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美の壺「食卓を彩る銅」<File 489>

<番組紹介>
どんな料理もおいしくする魔法の道具!
銅の卵焼き器でふわふわに!
 
 ▽フランス料理の厨房や
  料理研究家ムラヨシマサユキさんの
  ジャム作りで活躍する銅鍋
 ▽職人が一枚の銅板から作る
  新潟の鎚起(ついき)銅器・
  炎を閉じ込めた真っ赤な銅のりんご?
 ▽世界を魅了する赤や青の銅器
 ▽半世紀以上、
  銅の調理道具を人生の相棒とする達人たち
 ▽料理家・桧山タミさんと
  東京、下町のどら焼き店の主人
 ▽お酢と塩で磨きこむ!
 
<初回放送日:令和元(2019)年11月8日>
 
 
 
一流の料理人がこよなく愛する銅鍋。
職人が叩いて作る伝統の工芸品。
銅の道具は使う人と共に年を重ね、その人生に寄り添います。
 
 

美の壺1.銅を制する者は料理を制す

 

銅の卵焼き器(福岡県の主婦・弓削香理さん)

 
福岡県にお住いの主婦・弓削香理(ゆげ かおり)さんの
得意料理は「卵焼き」です。
美味しさの秘密は「銅の卵焼き器」。
 
「銅だとやっぱり火力でふわっとこう膨らむというか。
 何か料理してるっていう気持ちに。」
 

 
弓削さんは、お嬢さんが高校生の頃は、
毎日のようにこの「銅の卵焼き器」を使って、
卵焼き入りのお弁当を作りました。
現在、東京に住んでいるお嬢さんですが、
帰って来る度に、この卵焼きをせがむのだそうです。
銅の道具が生み出す母の味です。
 

 
「娘がこれを使って、
 美味しい卵焼きをいつか出来る家族にも作ってもらえたら、
 こんなにうれしいことはないなって思います。」
 
 

(「レストランひらまつ 広尾」料理長・平松大樹さん)

東京・広尾にある名門フランス料理店
レストランひらまつ 広尾」で料理長を務める
平松大樹さんの料理には、銅鍋が欠かせません。
厨房には、大小合わせ100個近くにも及ぶ銅製の鍋が
ズラリと並んでいます。
平松さんに「銅鍋」の特長を教えていただきました。
 
銅鍋の最大の特長は「熱伝導率の良さ」。
熱の伝わりやすさは、ステンレスの何と24倍です。
均等に火が入るので、焼きムラが出来ません。
銅鍋は凄く力強い便利な道具で、
高温で僅か1分火を通すだけで、
外側はプリっと、中はジューシーに焼き上がります。
 

「熱しやすく、冷めやすい」のも銅鍋の特長です。
丸い鉄板の下は火のついたコンロ。
焦げそうになったら、火から外して熱を冷まします。
熱したり冷ましたり、自在に鍋を操りながら
思い通りの料理を作ることが出来ます。
 
  • 住所:〒106-0047
       東京都港区南麻布5-15-13
  • 電話:03-3444-3967
 
 
 

美の壺2.その姿は変幻自在

 

特注の「銅鍋」(料理研究家ムラヨシマサユキさん)

 
東京都内の自宅にてパンとお菓子の教室を主宰する
料理研究家のムラヨシマサユキさんは、
「家で作るからおいしい」をコンセプトに、
シンプルで作りやすいレシピを提案しています。
 


 
ムラヨシさんが旬のフルーツで作るジャムには定評があります。
これからの季節、おススメは「りんご」。

 
使うのは 、勿論「銅鍋」です。
りんごの実とグラニュー糖、皮を煮詰めて、
取り出した赤い汁を入れたら強火にかけたら、出来上がり!
僅か5分で、ジャムが出来上がりました。
 
「長く煮れば煮るほど、
 香りが飛んでいって、色みもくすみがちなります。」
 

 
ジャムはじっくり時間をかけて煮込むよりも
短時間で煮詰めた方が、
フルーツの新鮮な香りや風味がギュっと詰まった
美味しいジャムに仕上げることが出来ます。
そこで役に立つのが、強火調理に適した熱伝導性の高い
「銅鍋」なんです。 
 
理想のジャムを追求するあまり、
ムラヨシさんは特注で鍋を作ってしまいました。
 

 
「鍋の厚さはどこも全て同じ厚さ(1.5㎜)で、
 地厚であること。」
銅鍋は熱の通りが良いので、
底からだけでなく、鍋全体で物を煮込みます。
そのため、仕上がりにムラが出来ません。
 
またムラヨシさんは、鍋の底の部分を緩やかにカーブさせ、
ジャム液がスムーズに対流するように作りました。
 
「銅」という金属の特性もフルに使います。
酸味を含むフルーツは、銅鍋で煮ると色落ちしません。
銅から溶け出た「銅イオン」が、色止め効果を生むと言われています。
ムラヨシさんの色鮮やかなジャムは、この鍋があってこそなんです。
 
