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岐阜県「関の刃物」

 
日本のほぼ中央に位置する岐阜県関市は、
緑溢れる山々に清らかな川、美しい自然環境に恵まれた市です。
 
そんな関市は、鎌倉時代から刀鍛冶の歴史を持ち、
名刀の産地として繁栄してきました。
その卓越した伝統技術は、現代の刀匠や刃物産業に受け継がれ、
今や世界でも有数の刃物の産地として知られており、
「世界三大刃物産地」の一つに数えられています。
 
 

1.歴史

刃物作りの始まり

 

 
関市で刃物作りが行われるになったのは、
今から780年程前の鎌倉時代のことです。
関鍛冶の刀祖とさせる「元重」がこの地を訪れた際に、
刀の原料である良質な「焼刃土」(やきばつち)を発見、
後に移り住み刀剣鍛冶を始めたのがきっかけだと言われています。
 
「焼刃土」(やきばつち)
刀身に「焼き入れ」を行なう際に刀身に薄く塗る、
特別に配合された土のことです。
熱した刀身を水などで冷やす際に急速冷却を促し、
刃に相応しい組織に変態させ、硬化させて折れにくくなり、
刀身に反りが出来ます。
刀身には、焼刃土を塗った形に忠実な形で文様が出来て、
これが「刃文」になります。
 
更に関には、刀作りに必要な炉に使う「松炭」や
長良川と津保川の良質な「水」と
刀鍛冶にとって、理想的な風土条件を備えていたため、
関にはやがて多くの刀匠が集まり、室町時代には刀匠は300人を超え、
彼らは自治機関として「鍛冶座」を結成。
この鍛冶座の中心になったのが「関七流」と呼ばれる流派で、
各流派の頭領はそれぞれ子孫が世襲し、後世に伝えられました。
兼定派・三阿弥派・奈良派・徳永派・得印派・良賢派・室屋派
やがて関の日本刀は「折れず、曲がらず、よく切れる」と言われ、
その名は全国に広まっていきました。
 

 

 
元重翁之碑
関市内にある千手院の境内には、
刀祖・元重を祀る「元重翁之碑」があります。
大正4(1915)年11月13日に、総工費1,035円(当時)、土方久元によって碑文が刻銘され、町の有志を中心に建碑されました。
現在は、(関市内の刃物関係者で構成された「元重保存会」により管理されています。
その碑前で毎年11月8日に「元重翁慰霊祭」(通称「鞴祭りふいごまつり)が行なわれています。
碑前で松割木を積み上げて櫓に組立て、焚き上げます。
その頂端には蜜柑が一つ乗せてあり、焼けたこの蜜柑を食べると、夏病みをしないと言われています。
また、下から燃え上がる際、櫓が倒れず、なお燃え口が良いと家運が繁盛すると言い伝えられています。
なお、一般参列者及び見学者には、「元重保存会」より
餅や蜜柑が配られます。
 
 
武将に愛された関の刀

 

 
「鉄」「水」「松炭」「焼刃土」(やきばつち)
四位一体で使用して鍛造される「関の刀」は、
「折れず、曲がらず、よく切れる」の優れた実用性と
最も美しく洗練された芸術性の高さで、
多くの武将達に愛用されました。
 
関は「五箇伝」と呼ばれる「五大鍛冶流派」のひとつになりました。
この5つの地域に伝わる刀剣・日本刀作りの伝法は、
独特であると同時に、優れた技術を互いに共有し、発展しました。
 
五箇伝
  1. 「大和伝」(奈良県)
  2. 「山城伝」(京都府)
  3. 「備前伝」(岡山県)
  4. 「相州伝」(神奈川県)
  5. 「美濃伝」(岐阜県) ➡「関物」
 
「美濃伝」は現在の岐阜県関市を中心に鍛刀していたので、
「関物」とも呼ばれます。
 

 

 
「関物(美濃伝)」が発展した理由はいくつかありますが、
その第一は「立地」です。
この地方には、美濃国に「明智光秀」、尾張国に「織田信長」、
三河に「徳川家康」などの名武将や家臣が居を構え、
そのほとんどがお得意様となっていました。
 

 

 
第二には「利便性」が挙げられます。
戦国時代、美濃の国は関東と京都の間で数多く起こった戦いの
丁度「通り道」に位置していた一方で、
「山城伝」のように直接戦場になることもありませんでした。
 

 

 
第三は、「実用向き」でよく斬れたためです。
「関物」を有名にしたのは、「関の孫六」で知られる「二代目兼元」です。
兼元は、独特の鍛刀法「四方詰め」(しほうづめ)により
頑強で切れ味鋭いな刀を作ることに成功し、「関物」の名前を広めました。
 

 

 
「四方詰め」(しほうづめ)
原料となる鉄の外側をより硬い鉄で固める鍛錬法のこと。
切れ味がそのままに折れない日本刀を実現しました。
 
 
江戸時代

 
江戸時代に入り「刀剣」の需要が減りましたが、
刃物鍛冶は中世に引き続き盛んで、
包丁やハサミ、カミソリ、鎌など生活に必要な刃物を打つようになり、
商人達との取引が始まりました。
また大名の招請により、全国各地の城下へ移住した刀工も多く、
関伝統の刀技術が全国に広まっていきました。
 

