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イッピンスペシャル「しなやかに逞しく 復帰50年・沖縄の工芸 その軌跡」

<番組紹介>
沖縄復帰後の50年は
工芸の世界にも激しい変化をもたらした。
ガラス、焼き物、染物の各分野で
工芸家たちがどんな困難に会い、
それをどう乗り越え、
進化させたかを見る。
今年、復帰から50年の沖縄。
この間、人々の暮らしだけでなく、
沖縄の工芸も大きく変化した。
ガラス工芸は伝統を持たなかったため、
かえって斬新な技法が試みられ、結実する。
独自の染め物・紅型では、
伝統のくびきを脱して、
表現の可能性を広げていく。
また焼き物では、
復帰後、公害という新たな問題の発生で
従来の作陶が不可能になる。
陶芸家たちは生き残りをかけ、
多様な挑戦に乗り出す。
沖縄の工芸、50年の軌跡を追う。
 
<初回放送日:令和4年(2022)年5月14日 >
 
 


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沖縄県が本土に復帰したのは、
昭和47(1972)年5月15日。
令和4(2022)年は本土復帰50周年の年でした。
 
戦争末期、住民の4人に1人が犠牲となった
沖縄は、戦後も日本に戻ることなく、
27年に渡ってアメリカによる占領が
続きました。
 
この激動の時代に見事な発展を遂げたのが
「沖縄の工芸品」でした。
今、私達が目にする「沖縄の工芸品」は、
復帰後、職人達の工夫と努力で
進化を重ねてきたものです。
「琉球ガラス」、「やちむん」、
そして「紅型」、
それぞれが辿った50年の奇跡。
それは沖縄の人々が自分らしさとは何かを
探り続けた時でもありました。
 
 

1.琉球ガラス

 
沖縄はガラス工芸の盛んな場所の一つです。
「琉球ガラス」と呼ばれています。
鮮やかな色彩や気泡による独特な風合いは、
どこか南国沖縄をイメージさせます。
これほどまでに色彩が豊かになったのは、
実は復帰後のことでした。
 

 
「琉球ガラス」は「沖縄の工芸」としては
比較的歴史は浅く、
100年程前に製造が始まったとされています。
明治時代中頃、長崎や大阪から
ガラス職人を招致し、
沖縄での生産が始まりました。
この頃は、ランプのホヤや
漬物・駄菓子を入れるための瓶が
主に作られていました。
 

 
戦争により沖縄は焦土と化し、
ガラス工房もまた壊滅的な被害を受けました。
そして戦後、駐留米軍が使用した
コーラやビールの「廃瓶」を原料として
生産を始めました。
 

 
1950年代の終わり頃になると、
その駐在兵や家族から
ガラス製品の注文が舞い込むようになります。
彼らは米本国で暮らしていたのと
同じような生活をするために、
様々なガラス製品を注文したのです。
 

 
更に「ベトナム戦争」が始まると、
米国と日本を行き来する
駐在兵らから土産物として
ガラス製品の注文が大量に集まるようになり、
「琉球ガラス」に戦時特需が訪れ、
沖縄県内には新しく多くのガラス工房が
設立されました。
 
彼ら向けにガラスを作っていた歴史を背景に、
本来ならば不良品扱いとなる「気泡」や「厚み」もそこから沖縄独自のガラス文化が誕生しました。

そして昭和47(1972)年5月15日。
沖縄が本土に復帰すると、
沖縄には日本全国から観光客が押し寄せ、
青い海や大空、太陽など、
沖縄をイメージした鮮やかな色彩の
「琉球ガラス」をお土産として買い求めました。
 

 
卓越した技能者「現代の名工」となった
上原徳三さんや稲嶺盛吉さんらに牽引されて
巧みな技術、鮮やかな色彩を特徴とする
ガラス作りが花開き、平成10(1998)年には、
「琉球ガラス」は沖縄県の伝統工芸品に
認定されました。
 
 
1.南国らしい鮮やかな色彩のガラス
(「琉球ガラス村」上原徳三さん)


