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イッピン「どこまでも深い輝きを 〜奈良 螺鈿と貝ボタン〜」

<番組紹介>
奈良時代、日本にもたらされた漆工芸の一つ、螺鈿らでん
その伝統を引き継ぐ
奈良の職人のアクセサリー作りを紹介。
また、同じく貝を使ったボタンづくりの技にも迫る。
奈良時代、中国・唐からもたらされた
華麗な螺鈿(らでん)細工。
やがて奈良に螺鈿の技法を習得した
漆工芸の職人たちが現れ、
今に続く伝統となった。
その一人は、螺鈿をもっと身近に感じてもらおうと
アクセサリーを作っている。
そこに込められた伝統の技を紹介。
また、奈良県川西町は貝で作るボタン、
貝ボタンの生産が盛んなところ。
最高級品の一つ、黒蝶貝から、
つやと輝きを持ったボタンを作る職人の技に迫る。
 
 
 

1.螺鈿(漆藝家・小西寧子さん)

 
漆芸家の小西寧子さんは、
漆芸家で螺鈿の重要無形文化財保持者(人間国宝)であり、
「漆工品修理」の選定保存技術保持者にも認定されている
北村昭斎(しょうさい)さんを父に持ち、
令和3(2021)年7月に
漆工品修理の選定保存技術保持者に認定された
北村繁さんを弟に持ち、
お父様や弟さんとともに、
奈良市西包永町の同じ工房で作業をされています。
 

 
小西寧子さんは、結婚を機に実家の家業である漆工芸を始めました。
寧子さんは、特に漆芸に関心があった訳ではなく、
親から『同じ仕事をしろ』と言われたこともなかったそうですが、
小西さんがご結婚された平成4(1992)年の頃は、
漆芸をする人が急に減った時期であり、
ご両親の仕事も忙しそうだったので、
何か役立てないかと考えたことから、
お父様に師事して本格的に漆芸を始めることになったそうです。
翌年には、「第22回 日本伝統工芸近畿展」で初入選。
以後、数々の日本伝統工芸展に入選されています。
 
現在は、文化財の修理や伝統工芸作品の制作にとどまらず、
漆の漉し紙を使ったコサージュや、スタイリッシュなペンダントなど
アクセサリー制作にも幅を広げていらっしゃいます。
 
《参考》 奈良漆器

omotedana.hatenablog.com

 
 

2.漆芸螺鈿(艸芸廠・山本哲さん)

 
奈良県の北西部に位置する生駒市にある工房「艸芸廠」。
山本 哲(やまもとさとし)さんは、この道40年以上の漆芸作家で、
奈良の螺鈿の第一人者です。
 

 
大学時代に展覧会で人間国宝・黒田辰秋の作品を観て螺鈿の美しさに惹かれ、
卒業後1年の社会人生活を経て、地元・奈良にも螺鈿の漆器があることを知り、
樽井喜之さんに弟子入りしました。
 
黒田辰秋
 
明治37(1904)年)に京都市祇園で生まれ。
幼い頃から塗師である父・黒田亀吉の下で修業。
しかし、漆工芸の分業スタイルに疑問を持ち、
素地作りから加飾までを一貫制作する
独自のスタイルを確立しました。
20歳の時には、
陶芸家・河井寛次郎の講演を聞き感銘を受けて、
「民藝運動」にも参加しています。
生涯、京都を拠点に活躍し、
昭和29(1954)年に日本工芸会理事に就任、
昭和43(1968)年に
皇居新宮殿の拭漆樟大飾棚などを製作、
昭和45(1970)年には木工芸の分野で初めての
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、
翌昭和46(1971)年には紫綬褒章を受賞しました。
 
3年間の修行の後、独立すると、
伝統の技に立脚しながら現代的な表現に取り組み始めます。
そして、独立の年に日本工芸会近畿支部展に入選したのを皮切りに、
以後、様々な賞を受賞されてきました。
 
 

 
山本さんは、夜光貝、黒蝶貝を使ったブローチやペンダントも
製作されています。
夜光貝は白が特徴的で、
些細な傷や歪みがあるだけでもう使えなくなってしまいます。
また作品の表面に模様を施す際にも貝が割れないように、
極細の糸鋸を使用するなど、繊細さが要求されます。
 
山本さんは後進の育成にも力を注いでいらっしゃいます。
研修生の1人、北浦雄大さんは、
大学で漆工芸を学ぶうちに螺鈿の世界に惹き込まれたそうです。
 
 

