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美の壺「縄文 美の1万年」<File 565>

<番組紹介>
縄目文様や、ダイナミックなデザインの「縄文土器」。
岡本太郎が「とてつもない美学」と称した
縄文土器の魅力とは?
 
 ▽今や世界でも人気の「土偶」。
  現代アートも驚きの造形!
 ▽土偶を愛した人間国宝・濱田庄司。
  民藝(みんげい)と 縄文の共通点とは?
 ▽太陽の動きを観測し、数もかぞえた?!
  縄文人の高度な知性
 ▽里山のルーツは縄文!
  縄文人のすごさを伝える森づくり!
 
<初回放送日:令和4(2022)年9月9日(金)>
 
 
 

美の壺1.「描き 盛り上げ 埋めつくす」

 

縄文土器「火焔土器」(馬高縄文館:館長・小熊博史さん)


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令和3(2021)年7月27日、「北海道・北東北の縄文遺跡群」が
世界遺産に登録されました。
 

 

jomon-japan.jp

 
氷河期が終わるとともに、
石器を主な道具としていた旧石器時代は終わりを告げ、
約1万5,000年前に縄文時代が始まりました。
急速に温暖化が進み、
ドングリ類やクリ・クルミが実る豊かな落葉広葉樹の森が広がり、
海面の上昇や降雨によって運ばれた土砂の堆積によって、
魚介類が豊富に生育できる地形や環境が形成されました。
人々は、この環境の下で育まれた森林資源を管理しながら利用し、
食料を安定して確保するとともに、
採集・漁労・狩猟を基盤として、定住を開始しました。
 

 
縄文時代の開始とともに、新たに「土器」が出現しました。
世界で初めて土器を初めて使った人類は、
縄文人だと言われています。
青森県の「大平山元遺跡(おおだいやまもと いせき)からは、
約1万6500年前と、現在世界最古と考えられている土器が
出土しています。
 
世界の他の地域では、
南アジア、西アジア、アフリカでの最古が約9千年前、
ヨーロッパが約8500年前ですから、
これらに比べると、かなり飛び抜けて古いものです。
 

 
「縄文土器」とは、一般的に
「縄を押しつけた複雑な文様のついた土器」のことを
言います。
名前の由来は、大森貝塚を発掘した
米国の動物学者・エドワード・S・モースが
「cord marked pottery」
(縄目をつけられた土器)と記したものを
日本語訳して「縄文土器」と言われるようになりました。
 
 
「縄文土器」の文様は、
世界の先史時代土器の中でも
その多種多様な装飾性の高さがとても特徴的と
言われています。
 

 
縄文時代は、
時代や地域によって特徴が異なる「縄文土器」を基準に
時期が区分されていて、
「草創期」「早期」「前期」「中期」
「後期」「晩期」の6つの時期があります。
 

 
「縄文前期」(7000年~5500年前)には、
煮炊き用の「片口付深鉢型土器」が使われていました。
底が平らなので、
竪穴住居内の炉の近くで使用されていたと思われます。
 
 


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「縄文中期」(5500年~4400年前)になると、
土器の文様や装飾が豊かな大型の土器が使
用されるようになります。
 
昭和11(1936)年、新潟県長岡市にある
国指定史跡「馬高・三十稲葉遺跡
(うまたか・さんじゅういなばいせき)において、
縄文土器の中でも
特に装飾性豊かな土器「火焔型土器」の名称の元となる
火焔土器(かえんどき)が見つかりました。
 
 
この最初に発見された
「火焔土器」(かえんどき)の実物を展示する
馬高縄文館(うまたかじょうもんかん)
館長・小熊博史さんに
火焔土器(かえんどき)の特徴について伺いました。
 
火焔土器(かえんどき)は、
縁にある大きな突起の装飾が
燃え盛る焔(ほのお)のように見えることから、
名付けられた土器です。
渦巻のような文様は、
信濃川流域で「火焔土器」が見つかったこととも
関係しているそうです。
縄文土器は見る人によってイメージが見つかる造形だと、
その魅力を語って下さいました。
 
  • 住所:〒940-2035
       新潟県長岡市関原町1-3060-1
  • 電話:0258-46-0601
 
 

岡本太郎「縄文土器論 四次元との対話」
川崎市岡本太郎美術館:学芸員・片岡香さん)

 
日本を代表する前衛芸術家・岡本太郎は、
フランスで「仏民族学の父」と言われた、
マルセル・モース(Marcel Mauss)の門下で
民族学を修めた民族学者でもあります。
 