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「琉球ガラス」を代表する職人の一人、
上原徳三(うえはら とくぞう)さんは
昭和42(1967)年に15歳でこの世界に入りました。
 
上原さんは、当時、
米軍の方がよく来てたのを覚えてます。
駐留米軍の軍人の奥様方が
英語で書かれた雑誌を見せて、
「これと同じものを作って欲しい。」
と言うのです。
そんなガラス製品を目にするのは
初めてでした。
職人達は見よう見まねで、
懸命に注文に答えました。
例えば「パンチボールセット」は
ホームパーティで使われるものですが
見事な出来栄えです。
 

 
 
材料となったのは、米軍の兵士達が
飲み捨てていった空き瓶でした。
そのことが基地で話題になり、
カタログが作られて、
米本国からも注文が来るようになりました。
米軍の廃瓶を再利用したガラス製品を、
米軍に売ることで、
沖縄のガラス工芸は成長したのです。
 

 
そこに転機が訪れます。
昭和47(1972)年の本土復帰です。
日本からやって来た観光客が
沖縄らしい土産物を探して、
ガラス製品に注目します。
米軍人から日本の観光客への
顧客の交代です。
 
求めるものも変化しました。
水色、スカイブール、ブルー・・・。
沖縄のイメージ、
海と空というイメージの色。
南国・沖縄のイメージに相応しい、
カラフルなガラス製品でした。
職人達は、今度はその要求に
必死で答えようとします。
 
廃瓶を使うしかなかった以前とは違い、
原料も豊富に入ってくるようになり、
職人達は独自の表現を求めるようになります。
そして、工房ごとに特徴ある色が生み出されるようになりました。
 


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上原徳三さんも、どうしたら斬新な色を
出せるか研究と工夫を重ね、
やがて、赤や青、水色など五つの色を
組み合わせて、鮮やかな色彩を表現することに興味を持つようになります。
38歳の頃、格好の材料を見つけました。
ガラス瓶を粉砕して球状の粒にした
「カレット」です。
 

 
そして、漆芸の「螺鈿細工」の模様を
ガラスで表現した「銀箔螺鈿 模様現出法」という技法を生み出しました。
その独特の技法は、まず銀箔を巻き付けます。
その上に透明なガラスを被せ、
更にその上に数種の色ガラスの
「カレット」を幾重にも重ねます。
試行錯誤を重ねながら上原さんが選んだのは、
赤・青・水色・緑・黄色という、
沖縄を象徴する五つの色でした。
銀色が表わす時の流れの中で
移ろいゆく様を表現したとおっしゃいます。
 
ガラスを熱する時間によって、
浮かび上がる色が大きく異なるなど、
制作過程には難しさが伴いますが、
「思うような作品に仕上がらないこともある。
 今でも勉強を続けている」と
技術向上に余念がありません。
 
 
復帰後、職人達が果敢な挑戦を続けたことが
「琉球ガラス」を発展させたと
清水友理子さんはおっしゃいます。
清水さんは沖縄で現場の職人達を取材し、
この50年の変遷を研究してきました。
 

 
「琉球ガラスは、『琉球』ガラスっていう
 名前があるんですけれども、
 非常に新しい、歴史浅い歴史であるが故に、
 色んな新しいことに挑戦をすることが
 出来ました。
 伝統工芸品とは、
 このようにして作らなければいけないという
 規制や定義っていうのがなかったが故に、
 新しい表現として受け入れられていった
 ところがあると思います。」
 

 
  • 住所:〒901-0345
    沖縄県糸満市福地169
  • 電話:098-997-4784
 
 
2.泡ガラス
(宙吹ガラス工房「虹」
 稲嶺盛吉さん・盛一郎さん)


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職人達が挑んだのは、
「色」の追求だけではありませんでした。
 
廃瓶を原料に作られたガラス製品には、
廃瓶の中の不純物がどうしても入って
しまいます。
当時のカタログにこんな注意書きがあります。
「手作りのため「気泡」がありますが、
 取り除くことはできません」
 