 

燕鎚起銅器

玉川堂


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新潟県のほぼ中心「県央地区」に位置する燕市は
今や世界的にも有名な金属加工の町です。
中でも「銅」は、古くからの伝統を誇ります。
 
新潟県弥彦村にある鎚起工房「玉川堂 (ぎょくせんどう) は、
文化13(1816)年の創業以来、
この地で「鎚起銅器」(ついきどうき)と呼ばれる伝統工芸品を、
200年以上作り続けている老舗工房です。
平成22(2010)年には、玉川堂5代目次男・玉川宣夫さんが、
人間国宝(重要無形文化財保持者)に定められています。
 
「燕鎚起銅器」(つばめついきどうき)とは、
1枚の銅板を鎚 (つち) で打ち延ばしたり絞ったりして形を作る銅器。江戸時代に銅山が活況となった燕一帯に起こった産業で、昭和56(1981)年に「伝統的工芸品」の指定を受けました。
 


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燕市の西北に位置する霊山・弥彦山では、
江戸中期、開発された間瀬銅山から
美しい緋色をした良質な銅が採掘されました。
そこに仙台生まれの藤七という人物が燕にやって来て、
1枚の銅板を鎚で叩いて継ぎ目なく作る「鎚起銅器」の技術を伝え、
釜、やかんなどの生活道具を作るようになりました。
 
藤七の複数いたとされる継承者のうち、
初代・玉川覚兵衛が「也寛屋覚兵衛(玉川堂)」を開業し、
鍋、釜、薬缶など日常雑器の製作を開始しました。
二代目・玉川覚次郎の代に入ると美術工芸品的要素が加わり、
明治6(1873)年に、日本が初めて参加した
「ウィーン万国博覧会」に出展すると、
美術品として、一役、脚光を浴びるようになります。
 

 
その装飾性にも増して、世界を驚かせたのは「銅の色」でした。
欧米では、「銅の色」を変化させる技術は
ほとんど知られていなかったのです。
燕の職人達は、様々な方法で銅の色を引き出しています。
同じ用途の作品であっても
工房や職人毎に色合いに特色が現れるのだそうです。
 
玉川堂 (ぎょくせんどう) では、代々継承されてきた色があります。
夕焼けを思わせる鮮やかな紅葉色の「宣徳色」(せんとくいろ)
紫がかった黄金色の「紫金色」(しきんしょく)
ほのかに桃色で上品な「銀色」などです。
更に、「燕鎚起銅器」は使い込むほどに艶を増し、
その人だけの古色へと変化していきます。
 
 
清雅堂オリジナルの伝統色「青藍色」(「清雅堂」鎚起作家・西片亮太さん)

 
昭和20(1945)年に創業した鎚起銅器工房「清雅堂」には、
創業当初から現在でも変わらず受け継がれている
伝統色があります。
独自の加工技術で生み出す「青藍色」(せいらんしょく)です。
 

 
現在は、3代目となる西片亮太さんは、
弟・浩さんと兄弟2人で家業を継ぎ、
昔からの伝統を大切にしながらも、
常に新たなものづくりに挑戦しています。
 
上品に輝く深みのある青色は、
硫黄を溶かした溶液に銅器を浸けることで
銅の錆を誘発させて色を出しています。
湿度や温度によって発色具合が変わるため、
その日の天候や気温に合わせて微調整するという職人技です。
 
これを丹念に磨いていきます。
磨き方次第で、発色が変わってくると言います。
磨き込んだ器を更に硫酸銅と緑青を溶かした液に浸けると、
だんだんと色が変わり、
現れたのは、紫を帯びた青「青藍色」(せいらんしょく)です。
光の加減で変化する青い色合い。
鎚目が際立り、器に表情が生まれています。
 

 
鮮やかな青を引き出す技は、西片さんの祖父で、
清雅堂」を創業した初代・西片巳則さんが開発しました。
 
「海外に行っても、とても珍しがられる色なので、
 これからもこの色を受け継いで、
 いい作品に仕上げていければと思います。」
 
赤の濃淡が神秘的でインパクトがある
清雅堂オリジナルの発色「紅/茜色」(べに/あかねいろ)

 
銅と錫の合金から生み出されたのは、
艶やかな「黄金色」(こがねいろ)

 
夕焼けを思わせる「宣徳色」(せんとくしょく)
長く使ううちに、渋みのある茶褐色に育つといいます。

 
職人の手が生み出す色のニュアンス。
使い手のもとで 味わいを深めていきます。
 

www.seigado.net

 
 

美の壺3.人生に寄り添う相棒

 

どら焼きを焼く「銅鑼」(日本橋浜町「茂ち月」の菓子職人・望月孝泰さん)

