本店
  • (株)細川貴金属店
  • 金銀線工房しんどう
  • 和田貴金属店
  • (有)伊藤貴金属店
  • 銀線細工すとう
  • 篠田宝飾
  • 豊島宝飾
秋田銀線細工技術伝承保存会
  • 細川 久之助 氏
  • 須藤 至 氏
  • 進藤 春雄 氏
  • 阿部 武 氏
  • 熊谷 雪雄 氏
 
 
 

3.「秋田銀線細工」


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「秋田銀線細工」は、
細い銀線を加工しながら様々な形を作り上げ、
繊細な世界を表現する伝統工芸です。
ほぼ全ての工程を手作業でで作られていて、
この技術を習得するには10年かかると言われます。
 
 

製作工程

地金について
1.材料

 
世界各地で「銀線細工(フィリグリー・filigree)」製品は
作られていますが、
多くの場合は純度92.5%の925銀が使われています。
「秋田銀線細工」では、素材として「純銀」を用いています。
「銀」は、金に次いで展性・延性に富み、
科学的にも安定した材料であり、
加工しやすく魅力に富んでいます。
より細部にこだわった繊細な細工が可能になり、
「純銀」独特の色や光沢を持つ仕上がりになります。
 
2.地金吹き(熔解)
「純銀」の材料を作ることを「地金吹き」と言います。
(計量しやすい小粒の銀を用いる場合は「笹吹き」という)
るつぼの中で地金が溶けて表面張力で丸みをもってきたら、
硼砂(ほうしゃ)を少し入れて、
溶解した金属の中にある不純物を
硼砂とともに黒鉛棒の先で取り除き、
手早く立て、アケ型に注ぎ込み板状の地金にします。
 
3.鎚延べ
出来た「地金」は鋳造した鋳物と同じ状態であり、
締まりがありません。
最初から圧延ロールで延ばしたり、金槌で延ばしたりすると、
地金が割れたり角にひびが入ったりするので、
金鋸で木口を叩き、次に平らな部分を叩いて
「地金」が締まったところでなましで延ばします。
 
4.圧延
「地金」を圧延ロール機にかけ、
必要寸法の厚さまで圧延加工を行います。
 

 
加工工程
銀線細工の製作は,銀の延べ板より銀線を作ることから始まりますが、
現在はコストの面から出来上がりの銀線を地金問屋より仕入れています。
 
作業工程は、
 ① 銀線 → ② 銀線撚り作業 → ③ ロールかけ →
 ④ 外枠作り → ⑤ 平戸巻き → ⑥ 平戸のはめ込み →
 ⑦ 鑞付け → ⑧ 寄せ合わせ → ⑨ 色上げ → ⑩ 仕上げ
の順で行われます。
 
まず、径 0.2㎜~0.3㎜の細い銀線を2~3本を撚り合わせて
縄状の細い撚り線にします。
これをロールで叩いて平らにすると線の両脇が波状形になります。
次に径 0.5㎜~1.0㎜の銀線で外枠を作り、
ピンセットや指先で渦巻き状に巻いた「平戸」(ひらど)を嵌め込み、
鑞付け(ろうづけ)をして一つのパーツを作ります。
パーツ一枚一枚を寄せ合わせて
草花や動物などを立体的に形作っていきます。
製作後は、不純物を希硫酸で洗い落として色上げを行って
完成です。
 
この工程を重ねて出来た作品は白い輝きを放ち、
江戸時代から明治・大正時代にかけては、緒締、根付、花嫁かんざし、
昭和に入ってからはブローチや宝石箱などが作られてきました。
現在は宝飾品がメインに作られており、
花や唐草をモチーフにしたネックレス、ピアス、リング、ブローチなどが
人気です。