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イッピン「鍋にフライパン、無骨だけど強いんです!町工場のステキなフライパン 埼玉・川口鋳物」

<番組紹介>
埼玉県川口市で生まれた
鉄の鋳物のフライパンが注目を集めている。
鋳物とは金属を溶かし、型に流し込んで作る
製品。
注目の理由は、鉄なのに厚さが2mmしかなく軽いのに非常に丈夫なこと。
このフライパンには、
鋳物作り最高の技術が隠されていた!
その秘密を、俳優・山崎樹範が、
イッピン・リサーチャーとして探る。
 
街を歩くと個性的な鋳物に出会える川口市。
職人の技でどんな形の鋳物も作ってしまう
鋳物の奥深い魅力を伝える。
 
<初回放送日:平成24(2012)年11月6日>
 
 
埼玉県川口市には、
60件程の鋳物工場があります。
 

「Ferramica(フェラミカ)」の
鋳物フライパン

 
東京・丸の内のフランス料理店では、
保温のコントロールがしやすいという
埼玉県川口市で作られた
鋳物のフライパンを使用しています。
 
Ferramica(フェラミカ)」ブランドは、
川口鋳物職人の匠、その技、
モノづくりへの姿勢を再度見直し、
市民、中小企業と一体となって
川口の地場産業活性化を目的とした
川口商工会議所ジャパンブランド事業
「KAWAGUCHI i-mono」ブランドプロジェクト
から誕生しました。
 
使いやすさを追求するために
その道のプロであるシェフや、
主婦の皆さま、川口市民の方々への
モニターアンケートなどを繰り返し、
主婦の齋藤善子さんのデザインが
選出決定されました。
 
鋳物の黒を活かし無駄を省いたデザインは
一見プロの使用するようなデザインで
とても男性的ではありますが、
赤い花のようなつまみがアクセントとなり
女性にも親しみやすいデザインになって
います。
フライパンを製造している
「伊藤鉄工」さんの工場を尋ねると、
キューポラと呼ばれる溶解炉で鉄を溶かし、
半袖の職人さん達が仕事をしていました。
 
それまで「伊藤鉄工」さんでは、
マンホールを作っていました。
フライパンづくりに取り組んだ松本誠さんは
職人さん達から冷めた反応を返される中、
重さを感じさせないフライパンは、
厚さが2㎜だと計算。
しかしそのフライパンを作る技術は難しく、
何度も試行錯誤をを重ね、
プロジェクトが立ち上がって1年後、
厚みを薄くを保ちながら強度を上げるため、
「ダグタイル鋳鉄」という強さと粘りのある
材質を選ぶことによって、
厚さ2㎜、他社の鋳物製調理器具に比べ、
約1/2の重さのフライパンを作ることに
成功しました。
 

国立競技場の聖火台


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昭和39(1964)年に開かれた東京五輪。
入場式が行われた国立競技場の聖火台は、
川口で作られたものです。
昭和33年のアジア競技大会のために
作られました。
 
作ったのは、埼玉県川口市の鈴木萬之助さん・文吾さん父子です。
父・鈴木萬之助さんは当時68歳で、
半ば隠居の状態でしたが、
「私が最後の仕事としてやります」と引受け、
直接の弟子だった三男の文吾さんの二人で、
仕事に取り掛かりました。
 
 
昭和32(1957)年の暮れ、納期まであと3ヶ月。
長男も次男も作業に加わりました。
それから2ヶ月かけて聖火台の型を完成させ、
鉄を溶かしましたが、型は鉄の圧力で壊れて
しまいました。
残された時間は、あと1ヶ月です。
 
更にその1週間後、
父親の萬之助さんが倒れてしまいます。
木型師をしていた文吾さんの弟さんも加わり、
兄弟4人で作業を再開しますが、
なんとその1週間後、父の萬之助さんは
お亡くなりになってしまいました。
それでも大きな工場を借りて、
兄弟4人は寝ずに作業をやり続け、
何とか納期に間に合って完成させた
聖火台に、父に萬之助さんに因んだ
「鈴萬」の文字が刻みました。
 
オリンピックの後、三男の文吾さんは
聖火台が焼けて傷んでいるのをいるのを見て、
毎年10月10日近辺になると、聖火台を
奥様と二人で磨きに行かれたそうです。
 
 


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それから50年。
室伏広治さんがその記事を見て、
文吾さんが亡くなった後、
6年か7年磨いて下さったそうです。
その聖火台は約60年振りに川口市に戻り、
JR川口駅前で記念式典が行われました。
その時も、室伏広治さんが地元の子供達と
聖火台磨きを行い、
その後、トーチで点火されました。
 
 
 

川口鋳物のベーゴマ(日三鋳造所)

 
川口には、昭和40年代に子供達を熱狂させた「ベーゴマ」を今も作り続けている
日本で唯一の工場があります。
昭和28(1953)年創業の
日三鋳造所(にっさんちゅうぞうしょ)です。
 
 
ベーゴマ製造は鋳物職人の
内職から始まったと言われ、
昭和20年代~30年代後半にかけては
子供達の遊びの主流でした。
 
 
日三鋳造所の社長・辻井俊一郎さんは
大学卒業して名古屋の工場で修業した後、
昭和47(1972)年に、叔父さんが社長を務める
日三鋳造所に入社しました。
新人の辻井さんが最初に任された仕事は、
「ベーゴマ作り」。
その頃、既にベーゴマ遊びは下火で、
製造を続けているのは日三鋳造所だけでした。
 
「ベーゴマ作り」は、意外と手間が掛かり、
技術も必要なのに安価で、100万個売っても
儲けにならないという、割に合わない商品
でした。
 
平成10(1998)年、遂に、日三鋳造所も
ベーゴマ製造廃止に追い込まれました。
工場を閉鎖し、ベーゴマの灯は消えました。
それを知ったベーゴマファンから社宛に
「製造をやめないで!」という声が殺到。
 
 
辻井さんは社長と相談して、キューポラを
残している別の鋳造所へ製造を委託し、
ベーゴマ作りを続けることにしました。
平成12(2000)年からは販売を再開し、
ベーゴマの灯は守られることになりました。
 
それから辻井さんは、叔父さんから
会社を受け継いで、三代目社長に就任。
今も日本で唯一のベーゴマ製造会社として、
他のものは作らず、ベーゴマだけを
作り続けています。
更に、ベーゴマの灯を消さないために、
愛好者も増やさなければと、
平成13(2001)年に「川口ベーゴマクラブ」を
立ち上げて、定期的に市内の公園で大会を
開いている他、全国に指導者の派遣も
行っています。
 

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