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イッピン「しっかりフワフワ魅惑の布地 愛知・三河木綿」

<番組紹介>
日本の木綿を材料に作られたバッグが、
パリで人気だ。
強くておしゃれな生地は、「刺し子織り」。
愛知県三河地方で作られる三河木綿。
江戸時代から、人々の生活に密接に関わってきた布として知られる。
「刺し子」は、太い糸を縫い込むことで、
驚くべき強さになる。
その秘密を徹底解剖。
一方、三河地方では、
赤ちゃんの寝具として人気の
ふわふわなガーゼケットも作っている。
「剛」「柔」どちらにも変身する
三河木綿の魅力に迫る。
 
<初回放送日:平成24(2012)年12月18日>
 
 

柔道着で作った丈夫なバッグ
「sasicco」(タネイ)

 
今、「三河木綿」で作られたバッグが
話題になっています。
このバッグの凄いところは、
たくさん物を入れても丈夫な点です。
ハサミを入れても切れてしまいません。
 
 
このバッグ、仏国でも人気を集めています。
セーヌ河近くにある老舗百貨店にも、
このバッグが並んでいます。
 
 
この丈夫なバッグを作ったのは、
愛知県豊川市にある「タネイ」です。
タネイ」は、大正10(1921)年創業以来、
100年に渡って、剣道・柔道・空手・合気道・居合の道着を製造販売をしてきました。
 
昭和59(1984)年のロス五輪・
金メダリストの山下泰裕選手の柔道着も
ここで作られたものです。
仏国は柔道が盛んで、競技人口が50万を
超えます。
 
 
 
平成20(2008)年、100年の長きに渡って
道着と忠実に向き合い、
道着の機能性を追求してきたタネイ
新たに作り出したバッグブランドが
sasicco(さしっこ)です。
sasicco」のバッグには、
現在の道着の主流である、
丈夫で軽く、柔らかい加工が施された
三河木綿の「刺し子織」の生地を採用し、
デザイン・生地の裁断・縫製・
最後の仕上げに至るまで全ての工程を
自社が抱える職人が担っています。
補強や装飾のために、
布地に別糸で刺し縫いをしたものを
「刺し子」と言います。
そんな「刺し子」は、時代の流れとともに
手作業から機械化されるようになり、
刺子の模様が出るように織った綿織物が
開発されました。
それが「刺し子織」です。
厚手で丈夫な木綿である
「三河木綿」を使った「刺し子織」は、
生地に三次元を感じさせる凹凸が生まれ、
耐久性や保湿性、吸湿性に優れています。
 
そのため「sasicco」は、「軽くて頑丈」で
「型崩れしにくい」「持ち運びやすい」
バッグがなんです。
sasicco」は、道着職人の一人が
剣道着を作った余り布をはぎ合わせて製作した
自分のためのエコバッグだったそうです。
職人達がアイデアを出し合い、
納得するまで改良を重ねながら完成、
製品化させました。
 
タネイ」では、パリで販売するのに当たり、
現地のデザイナーを起用。
シックなデザインに生まれ変わりました。
 
 
  • 住所:〒441-0312
    愛知県豊川市御津町西方中屋敷35
 
 

三河木綿の歴史

 
愛知・三河地方は、
木綿の一大産地として知られてきました。
今でも蒲郡市を中心に、
生産業が盛んに行われています。
この地方で織られた綿100%の織物は
「三河木綿」(みかわもめん)と呼ばれ、
伝統と技術が受け継がれています。
 
平安時代の初め頃
愛知県西尾市の「天竹神社」(てんじくじんじゃ)
日本で唯一、綿の神様・綿祖神(めんそしん)
別名・新波陀神(にいはたがみ)を祀る神社です。
 
この神社には、綿の種が入った古い壺が
宝物として大切に保管されています。
これは、平安時代に漂着した小舟に乗っていた
崑崙人(こんろんじん)が持っていたものと
伝えられていて、以来、三河地方で
綿花の栽培が始まったと言われています。
「天竹神社」では、毎年秋、
伝説に因んだ棉祖祭が行われ、
棉打ちを昔ながらの方法で再現されています。
 
平安時代初期に編纂された『日本後紀』に
その事が記されています。
 
延暦18年(西暦799年)の秋、「参河國(三河国)」に1艘の小船が漂着し、その船には袈裟に似た
布をまとった一人の青年が乗っていた。
言葉が通じなかったので、どこの国の人か
分からなかったが、唐人によると、その人は「崑崙人」(こんろんじん)とのことだった。
後にこの青年は言葉を習い、自分は「天竺人」(てんじくじん)であると自称した。
青年は草の実に似た物を持っており、
それは綿の種だと言った。
「天竺人」は川原寺に住むことになり、
後に近江国の国分寺に移り住んだ。
※崑崙人:インド人と言われています。
 