廃瓶を使ったために出来る「泡」を
米国人は大目に見ましたが、
日本人は"出来損ない"だと受け止めました。
そんな評価に猛然と反発した
ガラス作家がいました。
稲嶺盛吉さんです。
 

 
「泡をなくせとは、
 沖縄の戦後を否定することではないか。
 大きな侮辱ですよ。
 今なら『リサイクル』とか
 キレイな言葉がありますが、
 昔は廃瓶は捨てたもので、
 それで物を作ってるという、
 あの呼ばれ方をされていた訳です。」
 
それなら”泡”ガラス製品を作ってみせる、
”泡”だらけのガラスを作って、
みんなに認めさせよう。
そして4年間研究を重ねて生み出したのが
この器です。
まるで茶の湯の茶碗のような重厚な存在感。
しかし当初この器を評価するものは
ほとんどいませんでした。
 

 
稲嶺さんの後継者の長男・盛一郎さんは
当時、父の元を離れて、
別のガラス工房で働いていました。
盛一郎さんは、若い頃、
面と向かって言われた一言が忘れられません。
「お前の親父はアホになってよって、
 正直言われましたね。
 やっぱり自分もやっぱり向こうにいて、
 『泡』は駄目って習ってるから、
 なんでこんなおかしなことを
 してるのかなって、
 もうあの時は思いましたけどね。」
 

 
マイナスに評価されてきた「泡」を
プラスに変えるため、器全体に泡をつけ、
それを見所にするにはどうすればいいのか。
盛吉さんは様々な不純物を敢えて混ぜることにしました。
砂糖に塩、小麦粉、お茶の葉など、
身の回りにあるあらゆるもので試しました。
しかし、そのほとんどが熱でガラスに
溶け込んでしまい、泡にはなりません。
 

 
そんな中で効果を発揮したのは、
「備長炭」と「カレー粉」でした。
周囲の人々が白い目で見ようと
お構いなしでした。
試作を重ね一歩ずつ前進しました。
作品を初めて県外の展覧会に出した時、
その斬新さが注目を集め、
評価が一変することになります。
「琉球ガラスといえば泡ガラス」と
イメージされるほど、一時代を築きました。
 
 
そのことで、他の職人達も「泡」というのは
排除しなきゃいけないものではなくて、
表現の一つとして自分のガラス作りに
取り入れていこうという風に
考えがこう変わってきました。
父親の成し遂げたことの意味を理解した
盛一郎さんも改めて弟子入りして、
必死で泡ガラスの製法を学びました。
 
 


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宙吹ガラス工房「虹」では、
今でも原料は「廃瓶」です。
そこから「泡ガラス」の可能性を
更に広げようとしています。
父が使った「備長炭」と「カレー粉」。
この二つを炉に入れ、互いの効果を高めます。
配合にも工夫を凝らしました。
 
「泡ガラス」を更に進化させるために
注目したのは「廃瓶の色」でした。
 
「泡を付けることでベースとなる
 廃瓶の色が微妙に変化するのです。
 一つの瓶でも、泡を入れることによって、
 7種類とか8種類の色が出せるんです。
 考えたらなんか奥が深いんです。」
 

 
今回使ったのは、
「青」と「緑」の2色の廃瓶です。
完成した花瓶は、青い廃瓶ガラスの上に
焼き物の釉薬のように緑と飴色が流れ、
更に2色が重なるところは
更に深い色合いになっています。
 
「親父が作り上げたものを、
 まずは最後までやりたいなっちゃって。
 自分の人生の中で、
 この『泡ガラス』をずっと追求して、
 もう終わりっていうのは絶対ないと思う。」
 
廃瓶を再利用するところから始まった
「琉球ガラス」。
復帰後、常識に捉われない、
独創的な表現を追求した50年でした。

宙吹ガラス工房「虹」
  • 住所:〒904-0301
    沖縄県中頭郡読谷村座喜味2748
  • 電話:098-958-6448
 
 
≪参考≫ イッピン「優しさを泡に込めて 沖縄・ガラス製品」

omotedana.hatenablog.com

 
 