 
東京の日本橋浜町に昭和の面影を残す一軒家があります。
こちら、実は和菓子屋さんです。
「茂ち月」(もちづき)といいます。
「茂ち月」の店頭には、和菓子屋をイメージさせる暖簾や幟はなく、
ガラス戸に「どら焼き」と書かれた紙が1枚、
内側から貼ってあるだけです。
 
こちら、「茂ち月」(もちづき)では、
和菓子作りから販売まで、
ご主人の望月孝泰さんがお一人でやっています。
 
玄関を入ると正面にショーケースがあります。
「栗饅頭」に、その場で餡を挟んでくれる「最中」の他、
季節商品が並んでいますが、
こちらの名物は何といっても、
望月さんが一枚一枚手焼きした超大判の「どら焼き」です。
その大きさは直径約10.5㎝、重さ150g強、
皮が大きくて食べ応えがあり、外はこんがり、中は ふっくら。
素朴ながら感動的な美味しさです。
こだわりを持って作られた自慢の逸品です。
 
店主の望月孝泰さんは、1日80個のみ、丹精込めて作っています。
売れ切れたらおしまいです。
まず、長年使ってきた銅板に油を引きます。
「どら焼き」の名前の由来は「銅鑼」(どら)です。
武蔵坊弁慶が銅鑼の上で小麦粉を焼き、
それであんこを包んで振舞ったからという言い伝えがあります。
 
望月さんの銅板は使い込まれ、黒光りしています。
戦後すぐ、お父様がこの店を始めた時に購入したもので、
もう70年以上、現役です。
 
「他のものに変えようとか、
 今はステンレスみたいのが流行っているから、
 そうしちゃうのがいいのかと思ったりすることも
 ないんでもないけども・・・。」
 
今日も80個、明日も80個。
黒い銅板と望月さんの二人三脚は続きます。
 
茂ち月
  • 住所:〒103-0007
       東京都中央区日本橋浜町2-52-5
  • 電話:03-3666-59

 
 

料理家・桧山タミさんの銅鍋


www.youtube.com

 
 
料理研究家・桧山タミさん93歳(放映当時)。
タミさんのキッチンには、
50年以上も使ってきた銅の鍋や調理道具がズラリと並んでいます。
使い込まれたタミさんの道具はいつも、きれいに磨かれています。
 

 
「少しずつ、火の通りの悪いもんから入れてって。」
煮物は、煮汁が回りやすいので、底の丸い鍋を使います。
 

卵白を泡立てる時は、深めのボウルを使います。
銅イオンの効果で、
滑らかで、きめ細かい仕上がりになるそうです。
 

 
子供の頃から食べ物に並々ならぬ関心のあったタミさんは、
博多の女学校を卒業後の17歳の時に
母の導きで料理研究家の草分け的存在の江上トミ先生を知り、
花嫁修業として「江上料理研究会」の門下生となりました。
タミさんと銅の道具との出会いは、
江上先生が昭和の初めにフランスで手に入れた銅鍋でした。
 
 
昭和30年代、タミさんは江上先生から「銅の鍋」をいただきました。
「その頃、江上先生は東京で教えてらしてました。
 そこによく行ったんです。
 『あなたがよく来るからね。』
 『いいんですか?』って言って、もらって帰ってきて。」
 
以来、自分でもコツコツと銅の道具を集め、
気が付けば、台所の棚一杯に。
一つ一つを大切に使い続けてきました。
全ては美味しい料理を振舞うために。
 
「人はね、くたびれてるのも治すことが出来る。
 食べてね、心が落ち着くんですよ。
 あ~、おいしかったって。」
 
タミさんの料理の心は、
お弟子さん達にも受け継がれています。
 
「作るものというの、 技術もそうですけど、
 料理をすることで、
 自分を作ってるということを勉強しましたね。」
 
人から人へ、銅の鍋が繋ぐ、心の温もりです。
 

 
昭和36(1961)年、タミさんは独立して「檜山タミ料理学院」
(その後「桧山タミ料理塾」と名称変更)を開設。
約60年料理教室を主宰し、昔ながらの日本の家庭料理と生活者としての知恵や心掛けを塾生に伝えてきました。
タミさんが何より大切にしているのは、
日本の気候風土に合った食材を食べること。
「身土不二」(しんどふじ)と言って、地元で採れた旬のものを食べることが一番体に良いということです。
 
料理家としての転機となったのは、昭和39(1964)年に、
江上先生について半年かけて海外へ食の視察旅行でした。
世界各地をまわり強く実感したのは、自分の生きる土地に合ったものを食べることの大切さでした。
 
料理教室では、当初は高級西洋料理を教えていましたが、
戦後の高度経済成長の時代に周りの料理関係者が相次いで生活習慣病などを発症したことで、気候風土にあった日本の家庭料理をメインに教えるようになりました。
 
令和2(2020)年にタミさんは、
59年続けてきた「桧山タミ料理塾」を閉じました。
現在は、息子さんと大分の山奥のログハウスで穏やかに
毎日を送られています。

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