昭和4(1929)年、岡本太郎は18歳でパリに渡り、
昭和15(1940)年にパリを離れるまで10年以上に渡り
1930年代のパリで唯一無二の経験を重ねました。
昭和13(1938)年にパリ大学で哲学を学んでいた太郎はミュゼ・ド・ロムを見て衝撃を受けて、
「民族学科」に移籍。マルセル・モースに学び、
一時は筆を折って研究に没頭しました。
そしてこの時の体験が、「芸術は商品ではない」
「芸術は無償、無条件であるべきもの」
「芸術とは全人間的に生きること」という
太郎の芸術観を醸成しました。
 
国内外で旺盛な創作活動を行う傍ら、
東京国立博物館で「縄文土器」に出会った衝撃を
昭和27(1952)年2月に美術雑誌『みづゑ』の中で
「四次元との対話―縄文土器論」として発表。
考古学的な解釈ではなく、縄文土器の造形美、四次元的な空間性、
そして、縄文人の宇宙観を土台とした社会学的、哲学的な解釈し、
考古学資料の「縄文土器」を芸術的価値にまで押し上げました。
 

 
初めて縄文土器を見た岡本は
「いったいこのような反美学的な無意味な
 しかも観るものの意識を根底から救い上げ顛動させる
 とてつもない美学が
 世界の美術史を通じて見られただろうか」と
その印象を語っています。
 

 
川崎市岡本太郎美術館の学芸員・片岡香さんによると、
現実世界では見えない世界、超自然的なものを
縄文時代の暮らしの中で密接に繋がって
「縄文土器」が生まれたと岡本は思っていたのだと
解説していただきました。
 
  • 住所:〒214-0032
       神奈川県川崎市多摩区枡形7-1-5
  • 電話:044-900-9898
 
 

(井戸尻考古館:館長・小松隆史さん)


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日本列島のほぼ中央に位置する
八ケ岳の広大な裾野には、
井戸尻・曽利・藤内・九兵衛尾根・居平・唐渡宮・向原など、
名立たる縄文時代の遺跡が集中し、
「井戸尻遺跡群」を形成しています。
井戸尻考古館(いどじりこうこかん)には、
これら遺跡からの2000点余りの土器や石器といった出土品が
展示されています。
 
「井戸尻考古館」(いどじりこうこかん)
館長を務める小松隆史さんは、
土器の形や文様から
縄文人の思いを解き明かす研究をしています。
 

 
「蛇文人面深鉢」(じゃもんじんめんふかばち)は、
土器の真ん中に蛇を象った文様があります。
「蛇」は脱皮を繰り返す様子から、
「不死」や「生命力」の象徴とされています。
土器に生命力を宿して欲しいという祈りが
込められているそうです。
 
「人面香炉型土器」は、表と裏で形が全く違います。
表側は女神の姿、
裏側はドクロがモチーフとなっていて、
表側には「生」、
裏側には「死」をイメージし、
生と死が背中合わせになっているようです。
人を象った香炉は、特別な儀式の時に火を灯したそうです。
 
縄文時代と現代では、見える景色も違い、
現代人が感じられないようなものも感じて造形にしたと
考えられています。
 
井戸尻考古館
  • 住所:〒399-0101
       長野県諏訪郡富士見町境7053
  • 電話:0266-64-2044
 
 
 

美の壺2.「人形に祈りを込めて」

 

土偶(新潟県立歴史博物館:研究員・宮尾亨さん)

 
「土偶」(どうぐう)は、縄文時代に、
人や人型をした土でこねて作られた素焼きの人形です。
女性を誇張、あるいはデフォルメした像が多いです。
1万年以上前から制作が始まり、2000年前に姿を消しました。
現在までに、2万点近い「土偶」が発見されています。
 

 
 
後・晩期には、従来のものより
より精巧な土偶が作られ、その極致を迎えます。
その中でも「遮光器土偶」(しゃこうきどぐう)は、
人間離れした、まるでゴーグルをかけたような目が
北方民族のイヌイットが
雪中の光除けに着用した「遮光器」に似ていることから、
「遮光器土偶」(しゃこうきどぐう)と呼ばれています。
首元には、装飾や文様が施されています。
 

 
長野県茅野市の「棚畑遺跡(たなばたけいせき)より出土し、
平成7(1995)年に
縄文時代の遺物としては初めて国宝になった
「縄文のビーナス」は、
お腹とお尻は大きく張り出しており、
妊娠をしているような姿から
子孫繁栄や豊穣、自然界に宿る精霊だとも
言われています。
 

 
平成9年6月30日に、
「八戸市風張1遺跡」から出土した
国宝「合掌土偶」は、
座った状態で両腕を膝の上に置き、
正面で手を合わせ指を組み、祈りを捧げたり、
お腹を膨らませ、妊婦を表現しているもの、
蹲踞(そんきょ)姿勢でポーズをとるものもあります。
どの土偶も形が強調されていてユニークですね。
 