2.紅型

 
「琉球舞踊」の踊り手が身に纏う染物の衣装「紅型」(びんがた)は、琉球王朝時代には、
王族やごく限られた人だけが、
冊封使の歓待、公式行事や儀式など、
特別な時にだけ袖を通されていた着物でした。
 
正式表記「琉球びんがた」です。
「紅型」という表記は、
「型絵染」の人間国宝であり、
紅型研究第一人者であった
鎌倉芳太郎(かまくらよしたろう)によって
用いられたとされ
昭和初期頃から普及していったようです。
 
 
「紅型」(びんがた)は、
鮮やかな色彩と大胆な柄が特徴です。
「紅」(びん)は「色彩」、
「型」(かた)は「模様」を表すと
言われています。
「紅型」は柄を彫り込んだ型紙を作り、
生地に当てて糊付けし、
その後、鮮やかな顔料で染め上げていきます。
 
その技は、王府の絵図奉行絵師の下で
王府御用を勤めた
沢岻たくし家」「城間しろま家」「知念ちねん家」の
紅型三宗家びんがたさんそうけ」にだけ伝えられてきました。
 
戦争は「紅型」に致命的な打撃を与えました。
宗家が守ってきた型紙や道具の全てが
戦火に焼かれてしまったのです。
 
 
1.城間紅型工房(城間栄喜・栄順・栄市さん)

 
何もないところから、
「紅型」を復活させようとした人がいました。
宗家の一つ、「城間紅型」を守り伝えてきた
14代目・城間栄喜(しろまえいき)さんです。
 
その城間栄喜さんの長男として生まれた
栄順(えいじゅん)さんは、
現在、ご子息の16代目・城間栄市さんとともに
「城間びんがた工房」を営まれています。
 
「紅型」の復興は、
道具を作り直すことから始まった
と栄順さんはおっしゃいます。
米軍が捨てた金切り鋸の刃を拾って来て、
グラインダーで成形し、木の柄をつけて、
型彫り用の刀に使用しました。
 
小銃の弾の真鍮部分の先を
切り落して作った口金を
「糊引き(筒引き)」に使用しました。

 
紅型の糊置用の「ヘラ」は
米軍払い下げのLPレコード盤を切って
作りました。

 
栄喜さんは、どんなものでもいい、
とにかく「紅型」の技を絶やさないことが
大切だと考えて、米軍向けの絵葉書、
暖簾やタペストリなどを手掛けました。
それが米兵の土産物として
少しずつ売れるようになります。
 

 
そして迎えた本土復帰。
沖縄は本土からの観光客で沸き立ちます。
3年後には「沖縄海洋博」も開催されて、
沖縄の物産は更に注目されるようになります。
「紅型」の小物も売れ行きが良く、
職人達の暮らし向きも改善されました。
 

 
その頃、栄順さんはある挑戦をしていました。
「日本のきものを紅型で染めてくれないか」という注文が来ていたのです。
 
「名古屋帯を染めてくれとか、
 振袖を染めてくれとか。
 名前は知ってますよ。
 ただ、どういうもので、
 どういう役目をするものかは分からないし。
 お茶席とか、日本の文化がありますよね。
 そういうものも知らないでしょ。」
 
しかし、もう一度「衣装を染める」
仕事がしたいと、栄順さんは決意します。
 

 
日本と沖縄の着物の間には
大きな違いがありました。
日本の着物は着物を広げた時に
「一枚の絵」に見えるように
袖や背中の縫い目のところで
柄が繋がっています。(絵羽模様)
ぼかしも縫い目をまたがって、
綺麗に染めなければなりません。
 

 
それに対して、沖縄の着物は
縫い目で柄が繋がっていません。
そこが柄の切れ目になるように
デザインされています。
日本の着物を作るには
型紙の作り方から変える必要があったのです。
栄順さんは京都の染物屋に出向いて、
染め方を一から学びました。
 
