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熊本県「天草陶磁器」

 
 

世界に誇る「天草陶石」

 
「天草陶石」と呼ばれる熊本県天草産の陶石は、
単体で磁器を作れる世界でも珍しい高級原料です。
江戸期を代表する才人・平賀源内が「天下無双品」と絶賛するほど、
「天草陶石」で作られた磁器は
濁りがなく、透明感のある美しさが特徴です。
 
この優れた陶石は、
「有田焼」「波佐見焼」「清水焼」などの「磁器原料」として
年間出荷量約三万t(2003年度)、
全国の陶石生産量の八割を占めています。
 

 
また電気的絶縁性も優れており、
「高圧碍子」(こうあつがいし)の原料として
日本の電力普及に大きく貢献しています。
国内の他に台湾や韓国などに輸出もされています。

 
天草陶石の発見

 
この高品位の陶石である「天草陶石」の発見は、
17世紀中頃から18世紀初頭のことと言われています。
そして元禄の頃から「砥石」として売り出されました。
 

 
ところで鍋島藩では、
朝鮮出兵の際に朝鮮より連れて来られた
陶工・李参平が
有田の泉山で磁器の原料となる磁石「泉山陶石」を発見し、
磁器の生産を始めていました。
 

 
ところがこの「泉山陶石」を
鍋島藩から持ち出すことは不可能であったため、
平戸など近隣の窯業産地が目をつけ用いたのが「天草陶石」です。
正徳2(1712)年頃から「磁器原料」として、
佐賀、長崎方面に供給され、やがて全国へ広まっていきました。
 
白さと可塑性に富む「天草陶石」は
細工物や精緻な絵付けを施す素地として好まれ、
有田でも「天草陶石」を多少でも混ぜるとよいとされるほどでした。
そして天草でも、
宝暦12(1762)年には「高浜焼」が焼かれるようになりました。
 
 
平賀源内の建白書『陶器工夫書』

 
明和8(1771)年、
平賀源内が西国郡代に提出した建白書『陶器工夫書』の中で、
「陶器土、右之土天下無双の上品に御座候」と絶賛しました。
 
この建白書は、
田沼意次の計らいで長崎遊学した折に源内が書いたものです。
建白書の中で平賀源内は、
天草陶石をと評し、
この類い稀な「天下無双の上品」の土を使い、
更に職人を仕込んで、
外国から輸入した陶器を手本にするなどの工夫すれば、
「随分宜焼物出来可仕候(いい焼物が出来ます)」とし、
こうやって外国に負けない良質の陶器を作れば、
日本人が高額な外国陶器を買うこともなく、
むしろ、唐人・阿蘭陀人などがこれを買い求める
「永代の御国益」になると断言し、自らの出資まで申し出ています。
 
 
「天草陶石」鉱床
「天草陶石」鉱床は、
熊本県天草下島西部の海岸線に沿って海岸脈と村山脈、
それらの東方の皿山脈に分布しています。
これらの陶石脈は、中新世中期(1500万年前)、
上部白亜紀層及び古第三紀層中に貫入した流紋岩(石英祖面岩)岩脈が、
熱水変質作用により陶石化したものと考えられています。
 
 
「天草陶石」で作られた製品

 
「天草陶石」は、単体で磁器を作ることが出来る
世界的にも珍しい陶磁器原料です。
掘り出された陶石を粉末にした後、
水でかき混ぜて余分なものを取り除いて
(水簸(すいひ)して)粘土状に調製し、
成形・削りなどの製造工程を経て、
1300度で高温焼成すると「磁器」が完成します。
「天草陶石」で作られた製品は、
それ以外の陶石で作られた磁器製品と比べ、
白さに濁りがなく美しいのが特徴です。
 
特徴
  • 単味で磁器が作れる。
  • 鉄およびチタン含有量が低く、高級白磁原料となる。
  • 粉砕が比較的容易にできる。
  • 岩石・ケイ酸質でありながら可塑性があり、成形性も良好。
  • 若干の鉄分含有により、洋食器に白く、和食器用に適度な青みがつけられる。
  • 強度が高く、硬い製品ができる。
  • チタンの含有量が少ないので、還元焼成した場合「くすみ」がでない。
  • 焼成温度を上げずに透光性が出せる。
  • 耐火度が磁器はい土に近いので、調合に幅がとれる。
「天草陶石 特徴」上田陶石合資会社
 
 

天草陶磁器について

 
天草に産出する世界的な陶磁器原料の「天草陶石」。
「天草陶磁器」は、
その日本一と言われる良質な「天草陶石」を砕き練り合わせ焼いた
透明感のある「磁器」と、
性質の異なる釉薬の二重掛けの技法を用いた「海鼠釉」や「黒釉」の
個性的な「陶器」が多く作られています。
 
 
歴史
元々天草は、天領であったために、
藩の「御用窯」的なものはなく、
87の各村の庄屋達がそれぞれ村民の自活のために、
陶石を売ったり、焼物を焼いたりしていたため、
長い間、他の産地のように
「ブランド」として表舞台に出ることは少なかったようです。
 
天草地方で最も古い焼き物は、
慶長年間(1596~1615)頃の「楠浦焼」と言われ、
朝鮮出兵で連れ帰った朝鮮人に作らせたものと言われています。
 
 
磁器

 
「磁器」は約340年前の延宝4(1676)年には、
内田皿山で磁器が焼かれていることが古文書から分かっています。
また宝暦12(1762)年には、高浜村の庄屋上田家が
肥前の陶工を呼んで磁器を焼き始めていること(高浜焼寿芳窯)が
記録に残されています。
 
 
陶器

 
一方、「陶器」は約250年前の明和2(1765)年に、
本渡村水の平において岡部家が焼き始め(水の平焼)、
更に江戸後期に、金澤家が陶器窯(丸尾焼)を始めました。
 
 
瀬戸焼

 
また19世紀の初め、「瀬戸焼」の再興をかけ加藤民吉は、
瀬戸を出、高浜村の庄屋で窯元でもあった上田宜珍の元で
ロクロ成形の修行を始めます。
その後肥前へ渡り、磁器製造に関わる知識と技術を習得。
そして改めて天草を訪れた民吉は、
上田宣珍により色絵技法について宣珍より口伝を受け、
瀬戸への帰路に着きました。
三年に及ぶ修行を経て瀬戸へ戻った民吉は瀬戸の人達と力を尽くし、
「瀬戸焼の中興の祖」と言われるようになり、
「磁祖」として窯神神社に祀られています。
 
 
現在
平成15(2003)年には「伝統的工芸品」認定を受けました。
現在、「天草陶石」を使用した透明感のある純白の磁器や、
島内の陶土を用いた、
性質の異なる釉薬の二重掛けの技法を用いた赤海鼠の陶器など、
個性的で多様・多彩な陶器が焼かれています。
また自主的な展示会も開催するなど、
全国進出を目指した新しいブランド化への取り組みも活発に行われています。
 

amakusatoujiki.com