MENU

神奈川県「中津箒」

 
日々の生活に彩りをくれるお掃除の道具のひとつ「箒」(ほうき)
原料から全て職人の手で作られている
「中津箒」(なかつほうき)
伝統的な技術を残しながらも
現代の生活に馴染むよう作られています。
 
 

箒の歴史

「箒」(ほうき)は、古くは神聖なものとして考えられていました。
出産を司る「箒神」(ははきがみ)という産神が宿るとされ、
『古事記』には、
「玉箒」や「帚持」(ははきもち)という言葉で表現され、
祭祀用の道具として登場しています。
 
「玉」は人間の霊魂のことで、
「箒持」とは箒を持って葬列に加わる人のことですから、
その時代の箒は祭祀用の道具として使われていたのでしょう。
 
庶民の間では、
「払う・清める」という意味で
妊婦のお腹を撫でて安産を願ったり、
亡くなった人の横に置いたり葬列の先頭で掲げたりして魔を払う、
といったことがなされていたようです。
 
実用的な道具となるのは平安時代で、
宮中で年末の「煤払い」の道具として使われました。
室町時代には、「箒売り」という職業が生まれるほど
広く使われるようになりました。
 
 
江戸時代になると、
「棕櫚箒」と「竹箒」がよく使われていたようです。
棕櫚職人が江戸や大坂に現れ、箒を編み上げていました。
「棕櫚箒」が普及した背景には板間が広まったことがあります。
毛先が柔らかく、しなやかな棕櫚が板間の掃除に適していたからです。
 
 
江戸後期になり、
それまで武家階級にしか普及していなかった
畳が庶民にも広がると、
畳を掃くのに適した「座敷箒」が江戸で生まれました。
「座敷箒」は別名「東箒」(あづまほうき) と言われているように、
関東を中心に急速に広がり、
東(江戸)は「座敷箒」、西(大坂)は「棕櫚箒」が使われました。
 
 
そして、「箒」は農家が農閑期の副業で作っていましたが、
明治以降、都市部の近代化に伴って、
関東地方を中心とする各地に専業の箒製造業者が現れました。
群馬県の川場の「利根沼田の座敷箒」や栃木県の鹿沼の「鹿沼箒」、
埼玉県の上福岡(現:ふじみ野市)の「江戸箒」、
東京都の練馬の「草ぼうき」、
そして神奈川県の愛甲郡中津村(現在の愛川町中津)も
そのひとつでした。
 
 

中津箒

中津の箒作りの歴史は、柳川常右衛門という人物に始まります。
幕末~明治維新の頃、
常右衛門は中津村を飛び出て、諸国を渡り歩き、
箒の製造技術と原料である「ホウキモロコシ」の栽培方法を学び、
故郷に持ち帰ったと言われています。
常右衛門の伝えた箒作りは中津村に広まっていきました。
 
<ホウキモロコシ>
柔らかいけどコシがあり、
畳の目に穂先が食い込んでササッと掃き出しやすい
箒です。
掃くと、材料の持つ油分で畳に艶が出ると言われ、
現在も職人技が受け継がれている
江戸箒、松本箒、中津川箒などの座敷箒は
この草から作られています。
 
大正~昭和初期になると、
箒作りは中津村周辺の一大産業となります。
中津村のほとんどの農家がホウキモロコシを栽培し、
男性は箒を作り、
女性や子供は「アミ」や「トジ」という
仕上げと飾り付けの作業を行って、
多くの人が箒作りに関わっていました。
 
ところが昭和30年代後半になると、
電気掃除機の普及などで生活様式が大きく変わり、
箒産業は衰退しました。
昭和40年代には、
柳川常右衛門から4代目に当たる柳川勇次商店も
廃業に追い込まれました。
 
平成15(2003)年、
柳川常右衛門から6代目に当たる柳川直子さんが
柳川商店の屋号であった「山上」を冠した
新会社「まちづくり山上」を設立し、
「中津箒」を再興しました。
 
 

箒の使い方

座敷箒の基本は、畳の目や板の目に沿って掃くこと。
穂先はなるべく立てて、
時々向きを変えて、押し付けないようにします。
 
畳の縁などは、
縁に沿って箒の穂先を立てるようにしてホコリを掻き出し、
襖や障子の下に固まったホコリは建具を持ち上げるようにして、
穂先を使って、剥すようにして掻き出しましょう。
 
使わない時は吊るしておくことで、
穂先が曲がるのを防ぐことが出来ます。
汚れがついた時は、水洗いして水を払い、
風通しのよい場所に掛けておきます。
穂先にクセがついた時は、
ぬるま湯に浸して形を整え、
日陰干しをすれば、元の姿になります。
 
それでも傷んできたら、
穂先を数mmずつ切って使います。
穂先は根元に行くほどに硬くなるので、
最初は座敷用にし、
使い減りしたら板の間や洗面所、
更に使い減りすれば玄関用、土間用にと、
だんだん下に降ろしていくのが昔ながらの使い方です。