ところが、父の栄喜さんは
その挑戦に強く反対しました。
その時のことを栄順さんは語りませんが、
息子の栄市さんが栄順さんから伝え聞いた
祖父・栄喜さんの言葉を話してくれました。
 
「もう着物を着る人もいなくなるで、
 日本はどんどん近代化に向かうから。
 もっともっと着物を着る人が
 いなくなるから、
 こういうあの大変で、買う人もいない。
 この仕事はもうやめなさい、
 って言ってたらしいです。
 そして小物作りを続けなさいっていうことを
 言ってたらしいですけど・・・。」
 
しかし栄順さんは挑戦を諦めませんでした。
「紅型」は和服の世界でも十分通用する
はずだ。
認めてくれる人がきっといる思ったからです。
栄順さんはこれまでの「紅型」の決まり事を
変えることにしました。
ショウブの花やしだれ桜・・・、
王朝時代から「紅型」に描かれてきた
これらの柄は意外なことに、
日本の草花か、
そうでなければChina風のものでした。
こうした衣装が日本やChinaからの使節を
もてなす踊りに使われたのです。
 
 

 
ところが、栄順さんはその伝統に
従いませんでした。
沖縄らしい自然の風物を柄に選んだのです。
栄順さんの試みに、批判の声が上がりました。
 
「『紅型』っていうのは、
 変えてはいけないっていう
 世界だったんです。
 元々、父がかなり変えてしまったんです
 けれども、王様の衣類を外に潜るなんて
 とんでもないっていうことで、
 結構批判も受けたらしいんですけど。
 復帰を果たし、日本の中で生きていく時代。
 『紅型』も変わる必要がある。
 そうでなければ『紅型』は滅びてしまう。
 そう思っていました。
 自分達はもう祖先の残したその技を
 どうにか伸ばしていきたいという
 それしかなかったと思うんですよ。」
 
「紅型」を沖縄の人だけのものではなく、
日本中の人が楽しめるものにするという
栄順さんの試みは、
「紅型」の世界を押し広げていきました。
 
 


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今年、88歳の「米寿」を迎えた栄順さんの
記念の作品展が開かれました。
会場に飾られた帯や着物は、
その数は百点を超えました。
紅型に革新をもたらしたと同時に、
和風の世界に新風を吹き込んだものばかり
です。
 
和服と紅型の融合。
栄順さんは今もひたむきに追い求めています。
 
「私も自分で驚いている自分の年でね。
 普通だったら昔はね、70の声を聞いたら、
 ヨボヨボとね、庭いじりぐらいしか
 やらないけど、ピンピン歩いてるから。」
 
復帰から50年。
絶えざる挑戦で飛躍を遂げた「紅型」。
その物語はこれからも続きます。
 
城間びんがた工房
  • 住所:〒903-0825
    沖縄県那覇市首里山川町1丁目113
  • 電話:098-885-9761
 
 
2.知念紅型研究所
(10代目・知念冬馬さん)


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城間家と共に「紅型宗家」であった知念家は、
下儀保村(しむじーぶむら)知念家が
上儀保村(うぃーじーぶむら)知念家が
両家が伝統技術の「知念紅型」を継承し、
伝統を守りつつ制作に励まれています。
 
 


 
知念紅型研究所」は、下儀保村知念家の
八代目・知念貞男(さだお)さんによって
昭和47(1972)年に創設されました。
 
現当主の10代目・知念冬馬(ちねんとうま)さんは
先人達の思いを引き継ぎ、生活の様々な場所で「紅型」を使ってもらいたいと、
仲間達とともに「紅型」を使うジャンルを
広げようとしています。
 


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冬馬さんは、15~16歳から
家業の「紅型」制作を手伝ってきました。
10代後半から京都や大阪、イタリア・ミラノで
グラフィック・デザインの経験を積みます。
冬馬さんは外の世界を知るにつれて、
「沖縄という小さな国に
 物凄い技術があるんだ」と再認識。
「これだけ美しいものが出来るのは
 楽しさしかない」と22歳の時に沖縄に戻り、
平成29(2017)年、正式に工房を引き継ぎました。
 