 
「新潟県立歴史博物館」の宮尾亨さんによると、
「土偶」が儀式や祀りに使われていたことは
間違いないそうです。
縄文時代の心や当時の人々が
イメージする世界を表現したのだとおっしゃいます。
 

 
  • 住所:〒940-2035
       新潟県長岡市関原町1-2247-2
  • 電話:0258-47-6130
 
 

濱田庄司と土偶(陶芸家・濱田友緒さん)


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栃木県芳賀郡益子町にある
「濱田庄司記念益子参考館」には、
古今東西の生活工芸品が収集・展示してあります。
陶芸家で人間国宝の濱田庄司が、
自らの作陶の参考として
蒐集した品々から受けた恩恵と喜びを、
広く一般の方々と共有し「参考」にして欲しいとの意図で、
自邸の一部を活用し昭和52(1977)年に開館しました。
 
濱田庄司は、
学校教材用の古代土器標本の複製製作を依頼され、
「縄文土器」と「弥生土器」を制作したことがありました。
原型製作を濱田が担当し、
濱田の弟子で、後に人間国宝になる
島岡達三(しまおかたつぞう)
土もみや型取り・型抜きを担当しました。
 
濱田は、制作過程を取材した『毎日グラフ』記者に、
「この土器は教材に使われるんだから、
 迂闊な仕事は出来ない。
 古代土器は古代人の
 無意識の中から生れたと思われる美しさを持ち、
 『日本の民藝』の先祖だ。
 その美しさは今なお、我々の心を打つものがあつて、
 造つていながら真に興味深いものがある。」と
語っています。
 
濱田はその後、縄目が特徴的な、
代表作「飴釉(あめゆう)縄文茶碗」を制作。
また、縄文の遺物の蒐集にも乗り出し、
濱田は、弟子の濱田喜四郎氏より贈られた
青森県外ケ浜町「宇鉄遺跡」(うてついせき)出土の
「遮光器土偶」をこよなく愛しました。
この土偶は、現在でも「濱田庄司記念益子参考館」に
収蔵されています。
 

 
また濱田の傍らで、
縄文土器の制作方法を学んだ島岡達三も、
後に島岡独自の「縄文象嵌」(じょうもんぞうがん)
生み出しました。
 
濱田庄司のお孫さんで陶芸家の
濱田友緒さんによると、
今から何十年前は、
「縄文」は現代に対して
遅れている、野蛮なものという印象でした。
それが濱田庄司が縄文土器と対峙することで
作る人の血となり肉となり、
「民藝」も「縄文」も相通じるものになったと
濱田さんならではの視点で語って下さいました。
 
友緒さんも、国宝の土偶「縄文の女神」の複製を依頼され
制作をしました。
神秘的で生と死を感じながら作ったそうです。
 
  • 住所:〒321-4217
       栃木県芳賀郡益子町益子3388
  • 電話:0285-72-5300
 

 
 

「ネクストマンダラ―大調和」(アーティスト・小松美羽さん)


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小松美羽さんは、日本の風土が生み出すものにこだわり、
信州を拠点に、世界にメッセージを発信する
新進気鋭のアーティストです。
日本の伝統美と現代的美意識を融合した
独自の世界観で注目を集めています。
 

 
小松さんは、子供の頃から縄文文化に親しんでいました。
身近に遺跡もあり、お母様が「土偶」が好きなこともあって、
知らず知らずのうちに
縄文文化を尊敬していることに気付いたそうです。

令和4(2022)春、小松さんは京都の東寺境内の食堂に篭り、
1か月の期間をかけて、
奉納画「ネクストマンダラ―大調和」を制作しました。
真言宗最高法儀と言われる
「後七日御修法」の際に用いられる
「両界曼荼羅図(元禄本)」と同サイズの
およそ縦横各4m二幅一対で描かれ、
儀式の行われる灌頂院の空間構成を再現したものです。
 


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この作品が、奉納前に美術館で個展として発表されました。
祈りや瞑想を感じる神秘的な世界観で圧倒されます。
作品の中には、
動物や土偶のようなモチーフが見受けられます。
小松さんが「神獣」と呼ぶ、
子供の頃から感じ取った
「見えない何か」が紹介されていました。
 
「ネクストマンダラ―大調和」は掛軸として表装後、
令和5(2023)年真言宗立教開宗1200年を記念して
真言宗総本山「東寺(教王護国寺)」に
奉納されることになっています。
 
  • 住所:〒601-8473
       京都府京都市南区九条町1
  • 電話:075-691-3325
 
 
 

