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秀衡塗

「秀衡塗」は、
平安時代末期に、当時奥州平泉を治めていた藤原秀衡が、
京より招いた職人に
地元原産の漆と金をふんだんに使った器を造らせたのが
起源とされています。
平泉の黄金文化を象徴するもののひとつで、
「源氏雲」に「有職菱文」を配した意匠と
色漆を使って描かれる重厚な漆絵は伝統美に溢れています。

 
 

秀衡塗の歴史


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岩手県の代表の漆器の一つ、
「秀衡塗」は平安時代に誕生したと言われています。
 
奥州藤原氏三代目当主の藤原秀衡が
金色堂造営のために、
京都から招いた工人達によって作られた豪華絢爛の金色の椀に
栄華を誇っていた奥州藤原氏が加飾の技術を発展させて
「秀衡椀」が生まれたと伝えられています。
 

 
現在では発掘作業も進み、
時代は定かではありませんが工房の跡も確認されています。
いずれにしても、藤原秀衡の名前をとった「秀衡塗」は、
藤原氏と何らかの所縁があるのではないかという説が有力です。
 
奥州藤原氏が滅んでから
数百年間の歴史は未だ定かではありませんが、
地元の人々には「秀衡椀(古代秀衡碗)」と呼ばれて、
平泉の近隣地域の大農家に少し高価な日常品として伝わっていたようです。
 
現存する最古の「秀衡椀」としては
16世紀安土桃山時代の品が見つかっており、
江戸時代までの品が現存しています。
 
江戸末期・明治初期には、
豊富な木材があり、
古くから木工が盛んであった衣川村の増澤地区において、
「木地師」「塗師」「蒔絵師」「問屋」と漆器製造の分業体制を確立し、
「増澤漆器」が発展しました。
これは加飾のない無地の椀やお膳が製造・販売の主流でした。
しかしその影響により、
「古代秀衡椀」の装飾技術は途絶えてしまいます。
 
 
昭和11(1936)年、翁知屋2代目・佐々木誠が
「金箔はり技術」を独自の工夫で開発し、
「古代秀衡椀」を見事に再現・復活させ、
日本橋・高島屋で発表して、好評を得ました。
 
その展示を見た民芸運動家・柳宗悦が
昭和13(1935)年に「秀衡椀」の調査を行い、
「秀衡椀」の特徴である
金箔や文様を取り入れた「秀衡塗」が復元され、
広く作られるようになりました。
 
一方「増澤漆器」は、昭和30(1955)年の衣川ダム建設に伴い、
増沢塗職人が平泉町の周辺に散在してしまいました。
 
 
現在でも、昔ながらの工程で、
職人一人ひとりの手で作られている「秀衡塗」は
歴史的にも価値のあるものとして認められ、
昭和60年に「伝統的工芸品」に指定されました。
 

 
 

秀衡塗の特徴

「秀衡塗」には、
最も堅牢と言われる「本堅地下地」を用い、
加飾には当時に伝わる時代椀である「秀衡椀」を模範に、
この地方は漆と金の特産の地でもあったことから、
金箔を使い、蒔絵(まきえ)でデザイン化した草花を描かれています。
 
中でもよく描かれるのが、
平安時代を思わせる「源氏雲」(げんじぐも)
菱形を組み合わせた「有職文様」(ゆうそくもんよう)です。
また、合わせて植物などの自然のものも描かれることがあります。

ちょっと見ると、
金箔を使ったとても華やかなデザインに見えますが、
実際に手に取ってみると、
光沢を抑えた仕上げが施されているので、
漆本来の美しい艶を味わうことが出来ます。

またふっくらと手に馴染み、雅趣に富む形体は、
現代の生活にも調和して使う人の心を和ませるものがあります。