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イッピン・名匠への道「父の背中を追って 栃木・焼き物(小砂焼・みかも焼)」

<番組紹介>
栃木の2つの焼き物を紹介する。
那珂川町小砂(こいさご)地区の「小砂焼」。
そして栃木市の「みかも焼」だ。
父がのこした伝統の灯を消すまいと
奮闘する職人たちの姿に迫る。
 
小砂焼(こいさごやき)の代名詞といえば
黄金色に輝く「金結晶」。
古くから使われてきた釉薬で、
金色の下地に斑点模様が浮かぶ。
創業165年になる窯元の若き7代目は、
東日本大震災で受けた惨状を目の当たりにして
跡を継ぐことを決意した。
一方、歴史が50年ほどの「みかも焼」を受け継ぐのは
2代目。
亡き父が生み出した地元の土を使った作風に、
新しい風合いをもたらした。
その陰には、父が土と格闘した記録が。
 
<初回放送日:令和2(2020)年11月24日 >
 
 
今回のイッピンでは、栃木県の2つの焼き物が紹介されます。
 

1.小砂焼(藤田製陶所・藤田悠平さん)

 
栃木県北東部に位置する那珂川町の山間部にある
小砂(こいさご)地区は、温泉も湧出する緑豊かな里山です。
豊かな広葉樹林が広がっていることから、
昔から炭焼きが盛んに行われ、
特に、断面が菊の花びらのように美しい「菊炭」は、
古くから皇室に献上されていました。
 

 
 
「小砂焼」(こいさやき)
濱田庄司の「益子焼」に隠れて、あまり知られてはいませんが、
奈良時代より須恵器を生産して大和朝廷に納めるなど、
「益子焼」よりも古い焼き物です。
 
《参考》イッピン「彩り自由に みずみずしく!~栃木・益子焼~」

omotedana.hatenablog.com

 
《参考》美の壺「すこやかな芸術品 益子焼」

omotedana.hatenablog.com

 
天保元(1830)年に水戸藩主・徳川斉昭(烈公)の殖産興業政策で
小砂で陶土が発見されたことに由来します。
水戸藩営御用製陶所の原料として使われたのが
「小砂焼」(こいさやき)の始まりです。
 
「小砂焼」は、素朴な中にも上品な色合いを感じさせる焼き物です。
そして、焼き物の表面に金をまぶしたように見えることから
「金結晶」の名で広く知られる釉薬を特徴としています。
 
藤田製陶所」は創業165年の小砂を代表する窯元です。
初代・半平(斎藤栄三郎)は越中富山から来た焼き物職人で、
志鳥村(現那須烏山市)で作陶をしていました。
江戸時代は、陶土を水戸に運んでいましたが、
小砂の庄屋達が水戸に陶土を運ぶのではなくて、
この地で陶器を作ろうと技術者をこの地に呼び寄せました。
初代・半平(斎藤栄三郎)もその一人で、
小砂村の庄屋・藤田家に招かれ、登り窯を築きました。
その後、初代・半平は後に藤田家と親子の契りを結び、
名を改めて土地を譲り受け、窯を移したそうです。
 
6代目・当主の藤田眞一さんは、
大学卒業後、愛知県窯業職業訓練校にて窯業の基礎を学び、
昭和55(1980)年より家業を継ぎました。
優れた陶芸家であり、経営者でもあります。
敷地内にある小砂焼体験センター「陶遊館」やそばカフェ「陶里庵」を
経営しています。
また平成8(1996)年には、
陶芸を核とする地域活性化を目指した組合を設立してます。
 
そんな小砂焼の職人を父に持つ藤田悠平さんは、
普段遣いのカップを作っていますが、
形を均一に揃えることに苦心していました。
 
平成23(2011)年の「東日本大震災」では
小砂地区も大きな被害を受けました。
被災前に6軒あった小砂焼の窯元のうち2軒は廃業を選びました。
藤田製陶所」でも昭和32(1957)年に先代が築いた
れんが造りの「登り窯」が倒壊してしまいました。
悠平さんは小砂焼の歴史が途絶える危機感を覚え、
大学を中退して焼き物の世界に飛び込みました。
 
悠平さんは、金と黒という伝統デザインを一新させた作品を作りました。
新たな作品は灰色がかった釉薬を下地に金結晶を縁で施したものです。
ただ、「本焼き」は窯のクセを熟知していなければならないので、
お父様の眞一さんが担当しています。
今は学びの時で、いずれは全ての工程を自分でこなし、
胸を張れるような功績を残したいとおっしゃっていました。
 
 
 
令和4(2022)年夏、「藤田製陶所」を舞台とした映画
「翼の生えた虎」が公開されました。
 


www.youtube.com

 
  • 住所:〒324-0611
       栃木県那須郡那珂川町小砂2710
  • 電話:0287-93-0703
 
 
 

2.みかも焼

三毳山(みかもやま)周辺では、
1200年前の平安時代から、
下野の国の国分寺や国分尼寺の屋根瓦を焼いていました。
今でも窯の跡が残っています。
第二次大戦前までは、
甕の他に獅子噛火鉢、ほうろく、植木鉢などの
土器の製作が盛んでした。
 
大戦後は、政府による食料増産のための農地拡張政策に伴い、
三毳地方の土器製造メーカーは、
水田用の暗渠土管製作に事業の主力が移り、
「土管の町」として栄えました。
この三毳山(みかもやま)近く、栃木県岩舟町に、
三毳山の麓の粘土で焼いた、
素朴で温かみのある焼き物を作る窯元
「みかも焼小楢窯」があります。
「みかも焼」創始者の川原井文次郎さんは、
大戦前は家業の土器製品製作に従事し、
大戦後は土管を作っていました。
それが昭和46(1971)年、
まだ好調だった土管製作に見切りをつけて、
栃木製陶「みかも焼 小楢窯」を設立し、
食卓で使える焼き物作りへと方針転換しました。
「みかも焼」は、基本的には三毳山周辺で取れる土が使われています。
この土には鉄分が多く含まれているため、焼くと黒っぽくなり、
素朴で温かみのある焼き物に仕上がります。
鉄分には抗菌作用があるので水が腐りにくく、
花瓶などは花が長持ちし、水道水のカルキも抜け、
お酒も浄化されてまろやかになると言われています。
現在、「みかも焼」の創始者・川原井文次郎さんの
御子息・文雄さんが「みかも焼」唯一の職人です。
 
文雄さんは、三毳山周辺で取ってきた土を「原土」とし、
普段は窯の外に山盛りにして寝かせておきます。
時間を置くことで馴染みが良くなるからだそうです。
 
「原土」に混ざった不純物を丁寧に取り除いたら、
ガラスの原料としても使われる「硅砂」(けいしゃ)を加えます。
「原土」だけだとコシがなく、
焼いた時の縮みが大きくなってしまうので、
「珪砂」を混ぜて強度の高い粘土を作ります。
 

 
文雄さんは、
風合いはそのままに、肌合いを滑らかにするために、
父・文次郎さんが遺した記録をもとに、
「珪砂」の配合を調整していきます。
 
「好きにやれるうちは頑張りたい。
 多くの人に使って貰って、喜んで貰いたい」と
おっしゃってました。
 
昭和58(1983)年には、ショールームを新設し、
春と秋の年2回、陶器市を開催しています。
 
  • 住所:〒329-4307
       栃木県栃木市岩舟町静2232-2
  • 電話:0282-55-3939
 

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