 
その一つがインテリアです。
「紅型壁掛けパネル」は、
古典柄踊り衣装の柄を使ったタペストリーや
掛軸です。
「琉球舞踊」の優雅な踊りと
「紅型」の華やかな色の取り合わせ。
その美しさは、紅型で描くのが相応しいと
考えたのです。
 
「『沖縄』って、一目で伝えられるような
 ものがいいなと思って。
 人々が『紅型』が目に入る機会、
 人間と知る機会っていうのを
 増やしていこうと思って。
 そこはパネルだろうが、着物だろうが、
 ちゃんと『琉球紅型』って分かるような、
 そういった作品作りを心掛けてます」
 
冬馬さんは、先人達が切り開いた道の上で
自分達は仕事をしている、
そのことをいつも意識していると
おっしゃいます。
 
「職人達は、自分達の仕事がしたいって
 いうのは絶対に変わらなくて、
 どんなに求められるものが変わろうが、
 自分達が『紅型』を作るっていう
 信念だけは絶対に変えませんでした。
 「紅型」がないなら、その「紅型」を
 復興させるといったそれこそ、
 あの城間栄喜先生だとかそういった
 人達っていうのはある意味、
 沖縄を作ろうとしてたのに近いと思うので、
 ずっとリスペクトして作り続けたい」
 
  • 住所:〒901-0153
    沖縄県那覇市宇栄原1−27−17
  • 電話:098-857-3099
 
 
≪参考1≫ 美の壺「琉球の心を映す 紅型」<File 508>

omotedana.hatenablog.com

 
≪参考2≫ イッピン「南国の色と風を映す 沖縄・紅型」

omotedana.hatenablog.com

 
 

3.やちむん

 
「公害」・・・。
それは日本の高度経済成長の暗い一面でした。
それが復帰直後の沖縄を揺り動かします。
 
300年以上の歴史を誇る沖縄の焼き物
「やちむん」の中心地・那覇市壺屋地区では、
「登り窯」を使って、普段使いの器が
盛んに作陶されていました。
ところが那覇市壺屋周辺では都市化が進み、
薪を使って大量の煙を出す壺屋の「登り窯」は、
公害として問題視されることになります。
そして昭和49(1974)年には
「那覇市公害防止条例」が制定され、
壺屋で登り窯を使用することが
禁止されました。

後に人間国宝となる「やちむん」の第一人者、金城次郎を始めとした多くの陶工達は
もうここで焼き物は作れないと考え、
新たな窯場を求めて、那覇から北へ
およそ30kmの読谷村に移り住み、
「登り窯」での作陶を始めました。
これにより、県内二大やちむん産地のひとつ
やちむんの里」が誕生しました。
現在、19の個性豊かな工房やギャラリーが
軒を連ね、作陶を行い、
現在の沖縄焼物の中心地となっています。
 
一方、壺屋に残った窯元も
「ガス窯」などへの転向し、
今も尚、「壺屋焼」を受け継ぎ、
歴史を継承しています。
 
1.やちむんの里(常秀工房)


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常秀工房」の
島袋常秀(しまぶくろ つねひで)さんもまた、
壺屋を飛び出した一人です。
島袋さんは昭和50(1975)年に
那覇市壺屋に「常秀工房」を開窯しましたが、
薪を使った昔ながらの「登り窯」で焼成する
表情豊かな器に惹かれ、
昭和62(1987)年に読谷村
「やちむんの里」に工房を移し、
現在に至ります。
 
島袋さんは50年前に金城さんが作った
「登り窯」の一部を借りて焼成しています。
なぜ登り窯にこだわるのか、
その訳を話してくれました。
 
「何でもないように見えますけど、
 登りだと炎が当たるもんですから、
 生地の赤土の色が茶褐色に
 変化するんですね。
 ただあの透明かけてるんだけど、
 土の色が変化するです。
 やっぱり登りじゃないと
 味わえない世界ですから。
 そういうまあ体感っていうか、
 絶対やりたくてしょうがなかったですね。」
 