美の壺3.「自然に従い共に暮らす」

「」(秋田県鹿角市・大湯ストーンサークル館:木ノ内瞭さん)


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秋田県鹿角市にある
大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)は、
昭和6(1931)年、耕地整理中に
十和田湖噴火の火山灰層の中から発見された、
縄文時代後期(約4000年前)の大規模な遺跡で、
世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」の
ひとつです。
 

 
最大径44mの「野中堂環状列石」(のなかどうかんじょうれっせき)
最大径52mの「万座環状列石」(まんざかんじょうれっせき)
日本最大級の2つの
「ストーンサークル(環状列石)」からなり、
どちらとも内と外に二重の輪を描くように
帯状の組石(環状列石)が配置されているのが特徴です。
 
そしてこのストーンサイクルを構成する
10数個の石を並べた
小さな円形や四角の塊のひとつひとつは
お墓だったようです。
 
「野中堂環状列石」には約2200個、
「万座環状列石」では約5000個の
川原の石が使われています。
その石の6割は、約2~4km離れた大湯川から運ばれてきた
水に濡れると美しい緑色になる
「石英閃緑ヒン岩」(せきえいせんりょくひんがん)
考えられています。
 
 

 
「野中堂環状列石」の
「日時計状組石」(ひどけいじょうくみいし)は、
柱のような立石を中心として
そのまわりに放射状に石を敷き詰め、
東西南北を指した大石が配されています。
 
環状列石周辺からは
「土版」(どばん)が出土されていて、
それにより、縄文人が数の概念を持っていたことも
想像出来ます。
 
 
大湯ストーンサークル」主事の木ノ内瞭さんによると、
2つのストーンサークルの中心と組石を
一直線に結んだ線が
夏至の太陽の日没線とほぼ一致するそうです。
縄文人は季節の節目や移り変わりを感じながら
環状列石を作ったのではと考えられています。
 
2つのストーンサークルのまわりには、
「掘立柱建物」や
食べものを入れておく「貯蔵穴」などが見つかっていて、
すぐ近くで人々が生活していたようです。
 
同時に、土偶やキノコの形をした土製品など、
日常では使わない道具もたくさん見つかりました。
これらは家族が長く幸せでいることを願ったり、
自然への感謝を表したりしていると考えられています。
 
  • 住所:〒018-5421
       秋田県鹿角市十和田大湯字万座45
  • 電話:0186-37-3822
 
 

岩手県二戸郡・御所野縄文博物館
(館長・高田和徳さん/NPO職員・中市日女子さん)


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岩手県二戸郡一戸町にある
御所野遺跡(ごしょのいせき)
縄文時代中期後半(約5000年前から約4200年前)の
住居跡や盛土遺構、配石遺構などが分布しており、
800年間という長期に渡って
人々が定住した集落跡と考えられています。
集落の近くには馬淵川が流れ、御所野ムラの人々は、
その支流や周辺の豊かな森で
狩猟や採集、漁労を中心とした生活を営んでいました。
 

 
御所野遺跡では、竪穴住居が復元されています。
これまで縄文時代の竪穴住居は
茅葺き屋根で復元されていましたが、
こちらの竪穴式の屋根は土で覆われています。
 
館長の高田和徳さんによると、
焼けた竪穴建物跡の調査してみたところ、
「茅」(かや)が1本も確認出来ず、
焼けた木材の上に
焼けた土が載っている状態で見つかったため、
屋根には土が載っていたことが分かりました。
これらの実験や調査を踏まえ、
新たな図面を作成し、竪穴建物を復元しています。
 

 
住居の中へ入ると、
広々とした空間に地面が掘り下げられていました。
礎石を用いず、地面に直接穴を掘って
柱を埋め込んで建てられているので、
「掘立柱建物」(ほったてばしらたてもの・ほりたてばしらたてもの)
呼ばれています。
柱穴の大きさはいずれも
直径が60㎝から80㎝、深さが90㎝から140㎝。
掘った土を屋根へ使ったのだと考えられています。
集落は川沿いの台地に建てられ、
森を里山のように管理していたことも分かりました。
 
今、縄文の里山に近づけるよう試みが進められています。
栗の木の皮を使って屋根を葺き替える作業や
竪穴住居では火を焚いて住居を守っています。
縄文人が使った木に植え替えも行っています。
 
NPO職員の中市日女子さんは、
関わっていく事で縄文の人達の心を知ることが出来たと
語って下さいました。
縄文の暮らしや知恵が1万年を超えて、今に伝わります。
 
  • 住所:〒028-5316
       岩手県二戸郡一戸町岩舘字御所野2
  • 電話:0195-32-2652
 

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