 
明治以降
明治維新後の明治9(1786)年の「廃刀令」後は、
ほとんどの刀鍛冶が刀から包丁やハサミなどの打刃物製造、
農鍛冶への転換が更に進んでいきました。
 

 
明治24(1891)年頃からは
欧米から入ってきた「ポケットナイフ」の量産が始まり、
更に明治42(1909)年には、桑名から技術者を招聘して、
鍛造加工による「調理包丁」の製造にも進出、
第一次世界大戦により海外向けの輸出が拡大しました。
大正7(1918)年には「関打刃物同業組合」が県から認可されています。
 

 
しかし戦後恐慌が起きた大正9(1920)年以降は
関の打刃物の販売は落ち込み、製造業者のいずれも転業移住者が続出、
新潟県燕市の洋食器ナイフ製造の起源は、
この時期に関の刀鍛冶職人10名を招いて製造技術を修得したものですが、
不況による関からの移住も多かったようです。
 

 
この不況時を比較的大規模な製造会社は生き残り、
近代的な製造業に転換を遂げました。
「打刃物」は輸出拡大を実現。
品質の良さから「刀剣産業」は国内生産の大半を担うようになりました。
また従来、替刃を輸入品に依存していた
「安全剃刀」の完全な国産化に成功し、製造販売も軌道に乗せました。
 

 
昭和20(1945)年の敗戦により、
主力商品「軍刀」の需要はなくなりましたが、
昭和22(1947)年頃から
「ポケットナイフ」や「洋食器刃物」の製造に切り替え、
輸出中心に復興が進みました。
昭和30年代の経済成長による生活水準の上昇から
製品の内容も多様化し、需要も増大していきました。
また「ステンレス製替刃」の生産を開始し、
医療用、理美容用刃物製品の開発も進みました。
昭和40年代に入ると輸出向け「ダイバ-ナイフ」の生産が増加し、
輸出拡大に成功、これ以降、
ゾ-リンゲンに並ぶ世界的な刃物産地としての地位を固めていきました。
現在では海外への輸出が4割を占めており、
関の刃物は世界に誇るブランドとして認められています。
 

 
 
現在
しかし急激な円高により、
昭和59(1984)年をピ-クに輸出は減少基調を辿り、
また輸入品の増大もあり、売上は著しく減少しました。
 
しかし、先進のテクノロジーとの融合を指し、
AI(人工知能)やロボットなどを導入した、
高性能の機械化生産を実現しています。
また後継の育成にも余念がなく、
若年層の技術者も多数輩出しています。
 
時代が移り、武器としての役割を終えた今でも、
鍛刀技術のDNAが刻み込まれた関の刃物造りは更に進化し、
関を「世界三大刃物産地」の一つとして知らしめています。
刃物の3S
  • 日本:関市(eki)
  • 英国:シェリールド市(heffield)
  • 独国:ゾーリンゲン市(olingen)
 

 
 
また「地域団体商標制度」において、
関の刃物」は地域ブランドの認可を受けました。

seki-japan.com

 
 

2.「古式日本刀鍛錬」の一般公開

 
鎌倉時代より今に伝わる
関鍛冶の卓越した伝統の技法を受け継ぐ刀匠達による
古式日本刀鍛錬」見ることが出来ます。
火の音、鉄の匂い。
打っては折り、折っては打つ、「トンテンカン」のリズムが心地良く、
火花が舞い散る迫力の光景をご覧になってはいかがですか。
 


www.youtube.com

「刃物のまち」として知られる岐阜県関市で2日、
新春恒例の「関伝古式日本刀鍛錬打ち初め式」が行われ、
刀匠が伝統の技が披露されました。
 
 
令和4年度・古式日本刀鍛錬・研磨外装技術一般公開日程
公開 開催日 時間 定員
一般公開 令和4年4月3日 午前・午後 各回80名
一般公開 令和4年5月1日 午前・午後 各回80名
一般公開 令和4年6月5日 午前・午後 各回80名
一般公開 令和4年7月3日 午前・午後 各回80名
一般公開 令和4年8月7日 午前・午後 各回80名
一般公開 令和4年9月4日 午前・午後 各回80名
刃物まつり 令和4年10月9日 第1部・第2部・第3部 各回80名
刃物まつり 令和4年10月8日 第1部・第2部・第3部 各回80名
一般公開 令和4年11月6日 午前・午後 各回80名
一般公開 令和4年12月4日 午前・午後 各回80名
打ち初め式 令和5年1月2日 午前のみ 各回80名
一般公開 令和5年2月5日 午前・午後 各回80名
一般公開 令和5年3月5日 午前・午後 各回80名
 
 
開催内容
  • 開催場所:関鍛冶伝承館
  • 住  所:〒501-3984 岐阜県関市南春日町9-1
  • 電  話:0575-23-7704
 

www.city.seki.lg.jp