残念ながら、崑崙人が持ってきたこの綿花は、
温かい地域が原産のものであったため、
三河地方の気候・土壌に適応せず、定着しませんでした。
 
日本で初めて綿花栽培に成功
 
三河地方が綿織物の一大産地として
本格的に発展してきたのは、
江戸時代から明治時代です。
 
15世紀半ばに、
明国の綿種が朝鮮経由で改めて伝来すると、
この綿種はいち早く三河地方に伝わり
栽培生産され、商品化に成功し、
全国各地に出荷されました。
 
 
 
「三河木綿」には、「白」と「縞」があります。
「三河白木綿」は 、帆前掛け、半纏、股引、帯芯、足袋底、暖簾などに用いられました。
 
 
「三河縞」は、着物や袋物などの
三河木綿製品の代表的な縞柄です。
 
 
また「刺し子織」は、
柔道や剣道の道着などに用いられた他、
耐火性があるため、火事装束や火消半纏として
用いられました。
試しに線香花火の火種を落としてみると、
生地を少し焦がしただけでした。
 
 
 
京都・西陣で育ち、その後、岡崎に移り住んだ
高木宏子さんは、三河木綿の素朴な味わいに
魅せられ、三河木綿を収集し、
「手織三河木綿保存会」を興されてました。
 
 
高木さんのギャラリーには、
膨大なコレクションが揃っています。
高木さんの自慢のイッピンは、
江戸時代の合羽(かっぱ)です。
歌川広重・作の『東海道五十三次図絵 日坂』
には、合羽を着た姿が描かれています。
 
高木さんのコレクションからは、
木綿が古くから人の生活に関わっていたことが
分かります。
歌川広重・作の『江戸の華』には、
刺子半纏を着て、火事に立ち向かう
江戸の火消し達の姿が描かれています。
 
 
 
明治時代以降
明治時代以降は、日本の織物産業は
近代化していくこととなり、
機械化が進み、量産化が進みました。
 
その先駆けは、豊田佐吉(とよだ さきち)による
動力織機の発明です。
この発明をきっかけに、各地で様々な
動力織機が発明され、力織機が普及し、
綿製品の生産量は飛躍的に増加しました。
 
 

ふわふわの「ガーゼケット」
(ナカモリ)

「三河木綿」は昔から用途に応じて
様々な折り方で作られてきました。
ふわふわの「ガーゼケット」もその一つです。
 
第二次世界大戦が終わると、
衣料不足の影響から綿布は
高値で大量に売れていきました。
昭和23(1948)からの数年間は、
つくればどんどん売れる
「ガチャマン景気」が訪れ、
(ガチャンと織れば1万円儲かる)
蒲郡地方は「ガチャンの町」として
全国的に有名になりました。
 
愛知県蒲郡にある「ナカモリ」は、
そんな「ガチャマン景気」の最中の
昭和26年1月に創業した中瀬織布合資会社の
製品販売会社です。
 
「ガーゼケット」は、
「軽さ」と「通気性」に優れ、
なおかつ洗濯機で洗えて乾きやすい、
取り扱いやすさが特長の製品です。
 
 
その上「ナカモリ」の「ガーゼケット」は、
肌触りが良く、ふんわり柔らかで、
心地良い寝心地を提供してくれます。
「ガーゼケット」を敷いて、50cmの高さから卵を落としても割れませんでした。
 
 
「三河木綿」の持つ柔らかさを活かすために、
一度撚った糸を戻すことで
空気を取り込みやすくしています。
更に一枚の中に、それぞれ太さの違う糸と
織り方が違う6枚のガーゼを織り込みました。
 
 
中瀬さんが試行錯誤を繰り返して
実現させた「六重織」には、
8000本もの糸が使われています。
 
 
最新式の機械を使っていても、
針に糸を通すのは全て手作業で、
専門の職人によってセッティングされて
いました。
 
 

力織機(「創房泰豊」小田豊さん)

 
日本の綿織物業を長い間支えてきた、
豊田佐吉が発明した自動織機により、
日本三大綿織物産地の一つの三河地方は、
その地位を確固たるものにしました。
 
ところが、昭和30(1955)年以降、
厳しい時代を迎えます。
昭和37(1962)年からの
綿製品などの自由貿易化に伴い、
途上国の追い上げが強まった他、
米国の輸出規制の動きも始まります。
昭和50年代に入ると、
次第に東アジアからの輸入が増加し、
業界内での倒産が相次ぎます。
更に昭和60(1985)年「プラザ合意」締結以後、
繊維輸入が輸出を上回るようになり、
国内繊維産業は長い不況に陥ることと
なりました。
 
そんな中でも、機織り工房
「創房泰豊」(そうぼうたいほう)の小田豊さんは
設備投資をするよりも、
豊田佐吉の作った力織機を使って、
今も三河木綿を織り続けています。
 
小田さんは、糸を変え織り上げることが
出来るのがこの機械の魅力とおっしゃいます。
そんな布を求めて、固定ファンが訪れてます。
 

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