2.壺屋焼(「育陶園」高江洲 忠さん)


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一方、壺屋はその後どうなったのか。
高江洲 忠(たかえす ただし)さんは、
壺屋に残った窯元の一人です。
昭和47(1972)年に愛知県の瀬戸にある
「愛知県窯業訓練校」を卒業し、
本土復帰を前に壺屋に帰ってきました。
ところが、その直後に「登り窯」が
使えなくなってしまったのです。
 
高江洲家は先祖代々壺屋に土地を賜り、
「壺屋焼」を作ってきました。
戦前は一時満州に移り住み、
壺屋の地を離れていましたが、
戦後無事に帰還し、
五代目で「現代の名工」となった
高江洲育男さんが「高江洲製陶所」を設立。
「登り窯」が使用出来なくなった時は、
「壺屋のやちむんの火を消してはならない」と
一早く考え方を切替えて
「ガス窯」「灯油窯」を導入しました。
 

 
忠さんは「ガス窯」と向き合い、
その可能性を探り続けます。
壺屋に帰って、まもなくガス窯で焼いた
ビールジョッキの中央には、
壺屋を象徴する絵柄「唐草模様」が
壺屋焼の代表的な技法「線彫り」によって
描かれています。
「線彫り」とは、焼成前に化粧土や釉薬が
丁度良い乾燥状態になったら、
下書きは一切行わずに、
彫刻刀で直接線を掘っていく技法です。

忠さんは、自ら鉄を曲げて道具を作り、
それを使って陶器に柄を入れていきました。
直接線を彫っていため、
生き生きとした仕上がりになりますが、
線が少しでもズレると、
商品価値がなくなってしまう
失敗が許されない技法です。
あれから50年。
工房のやちむんは
「線彫り」が中心になりました。

平成13(2001)年に開催された沖縄サミットでは
忠さんが手掛けた茶碗が晩餐会で使用され
ました。
平成14(2002)年に伝統工芸士に認定されて
います。
 

 
その後、これまでにない
新しい「壺屋焼」を表現するため、
平成21(2009)年には
「guma guwa」(ぐまぐわ)
平成23(2011)年には
「kamany」(かまにー)という
ブランドと実店舗を設立オープン。
県内で最大規模の工房として現在に至ります。
 

 
 
「guma guwa」(ぐまぐわ)は、
忠さんの長女・若菜さんの作品をメインに
展示・販売しているセレクトショップです。
 
お父様の努力を見てきた若菜さんは、
壺屋をもう一度活気づかせたいと思い続けて
きました。
 
「壺屋のことが書かれてる本には、
 今、壺屋では登り窯が
 焚けなくなくなったので
 (やちむんは)読谷に移って行きました、
 終わったみたいな感じがありました。
 私達ここにいますけどみたいな、
 何か寂しさとちょっと悔しさみたいなのが
 ありました」
 
若菜さんが目指しているのは、
現代的なスタイルの「やちむん」です。
出した答えは「線彫り」を強調すること
でした。
「ガス窯」では「登り窯」のように
複雑で深い色合いは出せません。
その代わり、「線彫り」の
クッキリとしたラインは
「ガス窯」の方がよく出ると考えたのです。
専門のデザイナーを交えて模索を重ね、
お皿の色も思い切って一色にしました。

令和2(2020)年7月、「育陶園」では、
忠さんから若菜さんへと
代表を交代したのをきっかけに、
思い切って世代交代を行いました。。
現在、長女の若菜さん、長男の尚平さん、
次男の光さんの三人が力を合わせながら、
壺屋という土地に根ざし、
「壺屋焼らしさ」「育陶園らしさ」を軸に、
新しい「壺屋焼」の表現に挑戦し続けて
います。
現在、壺屋には14の窯元があります。
壺屋地区は今も、「やちむん」の最前線です。
 