3.貝ボタン

 
川西町は、大和盆地のほぼ中央に位置し、
大和川・寺川・飛鳥川・曽我川の4つの河川が1カ所に集結して
大和川に注ぎ込む水辺の町です。
かつては大阪からの舟運の集散地として、賑わいを見せていました。
 
川西町で、明治から製造が続く「貝ボタン」は、
全国トップシェアを誇る地場産品です。
海のない奈良県で、
どうして貝殻を使った「貝ボタン」が作られているのでしょうか。
 

 
「貝ボタン」とは、
その名の通り、貝殻を原料として作られたボタンのことです。
日本には、明治20年頃ドイツ人の技術指導により
まず神戸市に伝わり、その後大阪河内を経由して、
奈良県に本格的に伝わったのは、明治38年頃とされています。
 
 
奈良県では江戸時代から農家で綿加工業が盛んでしたが、
この頃になると、木綿織物や養蚕業といった産業は
衰退の一途を辿っていたため、
農閑期の副業として
「貝ボタン製造」が取り入れられるようになりました。
町民の気質が勤勉であったこともあり、
舟運に恵まれた川西町は、
瞬く間に「貝ボタン」製造の中心地になったと言います。
 
現在も全国トップシェアを誇り、質の高い商品を生産しています。
そしてシャツのボタンとしてだけでなく、
アクセサリーパーツなど、様々なシーンで活用されています。
 

 
最盛期は、昭和20年代から30年代頃。
400世帯のうち300軒位は「貝ボタン」の仕事をしていました。
しかし、ポリエステル製ボタンの台頭とともに、
「貝ボタン」製造に関わるのは
町内でほんの10軒程度になってしまいました。
 

 
その中、大正3(1914)年に創業した「トモイ」さんは、
100年以上に渡り「貝ボタン」を作り続け、
「貝ボタン」の国内シェアの50%を生産する、
日本一の「貝ボタンメーカー」です。
 
≪参考≫


www.youtube.com

 
 
 「貝ボタン」の元になるのは、
主に「高瀬貝」「黒蝶貝」「茶蝶貝」「白蝶貝」などで、
「トモイ」さんでは、
南太平洋の美しい海から運ばれてきた、生きた貝だけを使うそうです。
海の中で死んだ貝は
もろい上に、白っぽくぼけた色になってしまうからだそうです。
 
「高瀬貝」という巻貝は、虹色の光沢が特徴です。
ボタンの裏には赤や緑の柄が入っています。
これは貝の外側の柄がボタンの裏の柄になっている為です。
「高瀬貝」は沖縄では食用にもなっているので捕獲量も多く、
安価です。
 
「黒蝶貝」は真珠を作る母貝としても使われており、
「ブラックマザーオブパール」とも呼ばれています。
真っ黒ではなくパール調の光沢があるのが特徴です。
しっかりとした黒さを持つ物ほど値段が高く、
色の薄い物は染色されるので値段は安くなります。
「黒蝶貝」は仕上げに最も時間を要するそうです。
 
「茶蝶貝」も真珠を作る母貝としても使われ、
「ブラウンマザーオブパール」とも呼ばれています。
「黒蝶貝」に比べ、色彩的に温かみがあり虹色に輝く光沢が
特徴です。
 
「白蝶貝」も真珠を作る母貝としても使われ、
「ホワイトマザーオブパール」と呼ばれています。
真珠のような光沢が特徴で、
ボタンの原料となる貝の中では最高級と言われています。
単価は高瀬貝に比べると約3倍ととっても高価です。
 
 「高瀬貝」   「黒蝶貝」  「茶蝶貝」   「白蝶貝」 
 
 
 

 
「ぬき屋」さんが、買いつけ生地をくり抜いた貝を
「トモイ」さんが厚さ別に選り分け、厚みを調整し、
ボタンになった時にちょうど美しい層が現れるように
砥石で表裏を削っていきます。
職人の石野田吉訓さんは縁の色の変化を見極め、
滑らかな黒一色になるように機械で削っていきます。
1日に3000個を削ってきた経験から、
素材を一瞥しただけで削る回数が分かるそうで、
刃で削る音からスピードや力加減を調節していました。
 
ボタンの穴を開けたり、丸みをつけたりした後、
艶を出し、磨きをかけることによって、
滑らかな「貝ボタン」に仕上がります。
そして、必ず人の目で一つひとつを厳しくチェックして、
合格したものだけが市場に流通されます。
 

 
トモイ
  • 住所:〒636-0204
       奈良県磯城郡川西町唐院201
  • 電話:0745-44-0066
 

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