 
3.やちむんの里・第二世代
(「読谷山窯」大嶺實清さん)


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沖縄本島中部に位置する
読谷村の「やちむんの里」に
金城次郎さんが登り窯を作ってから6年後、
大きな変化が訪れます。
大嶺實清さん、金城明光さん、玉元輝政さん、山田真萬さんの4人の陶工達が共同で
昭和55(1980) 年に「読谷山窯」を開窯し、
作陶を始めたのです。
 
4人の中に壺屋出身の者はいません。
金城さん達を読谷の「第一世代」とすれば、「第二世代」になります。
 
4人のの中心的存在が
大嶺實清(おおみね じっせい)さんです。
当時、読谷村では、
返還軍用地の跡地利用計画として
「やちむんの村」基本構想が進められて
いました。
 
「読谷山窯」の登り窯は
米軍の不発弾処理場の撤去跡地に
建設されました。
ここで伝統に縛られず、
自由に「やちむん」を創作出来る場所に
するのが大嶺さんの理想でした。
大嶺さんら4名それぞれが資金を調達し、
古民家の解体現場から赤瓦を回収し、
木製の電柱を大量に集め、
琉球石灰岩をあしらって
9 連房の登り窯を築き、
この新しい登り窯を使った
「やちむん」作りが始まります。
 
彼らは弟子達の指導にも熱心でした。
全く壺屋とは出身ではない人達も含めて、
焼き物っていうのをやってみたい人達の指導を行いました。
 
以来40年近くに渡って、
「読谷山焼」の名称で誕生した
様々な作品は全国に届けられ、
「やちむん」のファンは増え、
読谷は「沖縄の陶芸」の中心地と
みなされるようになりました。
 
 
大嶺さんらが作った9連房の登り窯は、
「やむちんの里」のやや奥まった場所に建っています。
その美しい姿は平成23(2011)年度の
受賞するなど、国内外から高い評価を
受けました。
 
 
4.やちむんの里・第三世代(松田米司さん)


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それから更に十二年。
戦前の壺屋王朝時代の「やちむん」に
刺激を受けた4名の親方、
宮城正享・與那原正守・松田米司・
松田共司さんの独立第三世代が
平成4(1992)年に「読谷山焼 北窯」を開窯。
4人の親方と弟子達が共同で
土作り、釉薬作りなどを行ない、
沖縄伝統の手法を受け継ぎながらも、
現在に合った様々な器を作り続けています。
 
「やちむんの里」の中でも13連という
最大級の「登り窯」の火入れは年5回のみ。
作品は年に5回しか焼成されません。
 

 
読谷山焼 北窯」の魅力は
四者四様の作風です。
革新的な技法を試みる者、
伝統に立ち返る者など、
それぞれが自分の理想を追求しています。
様々な表現を可能にしたのは、
自由な空気でした。
 
「イッピン」では7年前に、
第三世代の一人、松田米司さんの
創作の様子を取材しました。
松田さんは、下描きすることもなく
リズミカルに「唐草模様」を描き出して
いきます。
大らかで自由であること・・・、
それは沖縄の人間の気質そのもの。
自分も仲間もここまでやってこられたのは、
それがあったからこそだと
松田さんはおっしゃいます。
 
「考えもなかった。怖さ知らず。
 もう走って気持ちを走っていたので。
 でも一つ信念があったのは、
 沖縄の焼き物はすごいんだ。」
 

 
復帰から半世紀。
ここでしか出来ない表現を求めて、
職人達が開花させた「沖縄の工芸」。
これからもしなやかに逞しく変化し続けて
いきます。
 

 
≪参考1≫ 沖縄県「やちむん」

omotedana.hatenablog.com

 
≪参考2≫ 美の壺「沖縄のやきもの やちむん」<File571>
 
≪参考3≫ イッピン「海・空・大地を器の中に 沖縄・やちむん」

omotedana.hatenablog.com

 
 
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